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スノーレディ

   スノー・レディ




1・ロンドン橋(夜)


 時計塔が深夜零時を指そうかという頃。


 雪降る街を一台の車が走っていた。

 フォード・モデルT。

 一千五百万台製造されたこの車には、北風を遮るものがほとんどない。

 真冬の深夜、特に雪空の下でドライブするのにはいかにも不向きな車だが、時代が時代だ。

 紫式部はどれだけ寒かろうと、床暖房の恩恵を受けることはできない。


 ヘッドライトの放つ、二本の光の輪が闇を切り裂く。

 運転するヒューイは亡き母の教えてくれた歌を口笛で吹いていた。

 時折、車がスリップして危なげな挙動を見せるが、ヒューイは慌てず冷静にハンドルを回し、暴れ馬を御するかのように元の進路方向へ戻す。


 車がロンドン橋を抜けて、街の中へ入った直後だった。

 ライトの中に一人の女性が浮かび上がった。


ヒューイ「なっ……!?」


 慌ててブレーキを踏むが、もう手遅れだった。

 スピードを落としきる前に、車体の鼻っ面が女性に激突する。

 嫌な音を立てて、女性の体が跳ね飛んだ。


ヒューイ「クソッ、なんてこった!」


 急ブレーキをかけて車を止め、転げるように飛び出したヒューイは女性の元に駆け付ける。

 倒れていたのは着物を着た、日系の女性だった。


ヒューイ「おいっ、大丈夫か!?」


 ヒューイが見たところ、出血はしていないようだった。

 彼は膝をつき、うつぶせになっていた女性の体をそっと仰向けにした。


ヒューイ「っ……!?」


 女性の顔を一目見て、思わずヒューイは息をのんだ。

 今まで彼は多くの女と付き合ってきたが、その者達の顔を一人残らず忘れてしまうぐらいの、絶世の美女だった。


 女性の顔には死の翳りが張り付いており、氷雪のごとき美しさをたたえている。

 ニキビやシミなどもない純白の肌に、彫刻家が魂を込めて彫ったような整った顔立ち。


 時計塔が深夜零時を知らせる鐘を鳴らす。

 それが聞こえなくなるぐらい、ヒューイは女性に夢中になっていた。


ヒューイ「……ん?」


 ふとヒューイは呼吸音がしないことに気付き口元に耳を近づけた。

 しかし何も聞こえてこない、生命の糸が途切れてしまったように。


ヒューイ「チクショウ、マジかよ……」


 彼は女性の胸に手を乗せ、心臓マッサージを始める。


ヒューイ「……絶対に、助けてやるからな」




2・屋敷/ヒューイの部屋(昼)


