無機質
辿り着いた終の住処の中は、想像していた光景とは違い驚くほどに落ち着いていた。どこか遠くから恐怖に泣き叫ぶ声が聞こえはしていたが、職員たちはそれに気をとられることもなく小走りであちらこちらに明確な目標を持って動き回っており、三日前のような天を地に地を天にといった混乱はどこにも見られなかった。
経験とは人をここまで強く、ある意味では無感覚にするのか、と半ば慄きながら、健人は近くを通りかかった職員に声を掛けた。
「お疲れ様です、何をしたらいいかとかそういった指示はありますか?」
「集会場にこの前みたいなホワイトボードが置かれてます!」
「ありがとうございます」
「いえ!」
手早すぎる状況対処に舌を巻きながら、健人は言われたとおり集会場へ向かった。
ホワイトボードには、未だ事件の直後ということもあって、実に様々な支援の要請が、整理もされず、ある種の必死さを帯びた字で書き殴られていた。
一度全ての仕事に目を通し、重要度の高そうなものから手をつけることにする。例えば、遺体の安置室への運搬。被害者の名簿は直接人の目に映らないよう裏返して貼ってあったので、それに手を伸ばしてマグネットを取り外し、近くに入所者がいないことを確認して紙を裏返した。
フロア別に分けられたリストには、既に上から四分の三くらいまでチェックマークが入っていた。そのマークを目で追い、次に運ぶべき人間を確かめようとすると、背後に職員の気配が近づいてきた。
「すいませんそれちょっといいすか」
「あ、はい」
その職員に名簿を手渡すと、彼はホワイトボードに貼り付いていたペンを手に取って近くの壁に名簿を押しつけた。おそらく一人分の名前に新たにチェックマークが書き足される音がして、そして彼はホワイトボードに名簿を貼り直した。
あの、と声を掛けた健人に向かって、彼は気怠そうに返事をした。
「ええと、タカイさんを任せていいっすか。自分は四階に行くので。運ぶときはシーツでくるんで、顔が周りに見えないようにしといてください」
「え?」
一気に血の気が引いたのが分かった。手を強く握りしめることで動揺を殺しながら、耳に届いた信じたくないその名前を口にする。
「タカイさん、ですか?」
彼は「はあ」と怪訝な顔をして、再度名簿を確認してから健人に向き直った。
「はい。ああ、担当してたんですっけ。マジで今までお疲れ様でした」
健人の胸元にある名札に視線を落とした彼の言葉には、いくらかの同情と、そして労いの成分が多く含まれていた。彼女の死を悼む気持ちは感じられなかった。それを感じ取って、健人の拳は彼に見えない場所で更に強く握られた。
彼は、きっとタカイさんの部屋から漂う臭いを毛嫌いしていて、彼女の担当をしていた健人も同じだと思い込んでいるのだろう。大体の職員は彼と同じような考えでいるのだから、ある意味では彼の態度は正しい。わざわざ指摘して彼の気分を害することも、ないだろう。
「……はい」
「じゃよろしくお願いしますね」
行き場のない憤りを、健人はしっかりと隠し通した。気取られることもなかった。
彼は軽く頭を下げて、階段に続く廊下の方へ走っていった。何をすることもできずただ彼の姿が小さくなっていくのを眺めているうちに、他の職員が邪魔だとばかりにホワイトボードの前に立ちすくむ健人のことを押しのけたので、それで健人は我に帰り動き出した。
通い慣れた三階の最奥の一部屋からは、今日もいつものようなにおいがした。部屋に入るまで、ともすれば彼女が静かに横たわるベッドを目にするまで、普段のままに「おはよう、お兄さん」と声がかかるものとすら錯覚された。強い臭気は壁に染みついていつまでもここに彼女が生きた証を示そうとしているようで、その実、いつかそれほど遠くない未来に新たな部屋の主を迎え入れるべく、完璧に拭い去られる運命にあった。
朝の光というにはやや強さを増しすぎた陽光が差し込み、血の巡りが止まったことで血色を失った彼女をまばゆく照らしていた。眠っている間に命を奪われたのだろう。彼女が最後に自らの顔に刻むことになった表情は、とても穏やかなものだった。きっと、彼女は二人の息子や夫と同じように、苦しむことなく息を引き取ったはずだ。
質素な生活を送っていた彼女が使っていた数少ない家具の一つである小さな机の上には、彼女がいつも読んでいた本と、健人の手書きのメモ、そして昨晩に処方されたであろう一粒分だけ欠けたトローチが残っていた。健人はメモだけを拾い上げて、折りたたみ、胸ポケットにしまい込んだ。
物足りなかった。彼女の視線がないのをいいことに、健人はもう少しだけ、彼女がこの世に遺した物を探すことにした。
備え付けのクローゼットの奥隅には何着か彩度の低い服がたたんで仕舞われていた。彼女はいつも施設が配る作務衣を着ていたから、それらは健人にとっては彼女の知らない一部分だった。
冷蔵庫の中にはどこかのお土産らしいゼリーが食べさしの状態で残っていた。彼女は甘味が好きではなかったはずだ。彼女のことを見舞いに訪れるごくわずかな人間からの好意を、彼女は無下にすることができなかったのだろうか。
テレビ台の引き出し棚の片方には、彼女の家族の集合写真が入っていた。どこか田舎の河原で撮ったらしいその写真に写るタカイさんは、当然のように健人が知る姿よりも若く、そしてより人なつっこい雰囲気がにじみ出ていた。彼女の家族は、みな彼女より背が高かった。中でも歳を食っている白髪混じりの男性が彼女の夫で、背丈の同じくらいである二人の青年のうち、左手の薬指に指輪をはめている方がきっと上の息子で、もう一方のシャツの胸の生地を張り出させている方が下の息子だろう。
その写真をしばらく眺めて、家族とともにいるタカイさんの姿を想像した。特に目的もないその行動にいくらかの時間を割いた後、健人は引き出しを閉じた。満足ではなかったが、不足を埋めることができないのは分かりきっていた。
彼女の遺体にシーツを被せ、上体と膝を起こし、担ぎ上げる。そのままその身体を医務室横の遺体一時安置室に運び下り、そしてできる限り丁寧に小さな箱の中に横たえる。タカイさんの遺体は、小さな箱の中で重力に引かれ、空気が抜けた風船のようにへたっていく。すぐに彼女の抜け殻は音もなく動きを止めた。その無機質な過程は、一つの尊い命が失われたのだという痛烈な実感を健人に与えた。
「……どうか、安らかにお眠りください。ありがとうございました」
信じる神も身寄りもない彼女のことだ。明日か、遅くとも明後日までには、火葬場へと運び出されるのだろう。
健人は彼女と本当に最後の別れをし、そして別の仕事に向かった。一人で悲しむ時間を作るだけの余裕は、この施設の中にはまだなかった。
ギデオンの右手から犯行声明が発出され、それが広まったのは昼前のことだった。
[ ギデオンの右手より 報道機関各位
我々は既に宣言したとおり、悪魔様の下命により、神によって枷を掛けられた人類に自由を与えるべく第二次解放作戦の第二フェーズを実行に移し、これを成功裏に終えた。日本ブロックに住まう皆様方におかれては、すでに貴方たちの手の届くところにこれまで我々が手にできたはずの当然の自由の萌芽が育まれていることを感じていただけているかと思う。
我々は第二次解放作戦第三フェーズに向けた準備に邁進していく。人類が奪われた、進化の過程で勝ち取ってきた美しく輝かしい自由が、近い未来に再び人類の元に還るだろう ]
三日前よりはやや短くなった声明文は、しかし三日前のそれと同じだけの効力を持って、人々の心に暗い、暗い影を落とした。
さらに多くの入所者を亡くした終の住処には、最早僅か一週間前と比べて半分にも満たない数しか生き残っていない。そして、その殆どが、いよいよ目前に迫った死と向き合うことを迫られ、ある者は塞ぎ込み、ある者はむせび泣き、ある者は家族と抱き合って別れの挨拶を交わしていた。
そういう光景を延々と目にしていると、昨日の夜のことが幾度も思い起こされ、背負うべき責任を捨て去ろうとしているという事実が心を酷く締め付ける。その中で、入所者のメンタルケア、落命現場の後始末、遺品の片付けを、生き残った入所者を怯えさせることのないよう、全て平気だという表情を顔に貼り付けながら、粛々と進めていく。
流石に限界があった。三時を過ぎた頃に、健人は衝動的に近くの中庭を望む窓からバルコニーに踏みだした。外の空気を大きく吸い込み、そして全身から力を抜いて欄干に体を預ける。
背後には未だに片付けられなければならない業務が積み重なっていたが、頭と心がどうしても休眠を欲していた。




