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機械と愛と烏  作者: 諭吉
二章
14/45

『自然な感じ』

 その後、予定よりやや遅い時間に健人は家に帰り着いた。

「ただいま」


 上着をクローゼットに収めシャツのボタンを外しながら廊下を歩いていると、洗面所の中から水音と微かに石鹸の香りがした。既に真夜中に近い時間であり、普段なら花菜はとうに入浴を済ませて眠りに就く支度に入っている頃合いだった。どうやら彼女の方も今日は仕事が長くなったのかもしれない。


 冷蔵庫の中に丁度半分くらいの量が食べられた後のスパゲッティが乗った大皿を見つけたので、それを温めて夕食としているうちに、花菜が風呂から上がってきた。


「おかえり、忙しかったの?」

「仕方ないさ。それに花菜もでしょ? ご飯ありがとうね」

「まあまあ? どっちかと言えば私個人の都合なんだけど。ご飯は伝わってたみたいで何より」


個人の都合、というのは不思議な表現だった。


「なんかあった?」

「いや、ちょっと健人のお父さんのことで考え事してて。そう、そのことなんだけど、ちょっと時間ある?」


花菜が口にしたトピックのおかげで、彼女の考え事から発展するこれからの話が真面目なものになることはすぐに分かった。頷いて肯定の意を示すと、彼女は「ちょっと待ってて」とキッチンに走って行って、冷蔵庫から冷えたお茶のポットとグラスを二つ持って帰ってきた。


「どうしたの?」


 質問に対して、花菜はんー、と返事にならない音を発しつつグラスに二人分のお茶を注ぐ。その後一度天を仰いでから、ようやく決心が付いたのか結んだ口を解いた。


「そのね、津山の研究所の話なんだけど。あれ私のお父さんに相談してみない?」

「……ああ、そういう」


 警察の上層部にその身を置き、この事件にも中心となって関わる花菜の父親。なるほど、彼に相談することは確かに事態を一気に進展させうるだろう。とても合理的だ。


 とても合理的だ。

 だが、それを認めるのには短い時間の逡巡ではとても足りなかった。警察に相談する、というのは、父親のことを犯人として扱う、という宣言と変わりない。


 少しの静寂が食卓に訪れた。それを解消するのは自分の責任だろうと感じたのか、花菜は手に持ったグラスを揺らして水音を立てながらおずおずと口を開いた。目線がふらふらと宙を彷徨っているあたり、彼女にも迷いがあるのだろう。


「その、誤解しないで欲しいのは、別に私は勲さんが犯人だって思ってるわけじゃないってことで、ええと、あの人はすごく良い人だったし無実だって信じてるけど、何か噛んでる可能性はやっぱりそれなりにあると思うの。ここしばらく音信不通ってことも含めて、その……怪しいって言うべきだと、思う」


 健人が最も信頼する存在から告げられた「怪しい」という言葉は、覚悟こそしていたもののやはり健人の精神にそれなりの蝕みを与えた。


「いいんだ、別にハッキリ言ってくれても。僕も今朝からずっと親父のことを色々調べてたよ。結局真相に近い場所にいる可能性が高いのは間違いないだろうしね」

「……ごめんなさい。どう言いだせば良いのか分からなくて考えてたらこんな時間になってて」

「いや、花菜が謝ることはないよ。悪いのは全部テロの首謀者たちなんだから」


 テロの首謀者たち、という区分には、勲のことは含めない。少なくとも、今はまだ。

 花菜は健人の返事に一瞬だけ苦い表情を浮かべた。きっと彼女も健人の言葉に込められた意思に気が付いているのだろう。


「それで、話を元に戻すと、お父さんならひょっとすれば勲さんの居場所を調べることができるかもしれないって思って。あの人のことだからきっと健人と勲さんの骨までしゃぶるみたいにしてあらゆる情報を絞ろうとするだろうから、事件の解決に役立つと思うんだ」

「それは勿論そうだろね」

「あれから連絡は送ってみたりした?」

「仕事中に送った。まだ返事はないよ。来ると良いんだけど」

「そっか」


 一応だけど、といった具合に交わされた確認と否定を経て、花菜は顔を上げた。彼女が手でもてあそんでいたグラスの動きが止まった。


「違うなら違うでもいい。とにかく、勲さんのことを知らないと何も分からないんだから。だから、私のお父さんと話をしてみない?」


 どう? と言って口を閉じた花菜の視線は、さっきまでとは違い健人の顔を真っ直ぐ捉えて動かなかった。彼女はきっと言いたいことを言い尽くしたのだろう。だとすれば、返事をしなくてはいけない。朝から考えないようにしてきたことに真正面から向き合う時が来たのだ。


 ギデオンの右手の愚行に、勲が関わっているのか?


 ありえない、とは思う。正義感に溢れるような人間ではないにしても、彼がギデオンの悪事や悍ましい理念に対して明白に反発する姿を健人は小さい頃から何度も目にしてきた。何より、彼は大きな夢を共にしたたった一人の大切な人を、他でもない彼らの手によって奪われているのだ。そんな過去を背負った上で彼らの手先に墜ちるというようなら、それはもう真っ当な精神を持った人間の所業ではないだろう。


 ただ、あらゆる希望的予想を巡らせたところで、たった一つの事実が全てを遮る。何らかの悪意の下に建設された、あの白い研究所。間違いなく、二十数年前まで勲はあの建物の中で何かをしていた。

 そして、健人にはそれを「何か」としか表現できないのだ。ちゃんと考えてみれば、確かに健人は父親がどんな仕事をしていたのか、今まで興味を持ったことすらなかった。収入を尋ねたことも、仕事場に入ったこともない。何故か、彼の人生の中で「父親の仕事」という一点だけが不自然にぼやけている。


 一度昼間に打ち消した、勲の手による記憶や情動の改竄という恐ろしい可能性が、再び健人の頭をよぎった。確かにそれは現実的ではないかもしれない。だが理屈としては可能なのだ。健人の精神は全て電子的な二進数によって表現されるようにできていて、それを設計した一人が勲だ。


 もし、本当に彼が息子の頭に手を加えていたとしたら?

 答えは簡単だ。健人は自分自身の全てを信頼できなくなる。自身が持つ記憶はおろか、それらが形作る経験としての人格まで。



それが分かったとき、きっと僕は。



「……嫌だ」

「え?」


 花菜が「考えもしなかった」というような顔を浮かべたので、健人は自分が本音をこぼしてしまったことに気が付いた。


「あ、いや、なんでも」

「どうして?」


 嫌、というのは勲について警察に報告すること自体に言及したわけではない。もっと、自分の中の奥深いところでの恐怖が外にあふれ出たものだ。

 本当に勲が犯人だった時に訪れるであろう絶望を、そしてその絶望に至る道筋が真っ直ぐに見えていることを、健人は恐れた。それは言葉にするにはあまりにも悍ましく、自分を守るために健人はその葛藤自体を忘れようと決めた。

 きっと勲は無実に違いない。そうだ。


「今のは忘れて」

「忘れてなんて、それは無理だって。嫌なの? どうしても?」

「いや、僕が捜査に協力するのは理屈として通ってて、それは分かる。嫌ってのは、そういう意味じゃない」

「じゃあどういうこと?」


 コミュニケーションがうまく行かず、彼女は悲痛な顔をして、必死に健人に問いかける。彼女の心の内は何を言われずともわかる。沢山の人の命が危険にさらされていて、その解決に向けた糸口がここにあるのだ。



(――――あ)



 彼女の抱える願いを推察したことで、健人は『当然のこと』を思い出した。僕は全ての人を愛して生きるのだから、あらゆる人間の不幸に立ち向かうのだから、当然人のことを見殺しになんてできないのだった。


 先までの葛藤が水を打ったように静まりかえるのを、健人は鮮明に感じ取った。


 縋るような表情を浮かべる花菜を見ていると、愛すべき彼女のことを苦しめてはいけないという思考が湧き出す。


 それなら、彼女が幸せになるには何をすれば?

 答えは簡単だ。明かしたくない自分の本心を明かし、彼女の希望を叶えることで解決される。日本中の人々も幸せになる。大団円だ。


 だから、健人は躊躇うことなく自分の本心を明かす。


「研究者だった親父が何をしてたのかだけが思い出せないってこと。他のことは全部出てくるのに。おかしいんだ、僕の記憶は完璧なはずで、小さい頃の僕は人並みにいろんな物事をあれこれ親父に聞いて親父を困らせていたはずで。なのに、親父がどんな研究をしていたかとか、どのくらいの成果を上げていたのかとか、そういう具体的なことが何も思い出せないんだ。偶然かもしれないよ。もしかしたら、本当に僕はたまたま親父の仕事に全く興味を持たないで育ってきたのかもしれない。でも、もしも、これが偶然じゃなかったなら、つまり親父が悪意を持って何かを隠し通すために僕の頭を弄り続けてきたってことなら」


 横隔膜は容赦なく収縮し、肺から空気が淀みなく押し出される。声帯が押し出された空気の流れに触れ、震えとしてそこに意味を刻み込む。

 それに逆らう術がない。


「僕は僕という人間じゃなくて、犯罪者の作り上げた都合の良いアンドロイドになるんだ」


 それを一息に言い切った後突然吐き気がしたので、一言「ごめん吐いてくる」と言ってトイレに駆け込んだ。消化されきっていないスパゲッティが出てきた。胃液の酸っぱさの中にミートソースの味がした。


 気付けば背後に花菜がいて、しゃがんで健人の体にもたれていた。

「ごめんなさい。酷いことを言わせてしまって」

「何も酷くなんてないさ。話を戻すと、親父が怪しいって、僕も正直に思うよ。捜査には協力する。どうすれば良いかな?」


 花菜の声が震えているのが分かったので、健人は努めて明るい声を出した。しかし、それは思った通りの効果を持たなかったようで、花菜はその言葉を聞いてから、むしろ健人のシャツの生地を強く握りしめた。


「……ごめんなさい。本当にごめんなさい。私が悪かったの」


 どうしよう、花菜が悲しんでいる。なんとかしなくては。

 とは言っても、今できることなんてあまり思いつかない。どうしてか、まるで脳みそが綿菓子みたいにふわふわしている。思考が頭の深いところまで届かない。

 

 まあいい。今はそれどころではない。そうだ、正面に向き直って抱きしめてあげるのはどうだろうか。


 シャツをしっかと掴んだままの彼女に危険が及ばないようそっと立ち上がり、狭いトイレの中で彼女の方に体を向け腕を伸ばす。


「良いよ、気にしないで。僕は大丈夫だからさ」

「っ、泣いてるのに大丈夫なわけないでしょう……!」

「え?」


 伸ばした腕のうち右腕を一度畳み、シャツの袖で目元に触れると、確かにそこは濡れていた。


「あれ、どうして」


 右手に向かって、素早く花菜の左手が伸びてきて、引っ張られ、健人の視界から外れた。その振動によってふわふわした頭に一筋の稲光が走った感覚があって、そしてすぐに消え去っていった。彼女のもう一方の手が健人の左の耳にかかり、一瞬だけ強ばった後に顔の横を滑り降りて頬を包んだ。


「貴方は、本当は、そんなことを望んでなんていない。何かが貴方の頭の中で起こるまでは、貴方はお義父さんのことでとても怯えていたはず。そう、でしょう?」


 彼女はさっきにも増して悲痛な顔をして健人に問いかける。言われるがまま、脳内で感情の履歴を探索する。たかだか一分前までの思考は、いとも簡単に克明に再現できた。


「親父は本当に犯人なのかもしれないって思って、もし本当に犯人だったら僕は自分のことを人間だと思えなくなるって思って、そしたら全部が恐ろしくなって、怖かったことすらも忘れたくなって」

そういえばこんなことを考えていた。でも、それは過ぎ去った話で、


「でも花菜が僕に大勢の命がかかってるってことを思い出させてくれて、僕は親父のことを通報しなきゃって思えたんだ」

「おかしいって思わない?」


 被せるようにして花菜が問いかける。


「もし私が貴方だったなら、全部が恐ろしくなったそのすぐ後に、自分にとどめを刺すような決断なんて絶対にできない。できる訳がないの。私達の心はそんな強くできてない。ねえ、気付いて。気付けるでしょう?」


 どういうことだろう?気付く、とは?


「健人はお父さんのことを通報したいなんて思っていないの」


 僕は親父のことを通報したいなんて思ってない。

 そう頭の中で響かせてみる。


 すると、心と頭にこびりついていた曇りが晴れていく。それはついさっきにも起こった感情の上書きとは違う感覚だった。何か、もっと、何というのだろう。


 そうだ、


 『自然な感じがした』。


「……」


 健人はトイレの便座にへなへなと座り込んだ。言葉が出なかった。


「……どうするべきか、貴方自身が決めて。今じゃなくていい」


 何かを察したのか、真っ直ぐに健人の目を見つめて彼女が言う。まるで子どもに話しかけるような空気だった。


「……神路さんとの話?」

「そう。私だって思うことはあるけど、でも健人の心を壊したくなんてない。さっきのは聞かなかったことにするから、今日はもう寝ましょう、ね?」

 

 そして、花菜は彼女の手が触れている側とは反対の頬にキスをした。有無を言わさぬという決意が花菜の目に強く灯っているのが見てとれたので、健人は黙って彼女の言葉に従うことにした。


 それからシャワーをさっと浴びてベッドに入るまでの短い間、花菜はずっと健人の側にいた。二人でベッドに入って電気を消したとき、彼女は小さい声でもう一度「ごめんなさい」と呟いた。


 彼女の手をそっと握りしめることで返事の代わりとして、健人は目を閉じた。






 窓の外からカーテンを貫いてきた救急車のサイレンの音のために健人は目を覚ました。目を擦って時計を見てみると、朝の七時だった。横で花菜も身じろぎしていて、どうやら彼女ももうすぐ目を覚ますのだろう。

 それにしても、やけにサイレンの数が多い。近くの幹線道路を走っているのだろうが、いつまでも音が途切れない。近所で火事でも起こったのだろうか。


「ん……おはよ」

「おはよう。ごめん、起こしたね」

「何時?」

「七時」

「じゃあちょっと早いくらいで丁度いい、起きる」

「よかった」


 その時、健人の手元で振動が起きて、視界にウェアラブルデバイスに着信があるとのポップアップが浮かんだ。

「電話?」

「らしい。こんな早い時間に掛けてくるなんて――」


 答えながら、ポップアップを目で辿る。

 

  発信元:終の住処


「――っ!」


 脳髄に飛び込んできた短い文字列が、健人の頭の中で、今も響き渡るサイレンの音に一つの重大な意味を重ねた。


 途切れた言葉と凍った顔を見て何かを察したのか、花菜はその場で静かになった。


 受理のボタンを選択してから回線が立ち上がるまでの僅かな時間が、健人には酷くじれったかった。

「今すぐ来てくれ! やられた、二回目だ、大勢倒れてる!」

回線が繋がるや否や、名前や電話相手の所在の確認をとることすらなく、焦りに満ちた先輩職員の叫び声が静かな寝室に届いた。内容は予想通り。


「分かりました。今すぐ行きます、次の人に電話してください」


 健人は了解のメッセージだけを端的に発して、電話を切った。無駄な時間を消化させることもない。


「……二回目のテロが起こった。今すぐ仕事に行かないといけないから、僕の分の家事を任されて欲しい」


 花菜は一度何かを言いたそうに口を開きかけ、それをこらえるようにギュッと唇をすぼめてから、わかった、と頷いた。健人はいくつかの服を確認もせずに衣装箪笥からつかみ取り、寝室を飛び出して洗面所に向かった。


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