18 ひび割れ
洗濯女のジイナが殴り倒されてから、事態が悪化しつつあった。頭に話を通して、確保したはずのゼナの安全が、脅かされてきたのだ。大人の女が使えないなら、子供で我慢するしかない。あるいは、子供か使えるか試してみよう。そういう風潮が出てきた。当然この流れに、幼女嗜好のある歯抜けのドルスが勢いを増した。実行に移される前に、ジイナが快復し、ひとまず元の状態に戻った。
しかし、ボウロウは、頭から、次に同じような事態が起きた時に代替策として使えるように、ゼナの準備をしておけ、と命じられた。期日を設けられなかったのが、せめてもの救いだ。
この話が、他の者にも少し歪んだ形で洩れ伝わったらしい。ジイナが夜の仕事をしている間、邪魔にならないよう――ボウロウやゼナ自身にとっては、巻き込まれないよう――に、ゼナはボウロウの部屋に避難していた。そこでボウロウが、娘を独り占めしているらしい、という噂が広まったのだ。
それをドルスの仲間が確かめに来た。何をしているのか同室するという要求だった。ドルス本人が来なかったのは、手を出しかねないという自制か、仲間からの制止があったからだろう。
ボウロウはもちろん受けた。彼らが邪推する行為などなかったからだ。
ボウロウが、ゼナ相手にさせていたのは、静かに待つ事だった。立っていても、座っていても、よこになっていても構わない。ただ、寝るのだけは実質禁じていた。ボウロウが時折小枝を放り投げるので、それを受け取るか拾うかして、決められた場所へ置く、という作業をさせていた。小枝を放り投げる間隔は広く、不定期なので、待つのが専らとなる。
見学に来た男は、八半刻も経たずに「つまらねえ」と部屋を出ていった。しばらくして、また顔を覗かせたが、同じ事を続けているとわかると、すぐに立ち去った。
これは、ボウロウに、ゼナの才能を再認識させた。大人が我慢できない事を、ゼナはやり遂げているからだ。
暗殺者にとって重要な要素は、技の切れより、忍耐力だ。標的の行動を観察し、忍び込むために絶好の機会を待つ。これらには忍耐力が不可欠だった。それに加えて、集中力をある程度維持し続けなくてはいけない。これは小枝への反応で計れた。小剣を手入れしながら小枝を放ったり、歩き回っている最中に小枝を落としたり、外へ出てしばらく経ってから小枝を投げ入れたりした。その度、ゼナは小枝を拾い、所定の場所へ小枝を運んだ。うつらうつらしていた時も、小枝の落ちる音で目を覚ました。
かなりの適性の高さだった。ボウロウでも、子供の頃、こうまでやれた自信はなかった。このゼナの才能が明らかになるにつれ、ゼナを無駄に使われるのが惜しくなった。
雨が続くと、またゼナの身が危うくなってきた。水汲みや薪拾い、見回りなど、明るいうちに外で作業していた男たちが、遺跡内に留まる時間が長くなったせいだ。暇になると、新しい遊びを見つけようとする。歯抜けのドルスがそれを、新しい玩具で遊ぶように他の者をけしかける。
ボウロウに、長めの見回りの順が迫ってきているのも都合が悪かった。
盗賊団の一員は、緩いながらもそれぞれ役目があった。頭はほとんど自室を出ないが、これは金庫番を兼ねているのを、みんな知っていた。その片腕と目される男は逆に遺跡にはほとんど居らず、主に食料を調達するために、出掛けていた。その他の所属員は、下っ端とその上に大別でき、下っ端は水汲みや薪拾いの雑用、その上は見張りや見回りなどの警備を受け持っていた。最近、警備役の仕事に、ボウロウが献策した狩りが加わった。が、今のところ成果は得られていない。
ボウロウの所属は、警備役だ。屋上で見張りをしたり、遺跡の周囲を見回るくらいなら、近いので、ゼナを襲おうと考えている者に抑えが効いた。しかし、狩りを兼ねた広い範囲での見回り任務では、ゼナへの暴発は止められない。ボウロウが戻った時に問題になると考えれば、ボウロウが近くにいようか離れていようが同じはずだ。しかし、それで止まるような自制が利く者であればあれば、そもそもこんな場所にまで流れてきていない。「やっちまったものは仕方がない」と開き直るのは目に見えているし、下手をすれば、元には戻らない状態、つまり殺してしまいかねない。
ドルスが「やれるうちにやる」発想で来るだろうと予想すると、ボウロウは自然と「やられる前にやる」発想が浮かぶ。もちろん、ここでのやるは殺るだ。
