初恋の煙を吐き出した日
この季節になると、書きたくなってしまうのです。
よろしくお願いいたします。
私が大好きな人は、私が大嫌いな事ばかり、好きな人でした。
「ここ、右折でいいの」
「たぶん。ナビ的に」
「そ」
車のダッシュボードにくしゃくしゃになった煙草の残骸が鎮座している。いつからか、この人と出かける時は一番汚れてもいい服を着て、車中では袖口で出来るだけ口許を隠すようになっていた。
こんな時期外れの春だか冬だか分からない日に、いきなり海に行こうと言い出すところとか。
私、今日は家でゆっくり本が読みたかったのに。
「そういえば、ウチら旅行とかしたことあったっけ」
「ないんじゃない」
「ふうん」
「ふうんて、そっちが聴いてきたんじゃない」
「別に。ちょっと気になっただけだから」
彼女はいつもそうだ。
だって今日も、突然アパートに来てクラクションを鳴らされた。卒業できることが決まったからドライブしに行こうって、煙草をくわえながらはにかんで。
そういうの、前の日に連絡出来ないものだろうか。
「進路、どうすんの」
「ええ?それあたしに聞く?まあ、あたしは……姉ちゃんの所でしばらくお世話になろうかなと思ってる。というか、もう年末からそこで働いてる」
「えっ、初耳なんだけど」
「まあ、言ってなかったからね。そっちは?」
「私は……まあ、春から社会人、だけど」
もう何度か話したことのある会話を、まるで初めてのように聞いてくる彼女に、初めて聞いた彼女の進路。私ばかり自分のことを話して、彼女はちょっと謎めいている。
そういえばすぐに帰ってきた返事に数日かかるようになったのは、ここ最近の事だった。
海沿いを走る車内は、煙草の香りと芳香剤の甘さとが妙に混じった靄に包まれていた。セーターの袖が、吐息に湿って柔らかい。
いつからか、助手席が定位置になった。彼女の運転はテキトーだけど、ちゃんと目的地にはついてくれる。私がナビしなくても、本当はいいのだけれど。
「じゃあ、春からはお互い忙しいね」
「まあ、だね」
ミラーに映る彼女の横顔に差した影は赤く、遠景の水平線から昇る夕日浴びた加減で口紅を失敗したみたいに見える。それはちょっと彼女らしい、と苦笑する。
ビンテージものを買いに、インポート系の古着屋を行く。彼女が居なければ知らなかった事だ。
彼女にとってはそれが、下地から丁寧に自分を彩っていく化粧のメソッドだった。
「そっか……ウチらももう、大人だね」
「私はそうかもだけど、あんた、留年してるじゃないの」
「ああ、そっか。そうだった。一緒に卒業してるからすっかり同い年の気分だったよ」
実際には浪人の年月を足して3つ歳が違ったけれど、彼女は私と同い年の気分らしかった。
私は、出会った時から、年上のお姉さん、だったのだけれど。
「大人、か。これで最後なのかね」
「……さあ。どっちかが誘えばまた来るでしょ」
「かもね」
車は、嫌いだった。だから免許もとっていない。
彼女を映画に誘ったことは、一度もない。彼女は退屈する、と言って途中で出ていってしまうだろうから。
そんな彼女と走る、この黄昏の海沿いの道だけは、ちょっぴり好きだった。彼女が居なければ、その限りではないかも。
今なら、分かる。私ばかり、と思っていたことは、彼女にとっても同じだったと。
だって、初めてのデートの時、慣れない化粧をしてきたのは。ぶかぶかのジーンズ調のジャケットを羽織って来たのは。
それでも、ただ好き合っていたのは――。
「……新しい、季節だよ」
「ただの、太陽だって」
「でも、もうすぐ春だ」
「……まあ、ね」
彼女が窓外を指さした。そのちょっと太い、指輪だらけの指先に巡る、赤く燃える陽。
そこに抱くのは、ロマンチックなときめきではなく、ただの哀愁だった。
「そういえば聞きたかったんだけど。もう、自信はついたの?」
「おかげさまで。そっちは?やっていけそうなの、お姉さんのところで」
「おかげさま、でね」
初めて会った時も、こんな夕景が視界に滲む日だった。
