クール系JDが二十歳の誕生日にお酒の力を借りてバイト先の上司と仲を深めたりするお話
お酒は二十歳になってから。
がらんとした店内、いかにも大型スーパーっぽいBGMに混ざって、外の強風と豪雨の音が聞こえてくる。
「……ねえ、園さん」
そんな、お客さんの姿もほとんど無い酒類フロアの一角で、上司の咲野さんが、申し訳なさそうに目尻を下げながら声をかけてきた。
「本当に良かったの?今日、出てきてもらって」
湿気のせいか、ダークブラウンの片側お下げがいつもより少しうねっているような気もするけど、咲野さん美人だし、これはこれで似合ってるなぁ。
「大丈夫ですよ。せっかく店の近くに住んでるんですし、こういう時くらいは、ね?」
微笑みながら返したつもりだけど、まあ、無愛想な私が上手く笑顔を浮かべられていたかというと怪しいところ。
案の定、さっと目を逸らされた。
きっと、よっぽど可愛げのない顔をしていたんだろう。
「ありがたいけど、園さんが社畜になっちゃわないか心配だよ……」
「?……そうですか?」
社畜なんて、学生バイトの私には縁遠い言葉だと思うんだけど。
近所もド近所、正直今日みたいな台風の日ですら歩いて帰れなくも無いところに住んでいるんだから、悪天候で出勤出来なくなった人の代わりに出るのは、当然のことなんじゃ無いだろうか。
「うん、やっぱり園さん、社畜の素質あるよ……」
苦笑を浮かべながら言う咲野さんの言葉に、この人の下でならそれも悪くないかなぁなんて、少しだけ思ってしまう。
――私がここ、総合スーパー『おーるいん』でバイトを始めたのは一年半くらい前、大学に進学してからだった。
無事に志望校にも行けたことだし、これからはせめて、自分にかかる雑費くらいは自分で賄おうと思って始めたスーパーの店員だけど、続けてみればこれが案外楽しくて。
元々熱中している趣味なんかも無かった私は、ふと気が付けば結構バイト三昧な毎日を過ごしていた。
社畜、なんていうのは流石に大袈裟過ぎるけど、それこそこんな、台風の日ですら急遽出勤しようと思えたのはひとえに、今隣で品出しをしている咲野さんのおかげだと思う。
人生初バイトで右も左も分からなかった私に、手取り足取り仕事を教えてくれたフロアチーフ。
いつも柔和な顔立ちで、失敗しても怒ったりせず、どこが良くなかったか、どうすれば改善できるかを一緒に考えてくれた。
真面目だけど、堅物過ぎると言うこともなく、一緒にいるとリラックスして仕事に臨める。
もちろん、他の従業員さん、店長やパートの人たちだって良い人ばかりだけど。
やっぱり私の中で、咲野さんは特別だ。
一番信頼してるし、一番尊敬してるし、一番一緒にいて楽しい人。
この人がいるから、バイトが楽しいって思えるんだ。
「……?どうかした?」
みたいな感じのことを考えながら横顔を見つめていたら、咲野さんが不思議そうな顔をする。
「あ、いえ、こう言う日ばっかりは流石に、お客さんも少ないなぁって」
感謝感激してましたなんて正直に言えるはずもなく、私の口から出てきたのは、そんな当たり障りのない言葉。
「まぁ、暴風域の真っ只中で買い物する人は、流石に中々いないよねぇ」
その分、台風の予報が出てた昨日、一昨日辺りは買い溜めに来るお客さんも多かったけど。
「従業員も最低限の人数だし、正直やることもあんまりないし、楽と言えば楽よねぇ」
「ですね」
今日の出勤人数は店長、フロアチーフ咲野さん、レジ担当の社員さん二人、私の計五人。
店の規模的に普段ならあり得ない数だけど、今日はもう念のための店番みたいなものだから、この人数でも全然仕事は回せてる。
それこそ今こうやって、品出しすら二人でお喋りしながらやってるくらいには。
普段はお客さんや従業員で賑わっている店内も、今日はがらんと人気がなくて。いつもの喧騒の代わりに、聞き慣れない雨風の音が微かに響いている。
今日っていう、ちょっとした非日常。
それを咲野さんと一緒に過ごせていることに、なんだか少し、そわそわする。
……台風の日にテンション上がる小学生みたいだな、私。
知り合いからはよくクールだとか言われるけど、実際のところ私はただ無愛想なだけで、中身はめちゃくちゃ子供っぽい人間だって、自覚はある。
大人の女性っていうのは、咲野さんみたいに物腰柔らかで、包容力があって、それでいてしぐさの端々に、ほんのりと色気が見え隠れしている。そんな人のことを指すんだと思う。
「……お酒、気になる?」
「え?」
どうも、チューハイの缶を陳列していく咲野さんの指先を、無意識のうちに目で追ってしまっていたみたい。
思考がすぐ目線に表れちゃうところも、我ながら子供っぽいなぁ。
「いえ、あ、いやまあ、興味ないこともないですけど」
色気だなんだと変なことを考えていたのがちょっと気恥ずかしくて、顔をあらぬ方向に逸らす。
こういうところが無愛想なんだって、自分に呆れながら。
「……あ」
そうして向けた視線の先。
長らくそこに鎮座していた商品が無くなっていることに気が付いて、小さな声が口から漏れた。
「あれ、売れたんですね」
品物が無くなり、少しだけ開いたスペースを目で指しながら、咲野さんに問いかける。
「え、あ、うん、そうみたいだね」
定期入荷の予定もない限定もの、開いたスペースがまだそのままにされているってことは、ごく最近、それこそ昨日今日で売れたんだろう。
「良かったですね。これで酒の担当さんも喜ぶんじゃないですか?」
「そう、だね」
咲野さんが少し歯切れの悪い返事をしてくるのは、つい先日まで、あんなの売れないでしょーって、二人で笑っていたからだろうか。
「台風にかこつけて高いお酒飲もうって人も、いるんですね」
お酒の味を知らない私からしたら、よく分からない感覚だけど。
つい先日までそこに陳列されていたのは、この店に並ぶ他の酒類とは明らかに値段の違う、お高いウィスキーのボトルだった。
冗談抜きで桁が一つ違う、超高級品。
うちはそこそこに大きなスーパーで、雑貨やら変なグッズやらも取り扱ってるヘンテコな店なものだから、各部門の担当社員さんが、たまに妙な商品を仕入れてくることがあるんだけど。あのウィスキーはその中でも、値段という点で頭ひとつ抜けた問題児だった。
酒の担当さんが勢いで仕入れてから、一年くらい売れなかったほどだ。
一つだけならまぁ売れるだろうという担当さんの予想も虚しく、あのたった一本のボトルはいつまで経っても無くならず、最近では店長さんが「次の異動までに売れなかったら自腹な」なんて冗談まで言い始める始末。
そんな、今日まで埃を被ってきた店に不釣り合いなほどの高級品が、ようやく売れてくれたみたい。
「そういう意味では、台風も悪くないかも知れませんね」
こうして咲野さんと、いつもと違う時間も過ごせるし。
「そ、そうだね」
けどその咲野さんの方は、やっぱりなんだかぎこちない物言いで、同じ言葉を繰り返す。
なんでだろう……あ。
「あ、すみませんっ。お店にとってはマイナスなのに、悪くないだなんて……」
いくら高い商品が一つ売れようとも、丸一日客足が遠のくことのダメージを考えれば、安易にこういうことは言うべきじゃなかったかも知れない。
口に出す前に思い至れない自分の幼稚さが恥ずかしくなってしまい、慌てて頭を下げた。
「あぁ、違うのっ。そういう事じゃないから気にしないでっ。ただその、うん、案外売れるものなんだなぁってっ」
わたわたと手を振りながら、フォローしてくれる咲野さん。
優しさが身に染みる一方、やっぱり自分のこういう、社会を知らないところは直していきたいなぁって反省する。
「すみません、以後気を付けます」
あんまり食い下がるのも変だから、もう一度簡潔に謝るに留める。
次からは無いようにしよう、うん。
「大丈夫、大丈夫っ。ほんと、気にしないで良いからね?」
目尻を下げて微笑みかけてくるその表情に、安心するのと同時、もっとしっかりしなきゃって気持ちも湧き上がってくる。
咲野さんに、こうやって気を遣われることがないくらい、ちゃんとしなきゃって。
大人になりたい……っていうよりも、なんていうか、咲野さんに子供扱いされたくないっていうか。
でもこの考え自体が、子供っぽいっていうか。
でもやっぱり、咲野さんに。
咲野さんに……?
咲野さんに、何だろう?
咲野さんにどうされたいのか、自分でもよく分からないけど。
まぁでもやっぱり、私の思考は咲野さんを中心に回っているんだと感じて、何だかちょっと嬉しくなった。
うそ、けっこう嬉しくなった。
◆ ◆ ◆
「お疲れさまでした」
「おう、お疲れさん。台風ん中ありがとうな。助かったわ」
「いえいえ」
事務所で作業中の店長に声をかけて、退勤のタイムカードを押す。
オールバックで固められた顔付きはちょっと厳つめだけど、真面目でありつつも意外とおちゃめな人だって分かってるから、そんなに怖くは感じない。
今だって、パリッと糊の効いたYシャツの上から、お店のロゴが入ったピンクのエプロンを着けてるし。
「少ないけど、当然特別手当は出るから」
キーボードを叩く手をいったん止めてこちらに顔を向けながら、店長がそんなことを口にした。
こういう、さりげないけど誠実なところが店員のみんなから信頼されてる理由なのかなぁ、なんて一瞬思いながらも、特別手当という思いもよらない言葉に少し驚いてしまう。
「そんなっ、大したことじゃ……」
「こんな日に急遽出てくれるってのは、十分大したことなの。受け取っときな」
「……はい、ありがとうございますっ」
正規の手順を踏んだお金のやり取りに、変な遠慮や謙遜はいらない。
以前言っていた店長の言葉を思い出して、ここは素直に感謝しておくことにした。
「こちらこそ。じゃ、咲野チーフがいるから大丈夫だとは思うけど、気をつけて帰りなよ」
「はい、店長もお気をつけて」
台風も目に近づいていて、雨風はさっきよりも弱まってはいるけれど、それでも安全の為ってことで、帰りは咲野さんに車で送ってもらうことになっている。
申し訳なく思う一方で、もう少し咲野さんと一緒にいられることを、喜んでいる自分がいた。
もう一度店長に挨拶をしてから、変に軽い両足を落ち着かせながらロッカールームへ。
そこには、一足先にエプロンを脱いで帰り支度をしていた咲野さんの姿が。
「すみません、お待たせしてしまって」
「あ、ううん全然っ、慌てなくても大丈夫だよ」
そんなことを言いながらも当の咲野さん自身は、何やらそわそわと落ち着きがない様子。
もしかして、この後何か予定でもあるのかな?
いやでも、台風の日に用事だなんて。
いやいや、こういう日だからこそ、自宅で何かしたい事でも……も、もしかして、恋人、とか、そういう人が待ってるのかも……
そこまで考えて、なんだか妙に気分が重くなった。
さっきまでの浮足立った気持ちが、急に萎んでいくような。なんでだろう?