ヒューイ「……はぁ」


 ヒューイはベッドの上に横たわる女性を見下ろした。

 生気の失せた顔。ぴくりとも動かない眉。唇は呼吸をやめている。


 ベッドの脇にあるサイドテーブルには聴診器などの医療用の道具が置いてある。

 それ等とヒューイの目の下にできたクマが、今までの彼の努力を物語っている。


 ヒューイは医者の卵だ。

 それも代々国を代表する医療関係者を生み出してきた名家の長男である。


ヒューイ「……なのに、自分のケツすら拭けないなんて、笑わせる」


 深くため息を吐いた。


 人を殺してしまった、それもこんなかけがえのない美女を。

 拭いようのない後悔。それにも勝る凄まじい疲労感が、彼を眠りに誘った。


 ……………………。

 …………。

 ……。


 頭の下に、ひんやりとした柔らかいものを感じた。


 雪原に倒れ込んだような冷たさ。

 しかし体温を奪われることに嫌悪感は無く、むしろそれに馴染んでいくような気さえする。


 目を開くと、昨夜の美しい女性がいた。

 彼女の光りを失った瞳がヒューイの顔を覗き込んでいた。


ヒューイ「……え?」


 驚きの声を上げ、すぐさま体を起こす。


???「……おはようございます」


ヒューイ「お、お前……生きているのか?」


???「はい」


 ヒューイは信じられない思いで女性の顔を見つめる。

 そして心臓音を確認するために、胸に手を伸ばし――


???「っ!?」


 破裂音が高く鳴り響いた。


ヒューイ「――っえ……?」


 頬を叩かれたのだ。


 痛む頬を押さえ、ヒューイは恐る恐る女性を見やる。

 女性は顔色一つ変えず、ヒューイを睨んでいた。


 冷や汗をかき、ヒューイは必死に弁明を試みる。


ヒューイ「す、すまん。ちょっと生きているか確認したくて……」


???「私はあなたを叩けるぐらい元気です。それで十分でしょう?」


ヒューイ「あ、ああ」


???「……でも、あなたは私の命を救おうと尽力なさってくださったのですね。それは感謝しております」


 深く頭を下げる女性。


ヒューイ「いや、それは俺のせいなんだ……」


 ヒューイは昨夜の出来事を女性に打ち明けた。

 深夜、ロンドン橋で彼女を車ではねてしまったことを。


???「そうでしたが。でも、あなたが私を救おうとしてくださったことに変わりはありません」


 そう言って微笑む女性の顔には、降り積もった雪を溶かす太陽のような温かさがあった。


 もっと彼女のことを知りたい、その想いがヒューイの口から出た。


ヒューイ「……名前を聞いてもいいか?」


雪花「……私は雪花せつかと申します。日ノ本の国から参りました」


 雪花。

 ヒューイの心に、彼女の名前が深く刻まれる。


雪花「よろしければ、あなたの御名前もお聞かせください」


ヒューイ「俺はヒューイ。苗字は好きじゃないから言いたくない」


雪花「そうですか。素敵なお名前ですね」


ヒューイ「あんたは変わった名前だな。東洋人とは何人か会ったことがあるが、そんな名前は聞いたことないぞ」


雪花「あなたこそ変わった御方です。英国の殿方は紳士という、礼儀正しい存在だとお聞きしましたが」


 胸を触ろうとしたことを皮肉っているのだとヒューイは気付き、苦笑が漏れた。


ヒューイ「俺はステレオタイプに収まるような連中とは違うってことだ」


 雪花は口元を隠し、くすりと笑い声を立てる。

 上品かつ控えめな笑い方は、英国淑女の華美なものとはまるで違う。

 ヒューイは胸に苦しさを覚えたが、不思議と嫌な感じはしなかった。


ヒューイ「ところで、さっきお前は何をやっていたんだ? 俺の頭を膝に乗せていたようだが……」


雪花「お体を悪くするような態勢で寝ていられたので、お布団にお運びしようかと思ったのです。けれどもどうしても体を持ち上げることができなかったので、失礼ですが近くにあった椅子を寄せて、私の膝でお休みいただきました。……もしかして、ご迷惑でしたか?」


ヒューイ「……いや、悪くなかった」


雪花「……え?」


 急に恥ずかしくなったヒューイは、慌てて話題を変えた。


ヒューイ「あー、いや。そういえばお前、東洋人なのに英語が上手いな」


雪花「父上が、英国の書物がお好きで。私にも英語やこの御国のことをたくさん教えてくださったのです」


ヒューイ「じゃあ、イギリスに来たのは観光のためか?」


雪花「はい。ですが今は、この御国に住まわせていただいています」


ヒューイ「そうか。なら、一ついいことを教えてやる。イギリスの真冬の深夜に、そんな薄着で出歩いてたら凍死するぞ」


雪花「お心遣い痛み入ります。でも私は大丈夫なんですよ」


 妙に力強い断定調に、ヒューイは首を傾げる。


ヒューイ「……どういうことだ?」


雪花「こちらのお話です」


ヒューイ「ふーん」

     ぐー……。


 言葉にかぶさるように、ヒューイの腹の虫が盛大に鳴った。

 あまりの恥ずかしさに彼は、火が出る勢いで赤面した。

 ただ雪花はいたって平然としていたので、彼は内心で胸を撫で下ろした。


雪花「お腹がお空きですか?」


ヒューイ「ああ。遅い朝飯、まあ昼飯にするが、お前はどうする?」


雪花「私はそろそろお暇させていただきます」


ヒューイ「まだ動かない方がいい。腹が空いているなら使用人に飯を持ってこさせるぞ」


雪花「いえ、そこまでしていただくわけには……」


ヒューイ「だったら寝てろ。分かったか?」


雪花「……はい、承知つかまつりました」


 ヒューイは雪花がベッドに入るのを見届けて、部屋を出た。




3・屋敷・ヒューイの部屋(昼)