殺すのは簡単だが、問題になるのはその影響だ。組織からあぶれた者の集まりだが、組織の掟と同じく、「仲間を手に掛けるべからず」という不文律があった。だから、単純に殺すだけだと、殺した者が吊し上げられる事になる。
これを回避する方法として、主に二つの方法があった。
そもそも、ボウロウは、組織内でも「仲間を手に掛けるべからず」という掟を越えた存在だった。しっかり数えるつもりなどないが、感覚では、下された指令の内、およそ半数が組織内の誰かを殺すことだった。対象の裏切りが明白な場合などは、制裁とわかるように殺すが、そういう相手だとむしろ公開処刑に近い形の扱いを受けることもあり、ボウロウに回って来ない場合もあった。ボウロウが排除に動くのは、組織にとっては邪魔だが、処罰を下すと組織内の動揺が大きい場合だ。そういう時、対象を行方不明にするか、事故に見せかけるか、がよく使った手だ。
物盗りの犯行に見せ掛けるのも、事故のうちに含むのだが、居る人間が限られている、今の状況では使えない。となると、死体を隠すか、事故の工作になる。
死体を隠すのも、今の状況では難しかった。町なら、水路が使えた。短期間隠すだけで良いなら、重りを付けて沈める手もあった。運が良ければ、魚が死体を片付けてくれて、骨しか残らなくなる。が、たいてい腐って膨れて浮かんできてしまう。だから短期間しか使えないのだ。だが、この遺跡の近くには適した水路がない。
水汲みにつかっている水場は、片道で八半刻かかるので、まず見つからずに運べない。ドルスも警備役なので、水場に行く事はまずない。もし、水場でドルスを仕留めたと仮定しても、流れている水量が弱いので、死体を流せない。泉も浅いので、沈めても丸わかりだ。
土を掘って埋めるのも現実的ではない。大人一人を埋める穴を掘るのは重労働だ。それを誰にも知られず成し遂げるのは難しい。埋めるのにも手間が掛かる。そして、工具は武具と一緒に警備役の管理下にあるので、長時間持ち出すと誰かに知られてしまうだろう。怪しい行動をとっていると、ドルスが行方不明になった後すぐに、ボウロウが目を付けられるのは明白だ。
都市ではできた方法はここで使えるとは限らない。しかし、逆にこの環境だから使える方法があった。ドルスが、遺跡から遠く離れた時に仕留める手だ。川や湖に沈め、崖から突き落とす、など多くの手段があった。単に死体を放置するだけでも、獣や魔物が死体を食べてくれる。その状態で見つかったら、獣や魔物に襲われたと考えるのが普通だろう。
この手段の最大の問題は、ドルスたちが長めの見回りに出る順が、ボウロウたちの後だ、という点だ。それでは手遅れになってしまう。
また、遺跡から遠く離れるまでドルスを追跡すると、ボウロウの不在がバレる。追跡せずに、夜に追いつこうとするのは、居場所が特定できないため不可能だった。
毒が手元にないのも、選択の幅を狭くした。食べ物や飲み物に混ぜ込んで、遅れてから胸の苦しみで死ぬ毒なら、病気による突然死なのか治療師のいないこの場だからこそバレにくいのだが、そもそもの毒がなければどうしようもない。周りの植物から毒を得られる可能塀はあるのだが、ボウロウにはそんな知識はなかった。
暗殺が困難だとわかってくると、そもそもそこまでして、ゼナを守るべきなのか、という疑問も湧いてくる。自問してすぐ、無理をしてまで守る必要はない、と思う。ボウロウに得はなかった。自分が培った技術や知識を次の世帯に伝えなければ、という気持ちは、冷静になって考えれば、今自分が置かれた状況から生まれてきた心理だった。
ボウロウは組織のために仕事をした。仕事そのものに間違いはなかったはずだが、政治的な問題とやらで、ボウロウは追われることになったのだ。
役目上、ボウロウは組織の者にあまり顔を知られていかなかった。最後の挨拶をしに行く時には、顔を知られていない方が都合が良いからだ。そのせいで、ボウロウは組織に対しての顔は広くなく、事情にも疎かった。政治的な問題とやらが起きている事も気付かなかった。依頼を伝えてくれる上役が、ほとぼりが冷めるまで身を隠せると言ってくれなかったら、殺されていたかもしれない。もしかすると、今、プルサスではボウロウの首に賞金が掛かっている可能性すらあった。
この命を狙われている危機感が、せめて技術でも残したいという気持ちを生んだのだろう。しかし、改めて考えると、技術を残さなければならないわけでもなかった。
ボウロウには、師と呼べる存在はいない。近い存在は、汚れ仕事が回ってくるようになった時に、一緒に仕事をする機会が多かった、先輩の暗殺者『悪魔の杖』だ。
組織としては、教育係を兼ねて組ませたのかもしれない。だが、組んだり組まなかったりは不定期で、悪魔の杖も、教育には熱心ではなかった。どうやら、ボウロウが属している――あるいは、属していた、になっているのかもしれないが――組織『割れ窓』では、暗殺者は師弟制ではなく、いわば自然栽培で育てる方針のようだった。
適性がありそうな若者を暗殺者としての仕事へ放り込み、生き残った者を使い続ける、という具合だ。師弟制に比べれば、手間が掛からない代わりに、技術や知識の伝達は起きなくなるが、組織としては暗殺者が代を経て強くなっていって欲しくなかったのかもしれない。なにせ、上層部は場合によっては暗殺者の刃が内側に向くことを知っているのだから。
このままボウロウが割れ窓に戻れたとしても、ゼナを弟子として育てていると知られると、排除される危険もある、という事だ。しかし、組織の者とあまり会わないのだから、隠すのは簡単だ。家に住まわせているのがバレても、散々誤解されたので、それこそそういう趣味だと振る舞えば、説得力があるだろう。
ゼナへ気が向いているのは、遺跡での生活が暇だから、我知らず気晴らしになるものを求めていたのもあるだろう。ドルスの変態が勝つことになる反発もあった。
色々と考えた要素を加味して、ボウロウは改めて、ゼナを護る事と自身の安全とを秤に掛ける。……変わらず、ゼナを乗せた皿が上がる。ボウロウにとって、ゼナは見込みのある素材でしかなく、放っておけない娘ではなかったからだ。むしろ、そうなるべきではないとボウロウは自身の心に意識して言い聞かせていた。
ゼナにも選ぶ権利があった。本心は、真っ向からドルスへ立ち向かい打ち倒したいと思っているかもしれない。しかし、その力はない。だからゼナには、自分のできる反発を試みるか、大人しく受け容れるかの選択肢しかない。ただし、前者を選択すると、生意気だと教育される可能性がぐんと高くなる。大人でも倒れて動けなくなるほどなので、子供なら死にかねない。
しかし……、とボウロウは考える。これは上手くすると、ゼナのにとって一つのしけんになるかもしれない、と。
「けっ! てめえらで勝手にしろ」
ドルスは悪態をついて、夜の仕事部屋から出た。部屋の中では、他の男たちが、洗濯女を相手に愉しんでいる。
しかし、ドルスはもう愉しめなかった。近くに、もっと好みのご馳走があるのに、汚れて味の落ちた料理で満足できるはずがない。
別の楽しみも、禁じられた。洗濯女が、もっと咥えるのが上手くなるように、と前歯を折ろうとしたのだが、その前に女が倒れてしまい。ドルスは、壊すな、と止められた。
代わりに提供された、若い方の女も、つまらなくなっていた。入りたての頃は、泣き叫んでドルス好みだったが、今は頭の女になったからと態度がでかくなり、見下すようになった。自分で積極的に愉しむようになったのも、ドルスにとってはげんなりさせられた。
態度に関しては、だいぶ反応が悪くなったが、未だに一応嫌がっている洗濯女の方がマシだ。中身、あるいは外見が入れ替われば、未だ愉しめるかもしれない、と想像するが、ドルスは頭を左右に振った。それでも、あのご馳走に比べたら、味は落ちるに違いない。
頭についても腹が立っていた。小娘についてはボウロウの好きにさせろ、という話になったからだ。何年か待てば相手をさせてやると言われたが、それでは遅いのだ。全くわかっていない。
ドルスは密かに、頭を排除して、自分が成り代わる機会を窺っていた。そうすれば、小娘など思いのままだ。
そもそも、ドルスが仲間に加わったのは、「町から出て自分たちの砦を作れば、女は抱き放題、酒は飲み放題」と聞かされていたからだ。確かに、女は何時でも抱き放題だが、相手は一人しかいない。酒も飲み放題だったが、あるだけしか飲めないので、結局買われて足されるまでの時間を考えると、毎日飲もうとするなら一日分はあまり飲めなかった。
だが、自分が頭になれば、もっとできる事は増える。今は自由に歩き回れるようになっている若いマリリを、再び縛り付ければ、昔のように怯えた目を見られるだろう。そして、もちろん小娘は思いのままだ。邪魔するボウロウは殺せばいい。
その想像はドルスを高揚させたが、現実に返ると、落差から余計に空しく腹立たしくなった。せめて、続きを夢で見られたら、と自分の部屋に戻って寝ようとした時、視界の端に白い物が映った。
夜になっても、遺跡の中は完全な暗闇にならなかった。中央にある柱が、ぼんやりと光っているからだ。周囲の壁に埋め込まれている水晶も同じく弱い明かりを照らす。
それらは日中ならもっと明るく光る。どうも屋上から日の光を取んで、それを反射させているらしいからだ。誰かが昔の鏡みたいなもんだろう、と言っていた。しかし、それでは夜も光っている説明にならない。だから、ドルスは夜に光るこれらの照明を不気味に思っていたが、今では慣れて何とも思わない。
でも、上りの階段近くに何かがいたのを目にした時、ドルスの頭に真っ先に浮かんだのは、この遺跡に昔から住んでいる亡霊だった。
身震いしながら、他の者も居る女の部屋に戻ろうかと考えると同時に、自然と先ほどの光景が頭に浮かぶ。思い出したその画は、白い何かが人の足だと気付かせてくれた。しかも、小さい細い足だった。
ドルスはごくりと喉を鳴らした。目にした物が、あの小娘の素足だとわかったからだ。しかし、そう思ってすぐ思い浮かんだのが、自分の妄想かもしれないという心配だった。そういう妄想を抱くほど飢えている自覚はあった。
しかし、ペタペタという足音は、現実に、らせん状の階段を上へ遠ざかっていく。
ドルスは理解した。やはり、あのボウロウは小娘を独り占めにしているのだと。いつも、夜の仕事の時間になると、小娘はいつの間にか姿を消し、ボウロウの部屋へ行っていた。独り占めにしているに違いないと、調べさせたが、「何もしていない」と報告を受けた。当然信じられなく、その後も再三不意を突いて調べさせたが、報告内容は変わらなかった。だけど、実態は、あの小賢しいボウロウがどうにかして調査を察知し、いつもの営みを隠していたのに違いない。本当は、夜の仕事が始まると、あの小娘も服を脱いでボウロウの部屋に行っているのだ。だから、先ほどの素足が見えたのに違いない。
ついに尻尾を掴んだ!
ドルスは階段を駆け上がると、入り口に掛かっている垂れ幕を払いのけ、ボウロウの部屋に踏み込む。中はさらに暗く、細かい部分は見えなかったが、人の気配がないのはすぐにわかった。もし、ボウロウがゼナで愉しんでいるなら、動きがあってよいはずだ。しかし、暗い部屋にぼんやりと浮かぶ黒い影には、人の姿をしたものはなく、動いてもいなかった。
その時、またパタパタと足音がした。
外だ!
ドルスは部屋の外へ出ると、音が聞こえた場所を求めて、首を巡らす。白い身体が、また上りの階段へと消えていく。それを追いながら、ドルスは小娘が何処へ行くつもりなのかを考える。
上の階はほとんど使っていない。頭の部屋と、武器や工具を置いている倉庫くらいだ。あとは、崩れて使えない部屋と扉が開かない部屋があるだけだ。
上の階へ上り、小娘がさらに上へ上がっているのがわかって、ドルスは理解した。屋上だ。夜の愉しみが始まると、屋上の見張りも下りてくる。そこをボウロウは自分の愉しみ場所にしているのだろう。
駆け足気味だったドルスは足を止めた。息を整える意味もあったが、相手を油断させる目的もあった。小娘が着き、ボウロウが下半身を露出させたあたりで踏み込めば、もう言い訳などできないだろう。
息が整うと、腰に差している小剣を抜く。これまで騙していた事を考えると、ボウロウを刺すなり、ナニを切り落とすなりしてやりたがったが、それだと後が面倒だ。脅しつける役目で使うつもりだった。逆上してきたなら、むしろ都合が良い。返り討ちにするのに躊躇いはなかった。
ゆっくりと屋上への階段を上る。曇り空で月は隠れていた。外は暗い。予想していた、ボウロウの話し声や喘ぎ声は聞こえなかった。ドルスは小剣を握り直す。
雲が切れて、少し明るくなると離れた所に人が立っているのが見えた。背の高さから子供だとわかる。下で見かけた時は、ほとんど裸だった気がしたが、今は頭巾付きの外套を羽織っていた。しかし、外套の下から覗く白い足首と、その両足首を繋ぐ綱の黒い影が、ドルスを満足させ昂揚させた。
周りを見回したが、ボウロウの姿は屋上に見えなかった。屋上には何もないから、隠れる場所などない。
そこでドルスは、小娘は自分のことをボウロウと勘違いしているかもしれないと思い当たる。なら、本人が来る前に、美味しいところにありついておくべきだ。
小剣を鞘へ戻すと、腰帯を引き抜く。ズボンが床に落ち、ドルスの下半身が露出する。追っている途中から、ドルスの準備はできていた。
近づくにつれ、小娘の裾が上がっていき、太腿まで見えた。頭巾を被っていても、下を向いているのはわかった。近づいているのがボウロウだと思っているに違いない。頭巾をずらせば顔を上げるだろう。その目に驚きと恐怖が宿ると思うと、心が踊る。
伸ばした手が娘の頭巾に触れようとした時、ドルスは後頭部に強い衝撃を受け、意識を失った。
力を失い倒れそうになったドルスの体を、ボウロウは後ろから抱き抱えるようにして、支える。体重はボウロウより重い、床に横たわってしまうと、持ち上げるのが大変になる。よろめきながら前進すると、ゼナが避けて道を空ける。縁の壁に寄り掛かって、ようやくボウロウは一息ついた。ここまで来れば、あとは大して力は要らない。
ゼナは、縁の壁が崩れていた近くに立っていた。近くを歩くなら落ちやすくて危険な場所だ。逆に言うと、物を落とすなら最適な場所だ。
ボウロウは半ば転がすようにして、力の無くなったドルスの体を押して、突き落とす。ドサリと落下音が下から届く。悲鳴はなかった。
覗き込んで確認すらせずに、ボウロウはまず、皮の手袋を拾った。硬貨を詰めたこの即席の棍棒で、ドルスを昏倒させたのだ。
先輩暗殺者の『悪魔の杖』から教わったゲンコツという呼び名の暗器だ。棍棒に比べて打撃力は劣るが、慣れた者なら適切な場所を殴りつけ、相手を昏倒させることができた。傷を残しにくく、バラバラに持つと凶器と思われない利点があった。
そのゲンコツを、中身を零さないように注意してからゼナに持たせると、ボウロウはそのゼナを抱き上げる。片腕で娘の背中を支え、もう片方の腕を娘の両膝の裏を持ち上げる。そして、素早くその場を離れる。
階段を下りる前に聞き耳を立てて、下に人が居ないのを確認すると、足音を抑えて走る。ゼナに付いてこさせると、両足首を繋いでいる綱のせいで、走れない。だから抱えて移動する方が速かった。
そうして誰にも気取られる事なく、自室に戻ると、ボウロウはゼナを下ろした。手早く、ゲンコツを別々に片付けるよう指示をし、一度外へ出そうになってから、服を着直すように念を押した。
手早く淡々と動きながら、ボウロウは心の中では舌を巻いていた。
ゼナに下した指示は、屋上の縁の壁が壊れたあたりにおびき出せ、というものだった。失敗して捕まってもすぐには助け出せない、という話も伝えた。ヤられるとまでは言わなかったが、理解していたようだった。しかし、ゼナはそれでビビるどころか、逆に利用した。服を脱いで、ドルスを釣り出したのだ。
このところ、ドルスが夜の遊びからすぐ抜け出すのは観察して知っていた。その一人で動いた事が、ドルスにとっては命取りになった。
ボウロウは静かに外へ出ると、建物の外を巡って、ドルスの落下地点へと至る。生死の確認だ。
ボウロウは懐から月光石を取り出した。衝撃を与えて光らせてから、周りに不審な点がないかを確かめる。
この月光石は特別仕様だった。血がぼんやりと浮かぶのだ。拭い去られた後の、目では見えない跡でさえ、確認できる。ボウロウは屈み込むと、倒れているドルスから流れ出ている血に触れないよう注意しながら、首元に手を伸ばす。息があれば、首を押さえて息の根を止めるつもりだったが、その必要はなかった。
ボウロウは立ち上がると、自分が血で汚れていないかを確認し、その後、月光石を口元へ近づけ、秘密の言葉を囁いた。途端に、魔法の輝きが消える。
潜入先で明かりの点滅を管理できなくては致命的だ。ゆえに、大枚叩いてでも手に入れたのだ。窓口になった魔道士崩れの故買屋によれば、本来月光石には消灯の言葉が決められているらしい。一般にはそれが知られていないのだ。
現場を去ると、今度は女の部屋に行く。中で愉しんでいる男たちを睨みつけると、当然反発した声が返ってくる。
「なんだよ!?」
「へへっ。今頃仲間に加えてもらいたくなったか」
ゲラゲラ笑い出す声を無視して、ボウロウは女を覗き込み、納得したような不思議そうな顔をする。もちろん、演技だ。
「どうした?」
「いや、叫び声のようなものが聞こえた気がしたから、また女が痛めつけられているのかなと思ってな。……気のせいだったのか」
「ああ、俺たちは丁寧にかわいがってやっているよな。なあ?」
同意を求められても、ジイナは答えない。ボウロウは肩を竦めると、部屋を出る。
あまり良くない展開だった。ドルスが転落死したと見せ掛けるには、ボウロウにその工作をする時間がないと思わせた方が良かった。今、ボウロウに自由にできる時間ができると、後から疑われる余地が残る。
「こっちじゃ何にも聞こえなかったから、頭の方じゃないか? それか、ドルスか」
ボウロウは立ち止まり、振り返る。
「そう言えば、上から聞こえた気もしたな。上のする事じゃ、俺たちが首を突っ込む話じゃないな」
「ああ、そうだな。俺は首じゃなく、ナニを突っこみたいがな」
男たちがまた笑う。
「そういや、ドルスはどこに行った? こういう話は好きなんだが」
「順番が待てなくて出て行ったんじゃねえのか」
「だったら、便所に出るついでに声を掛けてやるか」
普段ドルスと連んでいる男が、部屋を出ようとしたので、ボウロウも自室に向かう体で、付いて行く。
「おや?」
戸惑っているような声を聞いたボウロウは、その理由をわかっているくせに、白々しく聞く。
「どうした?」
「……いや、ふて寝しているかも思っていたんだが……居ねえんだよ」
ボウロウは近づきながら深刻な顔をする。
「それは気になるな。……便所は我慢できるか? 上の様子を見に行こうと思うが」
「ああ、いいぜ」
ほどなく、ドルスの死体が見つかった。その時には、ボウロウは始めから探していた一人として認識されていた。
盗賊団の頭であるパクスが、ドルスが死んだと聞いた時にすぐ感じたのは安堵だった。
ドルスが最近反抗的な目をしているのは気づいていた。プルサスで小規模ながら組織の頭だったパクスは、付きあがってくる手下の対処には慣れていた。だから、プルサスにいた頃だったら、ドルスをいち早くシメていた。それで従順になれば良く、より反抗的になったら殺すだけだ。
しかし、プルサスを出て、自分たちの砦を築いた後だと、プルサスにいた頃のように簡単にシメられない事に気付いた。
一つは、力の問題だ。
パクスの組織は、割れ窓の下部組織に属していた。直属ではなく、最下層に近い立ち位置だった。それゆえ、構成員は多くなかったが、プルサスを見限った最後の事件の際、何人かを見せしめとして始末されていた。だから、パクスに付いてきた者は、三人しかいない。その後、ボウロウを組み入れ、それでも力不足なので、他のあぶれ者も加えた。ドルスもその一人だ。
ドルスたちは、組織と呼べるかどうかぎりぎりの集まりで、三人組でぶらついていた。ゆすりやたかりをしていたらしいが、いくら特定の組織が押さえていない空白地帯といえども、どこにも上がりを流していなければ目を付けられる。それで居心地が悪くなっているのを吸収したのだ。この時の付き合いから、一つにまとまった後もこの三人は内部派閥と呼ぶべき結束を見せていた。
パクスの片腕として昔から付き従っているウージには、普段外回りを担当してもらっていた。買い出しの金を預けられるのは信用できるウージを置いて他はなかった。ウージには元の組織からの一人を補佐につけるので、元の組織のメンツは一人しか残らない。
だから、ドルスを排除することで派閥の二人が反乱を起こすと、パクスと付き合いが浅い他の連中がどう流れるか予測がつかず、抑え切れない可能性があった。ボウロウは加わる経緯から、こちらに付くはずだったが、それでも、数では押される。
もう一つの問題も、数と力の問題と言えたが、それは盗賊団としてやっていくための問題だった。
今、男はパクス自身を含めて全体で十人いる。ドルスを排除し、残りの二人の暴発を一時的に押さえ込んでも、いつか抜けられる可能性が出てくる。この二人を抜けずに監視する余裕はないからだ。合計三人欠けてしまうと、実動隊は五人になる。普段外回りをしているウージたちには、留守番をしてもらわなければならないからだ。
五人といえば、商人たちがちょっと集まり護衛を雇えば達する数になる。行商人には多少腕に覚えがある者が多く、戦闘になった場合、単純に考えると互角となってしまう。それでは、野盗としての危険が大きすぎる。
しかし、欠けてしまった人員を簡単に補充できない。住みやすい都市や町を捨てて荒野の生活をしても良いという、ならず者はあまりいない。いたとしても、信用できない。隙を見て、反乱を起こす者が増えても困るのだ。もし、信用できるものを厳選できるとしても、今度はその勧誘により、パクスたちの存在が知れ渡るのが問題だった。
ボウロウが気にしているように、パクスたちがうまくやれている理由は、存在を知られていないからだ。生き残りを作らないのは、それだけ金品を根こそぎかっさらうためだけではなく、自分たちの保身のためだった。
だから、パクスは、ドルスが目障りだったが手を出すことができなかった。
しかし、手下たちが報告した時に見せた態度と同じように、パクスもドルスが死んだことに不可解な印象を抱いた。今にも自殺しそうな顔をしていたら別だったが、むしろパクスの立場を狙って目を輝かしていたからだ。
状況から、パクスは屋上から小便をしようとして足を滑らして死んだ、と考えられた。酔っていたし、ズボンを屋上に残していたからだ。
ドルスが、ボウロウを嫌っていたのはみんなが知るところだったので、その対抗策としてボウロウが先に手を出した、という考えもあった。パクスが改めてその調査を指示するまでもなく、手下たちは「ドルスが落ちた悲鳴らしきものを聞いたのはボウロウだった」と証言し、罠に嵌めた者が自ら確認を進めるのは変だと思っていた。悪事をした者はそれを隠そうとする心理に陥りやすいのは、そういう経験をしてきた者が集まっているのだから、わかっていた。それに、もしボウロウが関わっているのなら、ドルスが下半身を露出していたのが合わなくなる。ドルスに男色の趣味はなかったからだ。
ボウロウ自身も、事故に驚いているという態度を見せていた。
パクスは、ドルスの仲間だった二人を呼びつけて、小娘で油断させたところをボウロウが突き落とした可能性について聞いてみた。これには二人ともが反対した。娘に対して、下半身を露出して迫るのはドルスらしいが、そこを襲われたとして、あのドルスが簡単に負けるはずがないというのが二人の意見だった。ボウロウが武器を持っていたなら可能だが、横たわっていたドルスにはそのような傷は一切なかった。ボウロウの方にも傷はなかった。素手でやりやって、相手が傷一つないことなどありえない、というのがドルスの仲間たちの強い意見だった。
結局、パクスはこれを事故だと片付けた。死体は、一旦建物の中に置いて、翌朝埋める指図をする。その後、ボウロウを呼び出した。
「他の者の目はごまかせても、俺の目はごまかせねえぞ、ボウロウ」
パクスは、情婦のマリリを追い払ってから、ボウロウにそう告げた。愛用の大斧を地面に立て、両手で柄を軽く握っていた。何かあれば、すぐにでも薙ぎ払える体勢だ。
ボウロウは何も言わなかった。黙って聞いている。その目には、怒りも恐怖もない。パクスには大斧があったので怖くはなかったが、気味悪かった。
「てめえがプルサスで何をやっていたかは、大体察しがついている。だから、これくらいの芸当、朝飯前なんだろ?」
これにもボウロウは答えない。しかし、パクスには自信があった。
パクスたちがプルサスを追いやられた事件は、パクスたちにとっては言い掛かりだった。罰せられた理由は、「ブツを期日までに納めなかった」からだが、それはパクスたちがちょろまかそうとしたからではなく、たんに売人がどこかで捕まったのか殺されたのかしたせいで、ブツが手元まで届かなかったからなのだ。
だが、この言いわけは通用しなかった。売人の身元が安全でなかったなら、その面倒まで見ないといけない、という理由だった。確かに、襲われるとわかっていたらそうすべきだったが、それまでそんな必要がなかったのだから、発想としてなかった。
後から考えると、パクスたちより少し上位の下部組織からの横槍だった可能性が高かった。しかし、それがわかったからといって、報復する体力を制裁によって奪われてしまった。あの頃のパクスは、組織の運営がうまくいっていたので、近い将来、割れ窓の幹部にまでなれるのではないか、と野望を抱いていた。だけど、そこに至る道がいかに理不尽に破壊されうるか、とわかるとプルサスで階段を上っていく意思を失った。
その時、手下の一人が、かつて訪れた古代遺跡が根城をして使えるのではないかと提案してきた。それで、プルサスを捨てて、野盗として旗揚げする覚悟を決めたのだ。ちょうどその頃に、人づてにボウロウが野盗として旗揚げするなら手伝いたいと入って来た。
あの時、パクスは正直言って驚いた。プルサスを捨てる話は仲間としかしていなかった。それがどういうわけか、割れ窓の一員に漏れていた。その人にとっては、下部組織が夜逃げしようが関係なかったのかもしれない。あるいは、割れ窓にとって、弱小下部組織の存在などそういうものなのかもしれない。いずれにせよ、パクスたちの行動は止められなかった。ただし、ボウロウを受け入れるのなら静観する、という雰囲気があった。だから、パクスはこの素性を知らない男を受け入れるしかなかった。
しかし、パクスもただ腕っぷしだけで手下たちをまとめてきたわけではない。その後で調べを入れて、割れ窓の方で動きがあって、暗殺者の一人に賞金が掛けられるかどうかという事態になっているのを知った。ボウロウ本人に直接聞いてはいないが、その暗殺者がボウロウだと状況から判断できた。その後の働きからも、この予想は裏付けられた。
凄腕の暗殺者が仲間だという点は、嬉しさより怖さが勝る。だから、パクスは手下の誰にもこの推測を話してはいない。そして、パクス自身はボウロウに同情していた。噂を聞いた限りでは、ボウロウもまた大組織に切り捨てられた存在だったからだ。
「……まあいい。本音を言うと、俺もあの歯抜け野郎を邪魔に思っていた。戦いでは頼りになったが、死んだら死んだで清々している」
ボウロウはまた話さなかったが、頷いた。そこにパクスは詰め寄ると、顔を相手に近づけて睨む。
「だからと言って、調子に乗るなよ。今度からは、誰かを片付ける時は必ず俺に話を通せ。あるいは、俺から指示があるのを待て」
「……わかった」
ようやく返事があり、パクスは間を空ける。
「これ以上、人が減ると仕事に差し障る。だから、基本的に殺しは禁じる。わかったな?」
「わかった」
「ウージが戻ったら、狩りに出かける。次に、小娘を増やすのもなしだ」
「わかった」
「なら、行け」
パクスが片手で追い払うと、予想していなかったことにボウロウから話しかけてきた。
「一つ提案がある」
「……なんだ?」
「明日の墓穴だが、浅くしてはどうだ? 穴を掘るのは骨が折れる。それに……」
ボウロウが言葉を止めた。当然、先が気になるパクスが促す。
「それに?」
「穴が浅いと、獣が嗅ぎつけて掘り返そうとするかもしれない」
パクスは嫌悪感から眉を寄せた。ドルスは嫌な奴だったが、死体を狼などに食らわせるほど嫌ってはいない。ボウロウはそれほどまでの憎しみをもってドルスを殺したのだろうか? もしそうなら、この男は危険だと思った。
「獣が向こうからやってくれば、仕留めやすい」
続けられた言葉を、パクスは束の間理解できなかった。瞬きを二三回してから、ようやく狩りについて話しているのだと理解する。死体を釣り餌として利用する、という献策だった。
すぐに、良い手だと思った。ボウロウの前の献策を受けて、手下たちには狩りを兼ねた長期的な見回りをするように指示をした。しかし、所詮は素人の狩人なので、獲物は一つも仕留められなかった。だが、この砦近くまでくれば、さすがに一匹くらい射貫くことはできるかもしれない。
もちろん、この策に対する反発もすぐに気付いた。ドルスの仲間たちだけでなく、他の者を巻き込んでの反乱を引き起こしかねない、非人道的な策だ。それを含めて考えると、悪い策だった。
「大っぴらに、死体を餌にすることはできないな。それとなく、穴を浅くするように勧めて、そうなるなら、お前の策を実行しろ」
パクスは、自らが関わることを避けた。それなら、問題となった時にボウロウに責任を押し付けられる。
ボウロウは頷いた。その様子を見るに、策の非人道的な面に気付いていないようだった。やはり、元暗殺者なので人の生き死への考え方が、一般とはかけ離れているようだ。
やはり、この男、危険か。
パクスは心の中で気を引き締めた。