疑問に思いながらも、でもそんなことよりも、大事なのは咲野さんに恋人的なお相手がいるのかっていうこと。
今までそういう話は聞いたことがなかったけど、でも咲野さん美人だし、恋人の一人や二人くらい居たっておかしくはない気もする。
「……あの、もしかして、急いでます……?」
急に浮かんできた疑問を、だからといっていきなりぶつけるわけにもいかず。
それでも反射的に口に出した言葉が自分の耳に届いた後で、いやこの質問も変に気を遣わせるだけじゃんって、遅ればせながら気が付いた。
「え、あ、そういうわけじゃないんだけど……」
ほら、もう。
案の定、咲野さんが少し焦ったような表情を浮かべだす。
「あ、あの、えっと、私」
困らせるつもりじゃ、なんて言おうとして、でもこのセリフも結局咲野さんを困らせるだけなんじゃないかって、喉の奥でつっかえてしまう。
恋人だとか、台風の夜に自宅でー、だなんて妙なことを考えてしまったのも相まって、私の思考はすぐに空回りしちゃって。
結局、二人揃ってあの、あの、だなんてしどろもどろになりながら、ロッカールームに漂う気まずい空気を吸い込む羽目に。
「……、っ……」
どうしよう、どうしよう。
冷静に考えれば、別に大したことでもないのかもしれないけれど。ただ、ほんの少しの時間ですら、咲野さんと気まずい感じになりたくなくて。けどそんな考えが余計に、私たちの間の気まずい空気を濃くしていくような。
なんて言えばいいのか分からない。
どうやって、仕切りなおせばいいんだろう。
経験に乏しい未熟な自分が恥ずかしくなってくる。
こんな時ですら、縋るように咲野さんの顔を窺ってしまう自分が、まだまだ子供だってことを痛感させられる。
「……あのっ」
そんな、情けない私の視線を受けて、咲野さんが声を上げた。
後ろを向き、ロッカーから何かを取り出して、もう一度、良すぎるほどに勢い良く私の方へ。
「園さんっ、今日誕生日だったよねっ!?せ、成人おめでとうっ!!」
部屋中に響く声と共に差し出されたのは、明るい黄色の包装紙に包まれた、円筒状の何か。
急に鼻先に突き付けられたそれがプレゼントだってことと、咲野さんがわたしの二十歳の誕生日をお祝いしてくれてるんだってことに気が付くまで、数秒の間があった。
「……え、あ、あの、私の誕生日、知ってたんですか?」
やっとこさ開いた口から漏れたのはそんな言葉で。
いや、まずはありがとうございますでしょって、どこか頭の片隅で思いながらも、ビックリし過ぎて訂正もままならない。
「……えっと、一応上司だし、園さんの履歴書とか見たことあるから、その時に、ね……?」
どこかこちらの顔色を窺うような、普段はなかなか見ない表情で、咲野さんが言う。
確かに言われてみれば当たり前かもしれないけれど。
それでずーっと、私の誕生日なんて言う些細な情報を覚えていてくれたことに、なんだか、すごく、きゅってなる。
心臓が、ぞわぞわしだす。
くすぐったくて気持ちよくて、息が詰まってしまう。
「……っ、……っ」
言葉にならない嬉しさを伝えられなくて、そんな、黙りこくった私を見た咲野さんが勘違いしてしまう。
「ご、ごめんねっ、やっぱり気持ち悪いよね、上司が勝手に生年月日把握してるとか、め、面倒くさいよねっ」
眉を八の字に歪めながら、差し出した何かを引っ込めようとする咲野さん。
違うんです、っていう前に、手が勝手に動いていた。
「「あっ……」」
プレゼントごと、咲野さんの両手を包み込むみたいに。
「……あの、違うんですっ」
言葉がやっと、身体に追いつく。
「凄く嬉しくて、びっくりしちゃって、思わず固まっちゃったっていうか……とにかくその、ホントに、ホントに嬉しいです」
追いついたところで、口下手な私には気の利いたことなんて何も言えなくて、結局口をついて出たのは、まるで子供みたいに語彙に乏しいセリフだった。
「咲野さん、ありがとうございますっ……!」
止まない心臓のぞわぞわにかき乱されるようにして、語尾が一拍跳ねあがってしまう。
それくらい拙い私の謝意に、咲野さんの表情はようやく、明るいそれへと変わってくれた。
「……よ、良かったぁっ……!」
心なしか、咲野さんの言葉尻も、いつもより少し跳ねているように聞こえる。
それがまた嬉しさを呼んで、心から流れる静電気が、私の口の端を上向かせた。
「じゃあ、改めてこれ。ご両親とか、お友達とかといっしょに飲んでみて」
今度こそその薄黄色の包みを渡しながら、咲野さんが言う。
その言葉と二十歳の誕生日ってことから、なんとなく中身が推測出来た。
改めてお礼を言おうとして、ふと思い出す。
ようやく売れたあの商品。
にしては妙に歯切れの悪かった、さっきの咲野さん。
手に取ってみれば、包装紙越しのその形も、それのシルエットと一致するような。
まさかと思いながら、恐る恐る聞いてみる。
「咲野さん、これ、もしかして……あのウィスキー……ですか……?」
不思議と、半ば確信みたいなものを抱きながら問えば。
「うん、あれ」
咲野さんは、何故だかちょっと恥ずかしそうにしながら、頷いて見せた。
「そ、そんなっ、そんな高いものっ……!」
さっきとは違う意味で、声が上擦る。
だってあのウィスキー、桁が一つ違うんだから。
いくら成人の記念だからって、職場のバイト学生にポンっと贈れるようなものなんだろうか。
恐縮っていうか、本当に貰っていいんだろうかって考えから、思わず突き返してしまいそうになる。
なる、けど。
「や、やっぱり迷惑だったかな……?」
咲野さんが零したそんな言葉で、私の両手は押しとどめられた。
「確かに結構良い値段したし……でも、折角の二十歳の誕生日なんだからって……でも、でも、ただの職場の上司からってなると、やっぱり重い、よね……?」
咲野さん自身も、そう思ってたんだ。
ただの社員とバイトの間にしては、大仰過ぎるって。
でも、それでも。
重いかもって思いながらも、奮発して贈ってくれたんだ。
それぐらい、私のことを想ってくれてたんだ。
そう思うと、遠慮とか申し訳なさとか、そういう建前みたいなものは全部溶け落ちていってしまって。
「――そんなこと、ないです。とっても嬉しい……」
一瞬の沈黙のあと私の口をついて出たのは、それよりも遥かに大きな、嬉しいって気持ちだった。
「……びっくりは、しちゃいましたけど」
さっきも言った言葉。
さっき以上の驚きと喜びを乗せて、もう一度、今度はおどけるように言えば。
「あはは、サプラ~イズっ、なんてね」
咲野さんも、嬉しそうに笑ってくれて。
ただでさえ頂いた側なのに、そんな素敵な笑顔まで見せて貰っちゃって良いのかなんて思いつつ。
でも、なんだか、抑えが効かない。
「……あの、咲野さん」
「うん?」
「これ、友達とか、親と飲んでって言ってましたけど……」
こんなこと言うと、迷惑だろうか。
本当に嬉しそうなその微笑みをもっと欲しいと思うのは、わがままなのかな?
ああ、でも、止められない。
誕生日。二十歳。台風の音。二人きりのロッカールーム。
これから乗せてもらう、咲野さんの車。
色々な特別が、私の背中を押し過ぎなぐらいに押しているような気がして。
そんな勢いに任せて、妙なことを、口走ってしまう。
「私、その、咲野さんと飲んでみたいです……初めてのお酒」
「……え?」
ねぇ、咲野さん。
その顔は。
吃驚したような、でも、すぅーって口角が上がっていくようなその表情は。
「……駄目、ですか……?」
――良いってこと、ですか?
◆ ◆ ◆
「お邪魔します」
「ど、どうぞ」
初めての咲野さんの自宅ってことで私も結構ドキドキしてるんだけど。
当の咲野さん自身は、どうも私以上に緊張しちゃってるみたい。
車が動く程度の強風のなか辿り着いた咲野さんの家は、小さいながらも小洒落たマンションの一室だった。
淡いクリーム色の壁紙に、シックな木製の家具で統一された1LDK。
一人で住むにはちょっと広過ぎる気もするけどね、なんて言うその背中は、部屋の雰囲気と相まっていつも以上に大人びて見える。
だというのに、その声は緊張からか少し上擦っていて、それが伝播するみたいにして、私の心も期待に慄いているような気がした。
……期待?
私、何に期待してるんだろう?
初めてのお酒の味?
初めての酔いの感覚?
初めての……なんだろう?
……分かんない。
分かんないけどとにかく、件のウィスキーを、水やおつまみなんかと一緒に持ってくる咲野さんの部屋着姿に、言いようもなく気持ちが昂っているのだけは確かで。
「じゃあ、その……」
いつの間にかテーブルを挟んで向かい側に座っていた咲野さんの呟きで、やっと、目の前のグラスにそれが注がれていることに気が付いた。
「二十歳の誕生日、成人、おめでとうってことで」
なんだか厳かに告げる咲野さんの格好は、自宅らしくラフなもの。
咲野さんと言えばカッターシャツに社用エプロンにタイトデニム、なんていう固定観念に囚われていた私は、その全体的に緩やかなシルエットの黄緑のスウェットに、妙に心を奪われてしまっていて。
「か、かんぱーいっ」
「――っ、ぁ、かんぱい、です」
ほとんど反射的に、咲野さんの声に誘われるようにして、その琥珀色の液体を唇に付けた。
一番最初なんだし、折角だからロックで。
なんていう、耳を通り抜けちゃってた咲野さんの言葉通り、氷も解けないうちのそのウイスキーは九割九分原液そのまんま。
いや、カ○ピスじゃないんだから原液っていう言い方が合ってるのかも分かんないけど、とにかくその、どこかとろみすら感じさせる高濃度のアルコールが、私の喉を一気に焼いた。
「――んっ、ぐっ、ふぐぅっ……!」
ぎりぎり咽せなかったのは、咲野さんの前でみっともない姿を見せたくなかったからっていうのと、その焼け付くような感覚が、意外と悪くなかったからっていう、二つの理由によるもの。
「だ、大丈夫っ!?」
身を乗り出す咲野さんを手で制して、グラスを勢い良くテーブルに置く。
飲み下すにつれて、喉どころか食道や胃の内壁までもを火照らせていくその感覚は、どこかじりじりとした痛みすら伴うものだったけど。
でも、でも何故だか、咲野さんと初めて会ったときの記憶を鮮烈に甦らせてもくれた。
バイトの採用面接のあの日、一番最初に見た、咲野さんの微笑みを。
「……結構、好きかもです。この感じ」
掠れた声で呟いた言葉は、強がりなのか、本心なのか、自分でも良く分からない。
でも少なくとも、こうして咲野さんと節目の瞬間を迎えられたのだから、お酒というものに感謝の念を抱くのは、間違いじゃないと思う。
ちりちりと体の内側を優しく炙るような感覚に、これがアルコールかぁ、なんて子供じみた感想を抱く。
いや、もう二十歳なんだし子供なはずもないんだけど。
でもやっぱり、誕生日を迎えたからって、お酒が飲めるようになったからって、自分の中で劇的に何かが変わるわけでもないし。
とりあえず、もう一口。
二口目は最初よりもゆっくり、今度はちゃんと味わおうと思って少しづつ口に含んでみたけれど。
「……ん、んー……」
苦いような甘いような、なんだかよく分からない味。
正直言って、美味しいとは思わない、かも。
でも、氷で冷やされているはずのそれが、飲み下した途端にかっと熱を発するこの感じは、嫌いじゃない、かも。
……一口目の時もおんなじこと言ってたな、私。
「どうかな?わたしなんかは、最初飲んだ時は不味ぅって思っちゃたものだけど」
不思議な味わいに顔を顰めていた私に、咲野さんが言う。
手に持ったグラスも注がれたウィスキーも私と同じものなはずなのに、何で咲野さんが掲げていると、すごーくお洒落な感じに見えるんだろう。
「……正直、美味しいかどうかはよく分からないですけど……」
こんなお高いものを頂いておきながら、このセリフはどうなんだって思わないでもないけど。
咲野さんも前振りしてくれてたし、つい言っちゃった。
いつもとは違うラフなその姿に、私の気持ちも緩んじゃってるのかもしれない。
「けど、割と嫌いじゃないかもです」
「そっか、良かったぁ」
ふわっと微笑むその顔も、いつも以上に朗らかに見える。
まぁ、仕事中でもないんだし、当然と言えば当然か。
「……あ、でも……飲ませた後に言うのもなんだけど、ほんとに大丈夫だった?ご両親、心配とかしてない?折角の、二十歳の誕生日なのに」
「全然ですよ。うち、結構放任主義ですし」
祝いの言葉なんて、朝起きた時におはようついでに言われて終わりだし、バイト先の人と飲むって連絡しても、「はいよー」の一言で済ませてしまううちの家族。
他の家庭がどうかは知らないけど、正直言って私個人的には、このくらいの距離感が心地良い。
「だから、咲野さんは何にも気にしなくて大丈夫です」
笑いかけつつ、もう一口。
不愛想な私のぎこちない笑顔なんて見たくもないだろうか、なんて考えながらも、なんだか表情筋が言うことを聞いてくれない。
口の端が勝手に上向いてしまう。
なんでだろう。
……まぁいっか。
「んっ……」
何故かふと、一口目の咽かけてしまった感覚を思い出して、次はまた勢い込んでグラスを傾ける。
「お、おぉー……」
何やら驚いたような感心したような咲野さんの声を耳に捉えながら、こくりこくり。
食道が拒否しない程度の少量を、けれども止まることなく飲み込んで。
今度は「かっ」て言うより、じわーっと広がるような熱が絶えず胃まで落ちていくような、そんな感覚。
あぁ、これ、結構好きかも。
「……ん、ふぅ……」
ひとしきり熱さを楽しんでから、グラスをテーブルに置く。
見れば琥珀色の液体は、思ったよりも減っていた。
「……園さん、結構お酒強いんだねぇ」
「そうなんでしょうか?初めて飲むから、よく分からないですけど」
「でも、あんまり一気に飲み過ぎると危ないから、ちょいちょいお水とか挟むと良いよ」
「はい、ありがとうございます」
用意してあったお冷やを、おつまみと一緒に勧めてくれる咲野さん。
強い、弱いはよく分からないけど、飲み方に関しては間違いなく咲野さんの方が詳しいはずだから、ありがたく気遣いを受け取っておく。
……お酒の後だと、水が妙に美味しく感じるなぁ。
他愛もない雑談なんかを交えつつ、枝豆とか裂きイカとかジャーキーとか、私でも知ってる定番どころをつまみながら、小休止。
でも、そういう塩っけのあるものを食べてると、なんだかまたすぐに、あの胃を焼く感覚が恋しくなってくる。
というわけで、再びグラスを手に。
良い気分のまま、残っていたウィスキーを一息に呷る。
「……、……っ、……」
舌の上では冷たいままなのに、喉を超えた瞬間から急に熱を持ち始めるって、不思議だなぁ……なんて思いながら喉を鳴らしていると。
「……」
ふと、咲野さんが私のことを凝視していることに気が付いた。
「……あの、どうかしましたか?」
「……え?あ、うぅん、何でもないよ。何でもない、うん」
空になったグラスをテーブルに置きながらこちらが聞けば、あちらは焦ったようにさっと目を逸らす。
お酒のせいか、その頬はちょっと赤くなっていて。
「……ふふっ」
「な、何?どうかした?」
「いえ、なんでも」
それが、なんだか妙に可愛く見えて、つい笑ってしまった。
「……」
「……」
「……」
「……」
沈黙が生まれる。
けど、さっきのロッカールームの時みたいな、気まずい感じはない。
静かだけど、楽しくて。
飲み下したばかりのふわふわとした熱が、胃の方から、段々と私の心までも火照らせていっているような。
こうして部屋の中から音が失われれば、その分、家の外で鳴り響く台風の音が耳に付く。
「……」
「……」
「……」
「……」
不思議な感じだ。
風や雨が窓を叩く音は、自然の驚異をあからさまなほどに伝えてくるっていうのに。
それに恐怖を抱くことも、不快に思うこともない。
むしろ、そのノイズにも似た音たちが、私と咲野さんをそれ以外から隔ててくれているような。
なんだろう。
一つのイヤホンを二人で付けて、そこから流れる音で私たちを閉じ込めているみたいな。
今この空間は、私と咲野さん、二人だけのものなんだよって、世界が認めてくれてるみたいな。
……何言ってるんだろ、私。
自分でもよく分かんないや。
よく分かんないけど、なんだか凄く、気分が良い。
「よい、しょっと」
気分が良いまま、二杯目を投入。
「咲野さんは大丈夫ですか?」
「あ、うん。わたしはまだ残ってるから」
氷を足して、酒を注いで、枝豆を一口。
塩の効いたそれをぽりぽりと味わってから、二杯目に口を付ける。
「……ほんとに、お酒強いっぽいね……ものすごく……」
「……んぇ?」
二杯目ってことで結構ごくごく言わせながら飲んでいたせいで、グラスに口を付けたままの、気の抜けた返事をしてしまった。
「ロックをその勢いで飲める人、わたし初めて見たよ……」
そんなに物珍しいのだろうか。うちの両親はどっちも、お酒飲むときはこんな感じなんだけど。
「血筋かぁ……」
納得したように頷く咲野さん。
やっぱりどこか心配してくれていたみたいだけど、でも大丈夫。
ちゃんとさっきの言いつけ通り、小休憩も挟みつつですから。
酒、水、つまみ。酒、つまみ。酒、水、つまみ。酒、ウィスキー、つまみ、酒。
あ、空になった。
三杯目ー。
「咲野さんも、どうぞ」
「うん、ありがとー」
「んっ、んっ、んっ――はぁっ」
「……うわーお……」
あれ、もう空になってる。
まあいいや、四杯目ー。
「……まぁ、これだけ楽しそうに飲んでくれるなら、贈った甲斐もあったかな」
嬉しそうにはにかむ顔が、グラス越しに、琥珀色に染まって見えた。
もう、そんな顔されて、そんなこと言われたら、ますます楽しくなってきちゃう。
「はいっ、咲野さんとこうして過ごすの、とっても楽しいですっ」
「!?そそそそうっ?それなら良かったわっ、うん、良かった良かったっ」
笑顔……を通り越してにやけ顔になっちゃってる私の表情は、どうやらよっぽど変だったみたい。
咲野さんは、顔を逸らしながらも目線だけはちらちらと、何度もこちらに向けてきている。
「……私、そんなに変な顔してますか?」
「変じゃないよっ。むしろそのか、かわ……い、っていうか……」
グラスで口元を隠しながら何やら呟かれても、ただただセクシーなだけで何を言っているのか全然伝わってこない。
「んー……ちょっと確かめてきます。お手洗い借りても良いですか?」
「……あ、うん、どうぞ……?」
もしかしたら、お酒のせいでとんでもない顔になっちゃってるかもしれないし。
流石に咲野さんの前で、直視に耐えないような顔面はしていたくない。
そう思った私は、しっかり五杯目を飲み干してから立ち上がる。
「……ていうか、大丈夫?ふらついたりは……全然してないね、うん……」
合わせて一瞬腰を上げかけた咲野さんだったけど、私が普通に洗面所へと向かっていくのを見て、何故だかちょっと残念そうに、その場に座り直していた。
◆ ◆ ◆
「お待たせしました」
「どう?変な顔じゃなかったで――」
トイレから帰ってきて、腰を下ろす。
今度は、咲野さんの左隣に。
「――うぇ!?ど、どどどうしたの園さん!?」
どさっと座り込んだ私に、咲野さんはあからさまに取り乱した様子を見せていて。
洗面所の鏡を見てもいつも通りの自分の顔しか映ってなくて、咲野さんがそばにいないのが寂しかった……だなんて、気恥ずかしくって言えるわけがない。
「テーブル越しじゃ、寂しくて」
「っ!?!?」
あ、言っちゃった。
……まぁいっか、事実だし。
人はお酒を飲むと口が軽くなるだなんて、よく悪しざまに言われているけど。こうやって、咲野さんのびっくりした赤らみ顔を間近で見られるんだったら、案外悪いことでもないのかもしれない。
「……あの、もっと近づいても、いいですか?」
それで、どうせ言っちゃったんだったら、もう隠すのは止めようって思ってしまうのも、自制心が溶かされた今の私にとっては至極当然のこと。
「も、もっとって、もう十分過ぎるくらい近いよ……?」
「そうですか?ほら、まだまだ近寄れますよ?」
言いながら、咲野さんの方へと体を寄せていく。普通に隣り合って座る時くらいに空いていた私たちの隙間は、あっという間に縮まっていった。
「えへへ、咲野さん……」
「そ、そそ園さんっ……!?」
普段なら絶対に言わないであろう笑い声を呟きながら、咲野さんの左腕にぴとっとくっついてみる。
別にブってるとかじゃなくて、なんか、ふわふわした幸福感に包まれて、ついらしくない言動をしてしまう。
こうしてみると改めて、私と咲野さんって背丈はそんなに変わらないんだなぁとか思ったりもして。
そのお陰か、顔を上げてみればすぐそこに、咲野さんの綺麗な顔があった。
「……」
「っ」
普段は優しげな微笑みに彩られているそれは、何故だか今は真っ赤に染まり、瞳は落ち着きなく小刻みに揺れ動いていて。
この人の可愛らしい一面を再確認するのと同時に、もしかして、お酒のせいでこうなっちゃってるのかなぁとも考える。
私が酔った勢いで普段とはかけ離れたことをしてしまっているように、咲野さんも酔っぱらっちゃったせいで、可愛い部分がより鮮明に出てきてしまっているのかな、なんて。
そう考えてみれば、ふと、咲野さんの方から漂うアルコールの匂いが鼻に留まる。
酒臭いなんて感想は全く抱かず、私を心地良くしてくれるウィスキーの匂いと、大好きな咲野さんの香りが混ざり合って、むしろ、すごくすごく、そそられる。
……私いま、大好きとか言った?
……まぁ、いいや。
とにかく重要なのは、咲野さんが今、いつも以上に私の好きな香りを漂わせていて。
それが殊更強く香ってくるのは、咲野さんの桜色に濡れた唇の、その奥からだっていうこと。
「ね、ねぇ園さん、なんだか顔、近くない……?」
「そうですか……?」
咲野さんの言葉にぼんやりと何かを返しながら、吸い寄せられるようにして顔を近づけていく。
もっともっと酔いたくて、もっともっと感じたくて、触れている左腕に体を押し付けながら、その口元へと。
「そ、園さん……っ、園さん、そんな……ダメっ、……くっついちゃう……」
くっついちゃうことの、何がダメなんだろう。
咲野さんだって、そんな、物欲しそうな顔をしているくせに。
もう目と鼻の先にまで迫った唇を前に、大きく息を吸い込んで。
お酒と咲野さんの香りにくらりと体が傾いで、私たちはあっさりとくっついちゃった。
「……んっ」
「ぁん、む……」
ぎゅっと目をつむる咲野さんの顔が可愛すぎて、つい凝視してしまう。
とはいえ、私たちの間に隙間は無いから、見えるのはまぶたくらいのものなんだけど。
キスをするときは目をつむるのがマナー、みたいな言葉をふと思い出して、でも別に今は関係ないなぁって、すぐに脳みそのどっか端っこの方へと放り投げた。そんなことよりも咲野さんの顔を記憶に焼き付けるほうが、五百兆倍くらい大事だったから。
「ふぅ……」
「ん、んぅっ」
酔いのせいか少しばかり鈍感になってしまっていた私の唇は、この辺りでようやく、咲野さんのそれの感触を私へと伝えてくる。
柔らかくて、少し湿っていて、柔らかくて、ぷるぷるで、柔らかい。
それから、ほんのりとウィスキーの熱と苦みが乗っていておいしい、気がする。
うん、気がするだけ。だってまだ、ただ触れ合っているだけだから。
というわけで真偽を確かめるべく、いざ、実食。
「はむっ」
「っ!?!?――ひゃぁっ!?!?」
唇で軽く食んで見ると、咲野さんはびっくりしたように目を見開いて。そのまぶたをじっと見つめていた私と目が合い、更に驚きの悲鳴を上げる。
飛び跳ねる体の動きに伴って唇は離れてしまい、私の舌はまるで名残惜しむように、勝手に私のそれをぺろりと舐めた。
「ん、おいし……」
「お、おいしいって――じゃなくてっ、キスするときは目を――でもなくってっ、はむってされると――の前にそもそもっ、きゅ、急にキスだなんて……!」
顔を真っ赤にして、目を潤ませながらわたわたしている咲野さんはどうやら、私が急に唇を寄せてきたことに驚いているらしい。
「……いい香りがしたので」
「……っ、うっ、ぅぅぅううっ……!」
私としてはこれ以上ないほどに妥当な理由を述べたつもりなんだけど、どういうわけか咲野さんは、子犬みたいな唸り声をあげだしてしまった。
何かを堪えるようなその声音に、そんなに私とキスをするのが嫌だったのかと考えてしまって。
それでようやく、ああ、私、咲野さんとキスしたんだって、ぼんやりと思い至る。
やっぱり、目は瞑っておくべきだったかもしれない。
で、キスしたんだと思えばなおのこと、咲野さんの態度に少しばかり悲しい気持ちが湧き上がってくる。私はすごく、すごく良かったのに、咲野さんはそうじゃなかったのかなって。
「……そんなに嫌なら、避ければよかったじゃないですか」
口をついて出たそれは、少し拗ねたような生意気なセリフで、お酒が飲めるようになっても、やっぱり私は子供なんだなぁなんて、頭の片隅で考えてしまう。
「い、嫌なんかじゃないよっ!でもその、状況が状況だし、酒に酔わせてだなんて、色々と問題が……」
わたわたと弁明する咲野さん。
酩酊した頭では、尻すぼみに消えていくその言葉の半分も理解できなかったけれど。
一番大事なところ、一番最初の、嫌じゃないって部分はばっちり聞き取れた。
「やった、じゃあ良いですよね」
「え、ちょ――んぅっ!?」
一瞬で機嫌が直った私は、もう一度咲野さんの唇へと吸い寄せられる。
今度は逃げられないように、両腕を彼女の首に絡めるようにして抱き着きながら。
意図せずして腕の中に抱き込んでしまったおさげの先が、右の二の腕辺りをくすぐって、ぞくぞくと体が震える。目を閉じたのはマナーだからか、その震えのせいなのか、それとも全身の触覚で咲野さんを感じたかったからなのか、自分でもよく分からない。
ただ、一番強く感じ取れるのは。
触れている咲野さんの、少しだけ空いた上唇と下唇の間から、熱くて苦くて甘くて、くらくらと酔ってしまうような吐息が流れ込んでくるということだけ。
「んっ、ふぅ……、っ……!」
「ぁあ、らめ、こんぁのぉっ……」
もっと欲しくてその割れ目に舌を差し込んでみれば、ゆっくりと形を変えながら、私を迎え入れてくれる。
柔らかい唇に抱かれたままの舌先に、咲野さんの舌が触れて。表面を濡らす液体に、私の脳みそはもう一段階、ふわりと浮かび上がった。
さっきの、人生初の飲酒とどこか似たような、けれどもそれを遥かに凌ぐような焼け付く甘さが、私の背筋を駆け巡る。
とろりと絡みつくそれは、紛れもなく咲野さんの唾液というやつなのだろうけれど。舌先をちょんと浸すだけで、私の体は異様なほどに弛緩してしまって、けれどもどうしても離れたくなくて、両腕だけは蛇のように、彼女の首に絡みついたまま。
と、そんな私の執着を模倣するみたいに、咲野さんの舌が、私の舌を捕まえようと動き出した。
二人の唾液が絡み合ってぬるぬると滑り、そう簡単には捕まらない。
けれどもむしろそのせいで、延々と追い逃れ味蕾を擦りつけ合う鬼ごっこが終わらない。
背中の方はぞくぞくと絶えず泡立ってしまっていて、骨抜きに。もう、私の体はほとんど軟体生物みたいなものだと思う。
――ダメダメ言っておきながら、こんなにいやらしいキスをしてくるだなんて。
――咲野さんのむっつりスケベ。
みたいな感じのことを言おうと動かした舌が、彼女の舌の裏側をこそいでしまい、びくびくとその肩が震えた。
「ん……んっ、んぅぅ……んぁむ……」
「ふぅっ、んむ、はむっ……!」
上下する肩に呼応するようにして、息も荒くなっていく。咲野さんも、私も。
そうなれば当然、あの熱くて甘苦い吐息がますます私の口を、気道を、肺を満たしていって。酩酊感の伴う心地良い息苦しさが、私の脳幹をくすぐった。
このまま、ずっとこのままでいたいけど、生存本能とかいう無粋な輩が、私たちの中を引き裂こうとする。
またの名を理性と呼ぶのかもしれないそれが、私と咲野さんの舌を、唇を、一瞬だけ架かった唾液の橋さえも、離れ離れにしてしまい。
力が抜け、自分では支えられなくなった私の体は、重力に従って後ろへと倒れこんだ。
「っはぁ、きゃっ……!」
それでもなお絡みついたままだった両腕で、咲野さんを道連れにしながら。
「さ、ぁっ――」
押し倒され、上からのしかかられた圧迫感で、一瞬息が詰まってしまった。
むせ返るようなウィスキーと咲野さんの匂いで、そのまま胸もいっぱいに。
出口を塞がれた結果、咲野さん、って呼ぼうとした声は一度、私の中に引っ込んで。
気道が開くのと共に、お腹に燻る熱に当てられて再び出てきたそれは、
「――美智、さん」
大好きな人の、名前の形をしていた。
……私、また大好きって言った?
……まぁ、いっか。大好きだし。
「……だいすき、です」
「、~~っ!!」
三回目は。
もう無理、みたいな顔をした美智さんの方からしてきた。
◆ ◆ ◆
「やってしまった……」
ぼんやりと微睡んでいた意識が、そんな言葉で引き寄せられる。
ゆっくり目を開けてみればそこには、同じベッドの上、シーツにくるまって顔を顰めている咲野さんの姿が。
「……よりによってこんな……酒の勢いでだなんて……」
蒼い顔で何やら呟いている咲野さん、あ、違う、美智さんが心配になって、でも起き抜けの回らない頭じゃ、どうすればいいのか分からない。
ので、とりあえず。
「……おはようございます」
「っ、ぁっ、あの、おはようむんぅ!?」
キスしてみた。
「んー、んふふぅーっ……」
途端に真っ赤になる美智さんを押し倒すみたいにして、その身体に抱き着いてみる。
皺の寄ったシーツを挟んで、それでも温みがじわーって伝わってくるくらい、お互いの身体は暖かい。
「……ぷはぁっ」
「んぁぅっ……!」
最後に、ちょっとした悪戯心で唇をちゅーっと吸い上げながら離してみたら、なんだかすっごく可愛い声を出された。
「……おはよう、ございますっ」
すっかり血色の良くなった美智さんの顔を見降ろしながら、もう一度挨拶。
「おはよ……じゃ、なくてっ、きゅ、急にこんな……!」
咎めるような眼差しも、赤く染まった頬とセットじゃ、あんまり迫力がない。
「……っ……その……昨夜のこと、覚えてる……よね……?」
「?それは、もちろん」
妙なことを聞くものだ。
キスの味から、酒と汗とその他諸々混じった美智さんの匂いから、目に焼き付けたその身体の隅々に至るまで。
好きという度に、堪らないというように震えるその瞳も。
応えるように、何度も何度も好きって言ってくれた、上擦った声だって。
「忘れるわけないじゃないですか」
「……だよねぇ……」
ごく当たり前な私の返答に、がっくりと項垂れる美智さん。
この辺りで流石に、寝ぼけた私の頭でも、何か妙だと勘付く。
反応から見るに美智さんの方もばっちりと覚えているであろう昨夜の情事。
私にとってはこの上なく幸せだったその記憶に、どうやら美智さんは浮かない顔をしているみたい。
「あの……もしかして、気持ち良くなかった、ですか……?」
「!?!?えぇっ、いや、そんなっ……!」
男女問わずこういうことをするのは初めてだったから、知らず知らずのうちに失敗したり、痛い思いをさせてしまっていたのだろうか。
ほとんど本能に突き動かされるようにして食らい食らわれを繰り返していた一夜のうちに、大好きな人に、無理をさせてしまっていたのだろうか。
そう考えると悲しくて苦しくて、息が詰まりそうになる。
「その、美智さん、いっぱい好きって言ってくれたから、私、調子に乗っちゃって……」
「や、大丈夫っ、すっごく良かったよっ!ほんと、ほんとにっ、ねっ?」
まるでぐずる赤ん坊をあやすみたいに言う美智さん。
その深い瞳に抱かれると、すぅって心が落ち着いてくる。
「よかったぁ……」
安心と、まだちょっとだけ残っていた眠気に押されて、美智さんの胸元に顔を埋める。
私よりも大きくて柔らかい二つのそれが、むにゅっと私の両頬を包み込んだ。
今はこう、母性ーって感じで安心するけど、ここもつい数時間前まで私が好き勝手弄くり回してたんだと思うと、うん、もう。
「美智さん、好き……」
「ぅ、わ、わたしも――じゃなくてぇっ」
あぁ、好きって言って貰えなかった。
「美智さん……?」
「あぅ、名前呼びはやっぱりずるいってぇ……!」
何がずるいんだろう。
よく分かんないけど、美智さんがそう言うんだったら、とりあえずフェアにしなきゃ。
「じゃあ美智さんも、私のこと名前で呼んでください」
「え、え、でもっ」
「夜は呼んでくれたのに、駄目なんですか……?」
「……あ、歩美、さん」
「やだ。ちゃんと呼び捨てにしてください。昨日の夜みたいに」
「ぅ、ぅぅ、ぅぅぅぅぅっ……!」
じーっと見つめながら懇願するけど、美智さんは唸り声を上げたまま頷いてくれない。
胸の上に頭乗せてると、唸られるたびに振動がきてぞわぞわするなぁ……とか頭の片隅で思いつつ、そんなことよりも、なんで美智さんがこんなに消極的なのかが不思議でならない。
ベッドの上では、あんなにがっついてきてたのに。
「……っ、あのね、そ――歩美さん」
「はい?」
訝しんでいる間に、何やら覚悟の決まった顔付きになった美智さん。
「昨日の夜のことは、その、全面的に私に責任があるっていうか」
責任?
何の話だろう。
「成人したばっかりの子を家に連れ込んで、酒に酔わせて、身体の関係を持つだなんて……大人として、上司として、してはならないことをしてしまったと思ってる」
「……へ?」
どうしよう、美智さんが何を言ってるのか、さっぱり分からない。
「だから、どんな罰だって甘んじて受け入れるし、歩美さんが望むのであれば何だって――」
「あの、ちょっと待ってください。え?昨夜って、私から誘ったんですよね?」
「へ?」
二人で飲むって話だって、その先に至る流れだって、私から仕掛けていたと思うんだけど。
「いやそれは、わたしが我慢できなかったからこんなことに」
「だから、私のお誘いに応えてくれたって、そういうことですよね?」
「歩美さん結構酔っちゃってたし、その、こう言うとなんだけど、初めてのお酒に呑まれちゃってたんじゃないかなって――」
それ以上は言わせたくない。
そう思って、もう一度美智さんの口を塞いだ。
「――んぅ!?」
言いたいことがあったから、今度はすぐに唇を離す。
「……これも、酔った勢いだと思いますか?」
「あ、歩美さん?っ、ぁ、ちょっと……!」
首元に吸い付いて、舌先で肌を舐る。
「これも?」
そのままあごのラインに沿って舐め上げて。
「ぇう、こぇも……?」
上唇に触れた耳たぶを、そのまま甘噛みしちゃう。
「ほれも、れすか……?」
さらによじ登って、耳の中に直接声を届けるように。
「これも酔った勢いだって、本気でそう思ってます?」
自分の指を噛み、声を抑えている美智さんに、もう一度投げかける。
「美智さん、好きです」
「――、ぁぅっ――!」
「美智さんだって、私のこと好きですよね?」
「っ、っ、!」
「昨日あんなに、いっぱい言ってくれたんですから」
確かにお互い、熱に浮かされてはいたのかもしれない。
お酒のせい。台風のせい。二人っきりの夜のせい。
それらのせいも、あるのかもしれない。
でも。
「覚えてますよ、私」
そもそも、元になる火がなければ、どんな燃料を投下されたって、燃え上がったりなんかしない。
「ほんとはずっと前から好きだったっていう、美智さんの言葉」
美智さんは、ずっと秘めたままだった。
私は、ずっと自覚出来ていなかった。
そんな見えない篝火を、私たちは確かに抱いていたんだって。
酔いも醒めた今なら、はっきりと断言出来る。
「あれをお酒の勢いだなんて言わせません。美智さんだって、そんなこと言いたくないでしょ?」
「……でも、歩美さんはいいの?初めてが、いろんな初めてが、あんな形で……」
酔った勢い。お酒の魔力。
そんな言葉で、私の気持ちは誤魔化せない。
「美智さん。私、昨日で二十歳になりました。もう大人です」
そんな言葉で、私の行動は覆せない。
「大人なんだから、自分がしたことの責任は、自分で取れます」
「歩美、さん……」
「昨日、美智さんの家にお邪魔したのも。美智さんと一緒にお酒を飲んだのも。美智さんを誘ったのも」
今こうして、美智さんに覆いかぶさっているのだって。
「全部、私がしたくてしたことです。私の意思です。だから、美智さんからは責任とかそういうのじゃなくって……もっと、別の言葉が欲しいです」
そうだ。全部、私の意思だ。
たった今それを、目の前の大好きな人に伝える。
だから、一人の大人として、応えて欲しい。
「美智さん、好きです。付き合ってください」
「……うん。わたしも大好きだよ、歩美」
嬉しいって、そう言葉を交わす代わりに。
もう一度唇を落とそうとして、それよりも一瞬早く、カーテンの隙間から朝日が美智さんの顔に射す。
眩しそうに細めた目で、それでもこちらを見つめてくる美智さんの健気さに、私の心はあっさりと、子供みたいに跳ね上がってしまった。
「今日私たち、どっちも休みでしたよね」
「……そうだね」
まあ、だから昨日、一緒に飲みたいって言えたんだけど。
「じゃあ改めて、お酒の勢いだなんて口が裂けても言えないようなこと、しましょうか」
「え、今から?そんな、まだ朝だよ、っ、んむぅ――」
上辺ばっかり常識人ぶってるその唇を、今度こそ塞ぐ。
窓の外はすっかり静かになっていたけど、まだ、二人だけの時間は終わらない。
酒は飲んでも呑まれるな。