 雪花がヒューイの家に来てから三日ほど経った。

 彼はその間、暇ができれば彼女のもとを訪れていた。


ヒューイ「今日はリンゴを持ってきた。これなら食えるだろ?」


雪花「……いえ。いりません」


 ヒューイは大きくため息を吐いた。

 演技でも何でもなく、それは心の底から漏れたものだった。


ヒューイ「お前、ここに来て三日ぐらい経つが、何も食ってないだろ。少しは腹に入れないと、回復も遅くなるぞ」


雪花「私はとっくに歩けます」


ヒューイ「……まあ、そうだが」


雪花「それに体には、どこも異常はありません。こうして安静にしている必要もないのです。だからもう、自分の家に帰ってもよろしいでしょうか?」


ヒューイ「ダメだ。とりあえず、リンゴ食え」


雪花「食べません」


ヒューイ「せっかく俺が皮を剥いて、飾り切りしてやったんだぞ」


雪花「うさぎさんが可愛いのは認めますし、あなたの器用さには感嘆の一言です。でも、いらないものはいりません」


ヒューイ「まったく、仕方のないヤツだ」


 ヒューイは自分の剥いたリンゴをひょいと口に入れ、咀嚼した。

 それで気を緩めた雪花の頬を両手で包み、


雪花「……んっ!?」


 彼女の唇を奪った。

 続けて唇を舌先でつついて開けさせ、自分の咀嚼したリンゴを雪花の口の中に流し込んだ。


 それだけでは飽き足らず激しいキスを何度も繰り返し、ヒューイは雪花の冷たい体のあらゆる場所を温めるように愛撫した。

 そして、左胸に手を置いた時だった。


ヒューイ「えっ……?」


 驚いて、硬直した。

 そっと唇を離し、雪花は問う。


雪花「……ご理解いただけましたか?」


 雪花の光なき瞳が、ヒューイの目を見やる。

 彼は唖然とした表情で頷いた。


雪花「……そうですか。では、これで失礼いたします」


 ヒューイから体を離し、着物の乱れを直すのもそこそこに雪花は彼のもとを立ち去ろうとする。


ヒューイ「待て」


 だがヒューイは雪花の手をしっかりつかみ、振り返る彼女の目に強い意志の宿った視線をぶつけた。


雪花「な、何ですか。放してください」


 雪花がつかまれた手を解こうとするも、ヒューイの手の力が緩むことはない。


ヒューイ「嫌だ。絶対に放さない」


 ヒューイは雪花の手を引き体を寄せ、両手を背中に回して強く固く抱きしめた。

 雪花も抵抗せずに、ヒューイの胸にそっと手を添える。


雪花「……阿呆ですか、あなたは」


ヒューイ「そうかもしれないな」


 雪花は異常に白い顔をヒューイの胸に押し付けた。

 彼は眼前の彼女の髪に鼻を寄せる。


 ふとヒューイは嗅ぎ慣れない匂いを感じた。

 まるで灰と化した花が醸し出しそうな香りだ。


ヒューイ「お前は不思議な匂いがするな」


雪花「……お香です。私にとっての香水のようなものです。お嫌いですか?」


ヒューイ「いや、心が安らぐ香りだ」


 一拍置いて、雪花は真意を探るように、ゆっくりとした口調でヒューイに問う。


雪花「……私なんかで、いいんですか?」


 ヒューイは答える代わりに、彼女のおでこにそっと口づけした。


雪花「……温もりなんてずっと前に忘れていたのに。今はもう、胸の鼓動さえ思い出せるような気がします」


ヒューイ「俺は付き合った女を幸福にすることにかけては、人並み以上に長けているんだ」


雪花「じゃあ、私の願いを叶えることもできますか?」


 不安そうな声音で問う雪花の頭を、ヒューイは優しい手つきで撫でる。


ヒューイ「ああ」


雪花「とっても難しくて、あなたの一生を奪ってしまう。我がままで、見返りもないお願いですよ」


ヒューイ「もちろんだ。だけど一つだけ条件がある」


雪花「何でしょうか?」


 ヒューイは雪花の体をそっと離し、顎を持ち上げて目を合わせた。


ヒューイ「俺への想いを口にしてほしい。そうすればお前の望みを叶えてやる」


 じっとお互いの目を見つめ合う。

 やがて雪花はヒューイの手を包み、微笑んだ。


雪花「大好きです、ヒューイ様」


ヒューイ「俺も雪花のことが大好きだ」


 雪花は差し込んできた朝日に目を細めた。

 ふと唇に温もりを感じる。

 彼女はそのまま目を閉じ、胸の高鳴りを懐かしんだ。




4・屋敷・ゴードンの部屋(夜)