大学の講義棟の入り口にあるベンチで一日を過ごしていた彼女に、私はちょっと心配になって声を掛けたのだ。だって、朝その講義棟に入ったときに居た人が、夕方の帰り際にまだ居たら、体調でも悪いのか、と思うでしょ。
そんな身体が弱ってる人を二度も見かけてなお、無視できるほど、私は図太くなかった。
「あの、どうしたんですか」
「……ん?ああ、あたし?」
「はい。ずっと、いますけど。体調、悪いんですか?保健室までご一緒しましょうか」
「あー……保健室って、二日酔いでも入れてくれるかな」
近づいて、会話して、鼻をくすぐったアルコールの香りに、私は一歩後ずさった。
それでも会話を続けたのは、私と似たものを、彼女に感じたからかもしれない。
「ほら、着いたよ」
「えっ、ああ。うん」
彼女が私の顔の前でぶんぶんと手を振る。それで現実に引き戻された私は、車が止まっていることに気が付いた。
シーズンオフで立ち入り禁止になっているビーチの駐車場が覗く、道のど真ん中だ。通行の邪魔になるだろう、と声を掛けようとした私は、左右を見てからやめた。
車どころか、人っ子一人いやしない。誰か来たら、どけばいいか。
「ほれ、出た出た」
「はいはい」
夕方は寒いと思って着てきたコートを、片脚だけ車外に出してから暖かさを感じて脱ごうとしたけれど、やめた。車内に置いて行ったらにおいが付きそうだし、手に持つには重い。
汗くらい、いいや。
「はーっ、海、久しぶりだなぁ。二人で来たのは初めてだね」
「そうだね。サークルのみんなとは来たことあるけど」
あの時の彼女は、大学をサボタージュして単位を落とし、4年間の卒業が難しくなって自暴自棄になり、酒に溺れていた時期にあった。気まぐれに話を聞くと、彼女は思う通りに生きるのが難しい、と微笑って、泣いてしまった。
その時3つも年齢が離れていることを知ったけれど、とても彼女が小さく見えたのだ。居場所がない、と震える彼女を、私は放っておけなかった。
「それで、本は読めるようになった?」
「多少はね。おすすめされたヤツは大体読んだよ」
「そっか」
お互い、会話をしながらも、見つめる先は遠く海の中へ落ちていく太陽だった。
何もない海の向こうへと、太陽は沈んでいく。飽きもせず、少なくとも48億にかけること365、時々366回は繰り返しているその動きを。
明日も、明後日も、きっと変わらず繰り返していくのだ。
その陽が照らす私たちとは、違って。
「あたしさ、あんたに出会えて本当に良かったと思ってるんだ。命の恩人だと思ってる」
「やめてよ。そんな、大したことはしてないんだから」
「それでも、そうだと思うって話」
「……なら私だって、ちゃんと就職できたのは、そっちのおかげだよ」
「それこそ、あたしじゃなくてあんたが頑張ったからだって」
顔を見合って、久しぶりにけらけらと、二人で笑った。
時折指先が触れ合う距離感が、この時はあまり嫌じゃなかった。
「ありがとね」
「こちらこそ、ありがとう」
言って、私たちは歩き出した。
私は助手席へ、彼女は運転席へ。
きっと最後になる、その組み合わせを数えに、海を背負って歩いていく。
「……吸ってみる?」
「いいよ。あ、いや――でも、せっかくだから、まあ」
「あら、珍しい」
「ほら、頂戴よ。くれるんでしょ」
「はいはい」
じゅっ、とマッチが擦られる。
道中のコンビニで買った煙草2本に、火がついた。
煙はぎこちなく、車内を満たした。
「やっぱ、駄目だったよ」
「そっか」
駄目だったけど、最後まで吸った。
煙草が短くなるにつれ、帰路が進む。火が消え、煙が途絶え、その身が指の関節と関節の間くらいになる頃には――。
私は、自分が大嫌いだった。周りに流されて、自分の意見なんて持てない私が。
そんな私を、彼女は好きでいてくれた。
「……無くなった」
「……あたしも」
残骸の山がほんの少しだけ、大きくなる。
私と彼女も、ほんの少しだけ、温かかった日々を窓外に投げた。
それが、初恋の人との最後の思い出でした。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます。