プロローグ
ちょっと厚めの単行本くらいの分量で完結します。
生きているって、どんな感覚なんだろう。
それが、相田健人が一生の間抱えてきた疑問だった。血が流れていることが生きていることの証明なのか、自分の意思を操るのが生きていることの証明なのか、それとも別の確たる要素が存在するのか。それとも、それらの全ては生きていることの副次的な結果に過ぎず、生命はただ与えられた生を受動的に噛みしめ続けるのか。
幸か不幸か、人並みにすぎない想像力での思索から思い浮かべられる「生きている」ために必要な要素を、健人は全て自分の中に有していた。当然のように健人はものを食べて生きていたし、怪我をすれば血を流して血小板による止血を待ち、自律的な思考能力を以て自らの振る舞いを決定していた。
しかし、それだけでは心の内にいつからか蠢いていた大きな不安を打ち消すことは叶わなかった。
だから、健人が生物の死に興味を持つことは自然な流れだった。ただ唯一、生きている人間には把握しようのない生きていることの絶対証明が、死だった。自分だけでなく他の誰もが知り得ないのだという仲間意識が、健人に僅かな生の実感を与えていた。幼い健人が道ばたでネズミや野良猫の死骸を見つけては綺麗に片付けようとしていたのは、他の人間から見れば奇怪でしかなかっただろうが、彼にとっては身近に死を観測することで自らに安心感を与える重要な行動だった。
ただしその僅かな安寧も、年齢を重ね、社会性を身につけていき、周囲の目を気にするようになるにつれて、薄らいでしまったのだった。
自意識を持って以来、健人には勲という名前の父親と呼べる存在が常に側にいた。間違いなく健人は勲のDNAの半分を有しているのにもかかわらず、「父親と呼べる」という婉曲的な表現を使わざるを得ないのは、健人と勲の複雑な関係のためである。
勲は忙しいながらも可能な限りは二人で一緒に食事をすることを心がけ、片親としての役割を十二分に果たそうと汗をかいていた。そして、その食事の場でいつも「息子」にこう伝えるのだった。
「いいかい、健人。お前は、全ての人を愛するために生まれてきたんだ。手の届く限りあらゆる人間に降りかかった不幸に立ち向かい、隣に在り、そして幸せに導くんだ。それが私の願いでも、お前のお母さんの願いでもある。覚えておくんだよ」
これが、健人にプログラムされた唯一絶対の存在理由であり、同時に健人を毎日想像の谷の中に突き落とす洪水でもあった。
健人は、自らが「生きていない」ことを示すために必要な要素をその体の中に大量に有していた。生体脳を八割置き換えると同時に全身と不可逆的に直結して人間離れした演算能力や反射に記憶力を与える電脳、体中の筋肉や骨、果ては神経組織にまで張り巡らされた強化繊維、エラー処理や体の保守点検を担う血中を流れるナノマシン。そのどれもが、健人が真に生きてはいないことを示しているようにしか思えなかった。
健人は生体組織を利用して製造されたアンドロイドだ。傍目には人間と同じようにしか見えないし情動は人間と同じになるように作られてはいるが、その体の中に人間の手が加わっていないところは殆どない。設計したのは勲で、素体になったのは勲のパートナーだった立花のお腹の中に居た一人息子だった。著名な研究者一族の元に生まれ、幼い頃から様々な分野において他の研究者を圧倒する適性を示し、科学の申し子だと評され続けた勲と、大学に飛び級で入学し生体工学の分野で革新的な論文を発表し続けていた立花。共に人類の未来を切り開く存在だと人々にもてはやされていた二人は国立のラボで出会い、当然のように意気投合し、それから数年が経つ頃にはパートナー登録を済ませて出産許可を待つばかりになっていた。そんな二人を国が放っておくはずもなく、二人の元に出産許可が届けられるまでにかかった時間は、普通のパートナーとは比べものにならないほどの短さだった。それから二人は気が狂ったかのように行為を重ね、そして一月後には立花の中に新たな生命の息吹が根付いていた。
その時二人は既に、周囲から将来を嘱望される自分たちの子供を、地球史上最高の生命体とすることを目論んでいた。二人によって生まれる前から健人は様々に調整を加えられ、そして最終的に勲の手によって調整槽から取り上げられた時には、既に三歳児程度のIQを有していた。だから健人には母親の胎の中からの記憶が鮮明に残っている。暗闇の中で遠くから響いてくる拍動や、羊水の中で漂う内に感じられるへその緒のぶよぶよ感、そしてあるとき急に冷たくなったそのゆりかごのこと。
様々なインジケータが光る視界の中、健人は初めて肉声で勲に話しかけられた。声にならないほどの感情を込めて嗚咽する勲の姿を、健人は今も時折鮮明に思い出す。
「良いかい、健人。君の名前は健人だ。立花が遺した魂だ。だから、君は、立花の分まで、人を愛して生きてくれ……!」
人を愛して生きる。その言葉は確かに電脳に最優先事項としてインプットされ、健人を導きつづけている。自分が普通の人間とは全く異なるのだという叫びたくなるほど気味の悪い実感を与えながら。