幹
どれほどそうやってぐったりしていただろうか。ふと健人は背後に風圧を感じて、少しだけ体を起こし振り返った。
ビビさんだった。普段通りの格好で、施設の外の自販機から買ってきたのだろうか、甘ったるいミルクティー入りのペットボトルを携えていた。
視線が合ったのを感じ、彼はひょいと片手を上げようとして、しかし健人の顔を視界に収めたことでその手の代わりに眉が上がった。
「おい大丈夫か。ひでえ顔してんぞ兄ちゃん」
一目で看破されるほどに自分の顔色は悪いのか、とまた少し落ち込む。
「……お部屋にいてくださいと指示はあったと思うのですが」
「そらそうだけどもな、俺も結構塞ぎ込んだんだぞ、そっから部屋に缶詰めにされちゃあ息も詰まるわ。んでちょっとばかし逃げ出してきたところで、若いくせして俺よりふてくされてやがる男が目に入ったもんだから、まあ声でも掛けてみるかと思った訳よ」
「なるほど。まるで私の方がケアを受けてるみたいですね……」
「だなぁ。ま、普段誰もが頼りにする相田君がこのザマじゃあ流石に気にもなるさ。この前の時は気張ってたろ、今日はどうした、ええ?」
彼の言葉に返事をする必要があるが、果たして何を言えば良いのだろうか。
というよりも、何を言うことが許されるのだろうか。「私は貴方たちを助けるか自分を守るかで悩んでいます」、などと言い出せるわけがない。
あまりに様々な悩みが重なり合い連なり合っていて、疲れ切った健人にはそれらを瞬発的に一つ一つ解くことは到底叶わなかった。
「……色々ですね。本当に、色々です」
「おうおう、明日にも死ぬかもしれないこんな老いぼれにも語れない悩みがあるってんのか」
「深くは聞かないで欲しいです。この数日でいろんなことが起こりすぎました」
「そ、そうか」
ビビさんは、こりゃマジもんだな、と小さく呟いて、少し考え込む様子を見せた。直後、彼は何かに思い当たったのか顔を上げた。
「あー、あれか、奥さんのことも入ってんのか」
彼の思うところとはおそらく異なりはするが、花菜との関わりも悩みの一部自体ではあるので、健人は彼の問いかけに対して曖昧な態度をとった。それを見て、ビビさんはばつの悪そうな表情を浮かべた。
「良いんですよ、気にして頂かなくても。私個人の問題なんです」
「まあ、なんだ、他人様の夫婦事情に首を突っ込んだ俺が悪かったさ。すまん。上手くやってくれ」
気まずい沈黙が降りた。
ビビさんは口を開きづらそうにしてこそいたが、しかしこの場を離れるつもりもないようだった。
健人は彼の態度に甘えて、悩みの内の一部だけを、全部は明かさないように気をつけながら、口にしてみることにした。普段なら入所者には気丈な姿を見せるべきではあるけれども、今なら沈痛な思いから溢れる言葉も多少は受け入れられる気がした。そして、なにか彼の心持ちが、ひょっとすれば自分の悩みを解決する為のヒントになればいいな、という願いがあった。
「タカイさんをご存じですか?」
たっぷりの時間をおいてから発せられた質問に、ビビさんは一瞬ほっとしたような表情を浮かべ、そしてすぐに真面目な顔になった。
「んー? あぁ、あのカラスの。顔は見たことないが名前は知ってんな。まあ、その……皆知ってるな」
最後に付け足された一部分に込められた意味はよく分かった。健人はそれを気にしないように努めた。
「彼女を亡くしました。彼女は私にとっては大事な存在でしたから、私にはとても悲しいことでした」
それを正直に悲しむことができないのが辛いのです、と口に出さずに頭の中で続ける。
端的な表明が終わったことを察知して、ビビさんは健人の肩に手を回した。
「そうか。……俺も仲の良かった奴らを何人か持ってかれたな。俺だけ生き残ったって何も楽しくないってのによ」
「それなのに元気でいらっしゃって、本当にビビさんはお強いですね」
「元気だぁ? んなこたあるか、これでもそれなりに堪えてんだぞ。それにまた三日もすりゃ三回目だ、いつ死んだっておかしくねえしな」
肩に乗ったビビさんの手に力が入ったのが分かった。明らかに踏み違えてしまったようだ。
「……すみません。本当に疲れているみたいです」
「そうだな。さっさと帰って奥さんに慰めてもら……ああいや、なんでもない。忘れてくれ」
ビビさんも酷いじゃないですか、と半ば自動的な反応で言い返しかけた時、健人は彼の顔に浮かんでいる表情が単純な申し訳なさからくるものでないことに気が付いた。
失敗の等価交換によって、健人が一人で失敗を抱え込んでしまうことを防いでくれたのだろうか。本当にそうだとすれば、ビビさんなりの思いやりなのかもしれない。回りくどいが。
ビビさんは健人が何かに気が付いたと察したのか、ニッと口角を上げて健人の背中をバンバンと叩いた。
「相田君はな、なんか生きる目標を見つけてみたら良いんじゃねえかな。結局過ぎたことはもう過ぎたのよ。今の俺たちにできることは今ある物を必死こいてかき集めて、無理にでも力にして未来に進むことだけよ。死んだタカイさんもお前が苦しむのを望んじゃいないさ。前向け、前」
今ある物をかき集めて、未来に進む。
僕の中にあるものは、なんだろうか。
父親のこと、花菜の優しさ、それとタカイさんの託してくれたもの。
ふと、胸ポケットに入れたままだったメモのことを思い出し、健人はそれを取り出して眺めた。
「何だそれ」
「……なんといえば良いですかね。彼女の遺品、みたいなものです」
「兄ちゃんが持ってて良いのか?」
「彼女のものだったという訳でもないので、まあ問題にはならないと思います。見ますか? ただのメモですよ」
健人は折りたたまれた紙切れをビビさんに手渡した。彼はそれを神妙な面持ちで受け取り、「開いて良いか」と健人に聞いた。
「どうぞ」
四つ折りのメモはそっと開かれて、ビビさんが隅々まで目を通すのを受け入れた。
「何だと思えば、本当にただのメモだな、こりゃ。薬のことしか書かれてねえや」
「そう言いましたよ」
ビビさんが鼻を鳴らす音が大きく響いた。
「不躾かもしらんが、興味がある。なんでこんなものを持ってるんだ?」
ビビさんの手の中で揺れる白いメモ用紙に、今朝目にした蒼白なタカイさんの姿が重なったような気がした。
「彼女との約束を果たすため、ですかね」
「約束?」
「はい。タカイさんがあの部屋にいたことを覚えていなくてはならないんです。それが彼女の遺言であり、そして私の望むことでもあります」
タカイさんとの約束を果たすために、彼女のことをいつまでも覚えておくために、部屋の机の上から持ち出したそれ。
彼女が最後まで立派に生きたのだという自負を健人に託すきっかけとなったもの。
「そうか」
ビビさんは短く言葉を発し、何か思うところがあったのか、そのまま欄干に身を預けた。
少しの沈黙があって、そして彼は唐突に語り出した。
「俺はまだ遺言だなんだを形にする気にはならんな」
「それはまた、どうしてですか」
そっと聞くと、ビビさんはふぅと息を吐いた。
「神は只一つしかいないってのは俺たちの信仰だが、まあ奴らの信じる神サマ悪魔サマってのは両方共間違いなく、神とは似ても似つかない悍ましい別の何かだ。よって、そんな存在に誑かされる奴らにはいい加減そろそろ神罰が下る。それを見届けてからでないと、先に死んでいった皆に報告できねえよな」
両の目に光が灯っている、そう錯覚されるほどに力のこもった言葉だった。
「今はな、きっと警察が全部を解決してくれるって思うことにしたんだわ。あいつらは無能だと思ってたが、ここに来て突然ギデオンのアジトを見つけたんだ、それなら他の拠点が見つかるのも時間の問題だろ?」
ギデオンのアジト、というフレーズに健人は凍り付いた。
「……そう、かもしれませんね」
少し時間をおいて心を落ち着けてから、健人は呟くように返した。
同意を求める問いかけに対しすぐに口を開くことができなかったのを、どうやらビビさんは柔らかな否定と受け取ったらしく、彼はやや自嘲的に笑った。
「……どうだ、こう考えれば俺が元気に見える訳がちったあ分かるんじゃねえか? 俺は奴らに屈する訳にはいかねえ。死ぬときか事件が終わるときまで堂々生きてやるのよ」
既に彼は進むべき道を定めている。あと一週間もないかもしれない命なのに。
美しい生き様だと素直に思った。彼のように誇り高く最後までいられるような存在は、決して多くはないだろう。
それに対して僕はどうだ。
全ての苦しみを終わらせられるかもしれないのに、自分の感情を理由にして、花菜に甘えて、その道を絶つことを望んだ僕がいる。それなのに、同じ僕はタカイさんを失ったことを嘆き悲しもうとしている。そんな権利は僕にはないのではないか。
そのようなことはないはずだ、タカイさんは僕にとって大切な人であったのだ、彼女は記憶がないというのにまるで全てを悟っていたかのようなタイミングで僕のことを見つけ出して縋ってくれたのだ、この思いに陰りが入る謂れはないはずだ。そう自分に言い聞かせ、やがて逡巡が巡り巡って終わらない沼に陥ろうかとすれば、ふと「僕はこうやって嘆くことで自分を悲劇の中のちっぽけな救いのない存在として描写して、全てから逃げ出したいだけなんだ」と自分の心を外から観察する冷静な自分が現れる。
だったら、逃げ出さないのなら、神路に勲のことを突き出すべきなのか?
分からなかった。そうすることが合理的だという結論は、とっくの昔に出ていた。大勢の命を助けることは絶対的に正しい。一方で自らの破滅を受け入れられない自分の『自然な』心があることに気付いてしまった今、機械として在りたくないという根源的欲求に突き動かされる健人には、それを自ら踏みにじることもできない。
逃げ場のない思考の迷路でもがき続けている。
「どうしたら、そんな風になれるんでしょう」
醜い生き様だ、と思った。
だから、その問いは自然にこぼれ落ちた。
「どうしても、分からないんです。こうあるべき、こうするべき、そういうのが全部全部僕のことを別の方向へ引きずろうとして、進む道が一向に定まらないんです。そのくせして時間だけは進み続けて、あと三日もすればまた大惨事が訪れる。安息の地があるというのなら今すぐにだってそこに逃げ込んでしまいたい、けれど、そうすることで僕は永遠に消えない穢れをこの身に背負うことになる。それが怖くて仕方ないのに、でも何をできる訳でもない。ねえビビさん、僕は一体どこに進めば良いんでしょう」
健人は救いを求めた。強さを感じさせてくれたビビさんなら、もしかすれば、という淡い期待があった。
「……相田君の幹は何だって話をしたよな、覚えてるか」
「はい」
「これはそういうことじゃねえのか?」
ビビさんがおもむろに手を伸ばし、健人の注目を惹いた。そこには渡したままだったタカイさんの処方箋が握られていた。「柄じゃねえんだがなぁ」という小さな呟きが聞こえ、それにわざとらしい咳払いが続いた。
「良い奴だよ、相田君は。皆から頼られるばかりか、皆に平等に心を配ることができる。不平不満を垂れるところを誰も見たことがねえ。ハッキリ言ってお人好しが過ぎる」
何の話をするかと思えば、褒めているのか、それとも貶しているのか。
「そんな相田君が、俺の知る限り初めて、たった一人の入所者に肩入れしてるんだ。何か思うところがあったんだろ、違うか?」
言われてみれば、そうかもしれない。
「もしカラスの女が兄ちゃんの悩みを知っていたら、そいつはなんて言うと思う?」
もし、タカイさんがここにいたのなら。
なんて言うのだろう。
「……少し、時間をください」
健人は記憶の世界に身を委ねた。
感傷に任せて彼女との思い出を巡っていけば、健人の頭にはいとも簡単に彼女の教えが蘇った。
”終わり方”。
それを思い出したとき、小さな何かと何かが健人の中で繋がり、そしてその衝撃がすぐに他の接続を次々に連鎖的に巻き起こし、大きな波紋となって彼の頭の大きな部分を覆った。
「それが相田君の幹だろうさ」
するり、と差し込まれた響きが静かに染み渡る。健人は自己の変容する感覚に思わず身震いして息を飲んだ。
波紋が薄れて消えていき、その跡には、完璧なまでにクリアとなった思考の下地があった。
そうか。
そうだ。
僕が、僕自身が、人間として人生を生きたことを高らかに謳い上げればいいのだ。それは僕がアンドロイドとして育ったからとかに揺さぶられないものだ。
タカイさんが教えてくれたじゃないか。例え作られた心であっても、誰かに定められた選択であっても、僕が誇り高く自分の道を選びとって生きたことを、胸を張って宣言すればいい。
こんな僕のままで終わってしまったなら、それこそ、僕は自分に誇りを持って終わることができない。
「メモを、返していただけますか?」
「あいよ」
震えを忘れた左手でメモを受け取り、一度眺めてから胸ポケットに仕舞い直す。
きっと、僕はこれまで失わないようにしてきたものを何か切り捨てることになる。それは父の愛かもしれないし、僕の願いかもしれないし、花菜の祈りかもしれない。
それでも、真っ直ぐ前を向いて誇り高く進み、そしていつか人として生を終えるために、僕にできることは、ただ一つだ。
解放事件を解決すること。
父は本当に悪人なのかもしれない。その可能性はあまりにも高い。でも、もう迷う必要はない。彼の業は僕のことに何の力も及ぼさないと分かったのだから。
大切に思うことができる未来の端緒が、ここに在るのだから。
帰ったら花菜に神路さんとの面会について相談しよう。今度は、自分の意思で。
「ビビさん」
「おう」
つい先ほどまでの健人と同じように欄干に寄りかかる姿勢をとっていたビビさんは、健人の中に起こった変化を見てとって小さく笑った。
「決めました。できることをやってみれば良いんですよ。そう思えば簡単なことでした」
「良い面になったじゃねえか。見違えるぜ」
「ええ。ビビさんのおかげです。ありがとうございます」
ビビさんは照れを隠すように鼻をぽりぽりと掻いた。
「若造を一人叩き直すくらいどうってことねえよ」
「若造って言っても、私ももうじきアラサーですけどね」
「それでも俺の半分にすら届かないんだぜ、若造に決まってんだろ。ガキと呼ばれないだけ感謝しとけ」
「そうですか」
健人は愉快な気分になったので、逆らうことなく笑みを浮かべた。素直に笑うことができたのは久しぶりだった。
ひとしきり笑ってから、健人は大きく息を吸って、心を決めた。
「ビビさん、きっと、きっとこの状況はすぐ良くなります」
真剣な顔で決意を口にし、揺るぎないものにする。
「だから、もう少しだけ頑張ってください」
「解放事件が解決するってか? は、お前よか遙かに前からそう思ってらあ」
そういってビビさんは朗らかに笑い、つられて健人も笑みを浮かべた。
心に決めた思いは正確にはビビさんに伝わらなかったが、しかし健人にとっては決意を口にすることができた、それだけで十分だった。
健人はベランダから廊下に戻り、投げ置かれたまま風に吹かれてあちらこちらに散らばっていた書類を拾い上げた。
「ありがとうございました。そろそろ仕事に戻りますね。ビビさんも早いうちにお部屋に戻ってください。担当が怒られます」
「へいへい。元気になったと思ったらすぐ仕事か。ま、お前も頑張ってな」
すっかりぬるくなってしまったであろうミルクティーに口をつけて、ビビさんは健人の言う通りに自室に繋がる階段の方に去って行った。それを感謝の気持ちで見送ってから、健人は歩き出した。
全てに整理が付いた、というすがすがしい感覚があり、健人はそれを何度も確認して、噛みしめた。この思いが間違いなく自分自身の決意であるのだという実感自体が、健人にとってはこの上なく嬉しいものだった。