 古い紙の匂いが漂う部屋。

 壁を占める本棚には分厚い書籍が並び、机上には様々な実験器具が並んでいる。

 室内にはヒューイと雪花、父のゴードンと執事のマシューの四人がいる。


 ゴードンの真正面に立ったヒューイは開口一番、一息で言い切った。


ヒューイ「俺はこの人と結婚します」


 手で示された雪花は深々と頭を下げ、しとやかな声で名乗った。


雪花「……雪花と申します」


 ゴードンは目をすがめ、低い声でヒューイに訊く。


ゴードン「気味が悪いぐらい青白い顔をした女だな。生者には見えんぞ」


ヒューイ「彼女は雪の妖怪、雪女だからです。東洋の島国出身だそうですよ」


ゴードン「確かに世間には人魚やヴァンパイア、狼人間など人外の者と交わって生まれたハーフはおる。しかし、ワシはそのような者は嫁としては認めんと言ったぞ」


 頑なな父の態度に腹を立てたヒューイは、声を荒げて怒鳴る。


ヒューイ「でも俺は彼女を愛しているんです!」


 熱くなるヒューイを、ゴードンは冷ややかに見やる。


ゴードン「……ヒューイ、雪女などこの世界にはおらん」


ヒューイ「何を言うんだ、父さん!」


 ゴードンは今まで黙していた執事のマシューを見やり、強い口調で命令した。


ゴードン「おいマシュー、アレを持ってこい!」


マシュー「かしこまりました」


 命令を受けたマシューは本棚から枕よりも巨大な一冊の分厚い書籍を抜き取り、ゴードンに手渡した。


ヒューイ「……それは、種族百科事典ですか」


 ヒューイの言葉を無視し、辞典を机に置いたゴードンは忙しくページをめくった。


ゴードン「蜘蛛人間、ケンタウロス、天狗……。異形になり果てた人間は確かに何百何千といる。だが雪女など、どこにも載っておらん!」


 ヒューイは眉をひそめ、ゴードンの脇から本を覗き込んで索引のページを開き、Sの項目に目を通した。だがどこにもSnow Ladyの文字は見当たらない。


ゴードン「どうだヒューイ、これでも雪女がいると言い張るか?」


 青白い顔のヒューイは、どもりつつも反論する。


ヒューイ「き、きっと、この辞典に載っていないだけです!」


ゴードン「愚かな。この書籍は今年改定されたばかりの最新版だぞ」


 奥付を開くと無慈悲にもそこにはゴードンの言葉通り、この書籍が今年出版されたという事実が載っていた。


ヒューイ「そ、そんな……」


 絶句するヒューイに、ゴードンは鋭い声で畳みかける。


ゴードン「つまりそこにいるのは雪女などではない! おそらく、腐敗症でゾンビになり果てた者だ」


 主人の言葉を引き取り、執事のマシューが冷静に明らかになった事実を述べる。


マシュー「不治にして不死の病の感染者、ですな」


 ヒューイは見るからに動揺し、雪花の両肩をつかんで激しく揺さぶり問い質す。


ヒューイ「な、何かの間違いだ! そうだよな?」


 しかし彼の必死の問いかけに、雪花は何も答えない。ただ無表情で突っ立っているだけだ。


 ゴードンは勝ち誇ったような高笑いを上げ、ヒューイに指を突きつける。


ゴードン「ほれ見ろ。答えぬのが、何よりの証拠だ!」


 ヒューイは擦り切れるぐらいに奥歯を噛みしめ、かのゼウスのごとき険しい形相でゴードンを睨んだ。


ヒューイ「それでも雪花への想いは変わらない!」


 なお態度を変えない息子に、ゴードンは憤怒を露わに顔を歪めた。


ゴードン「くどいわ! ワシは絶対に認めんぞ! 子孫も残せぬなど、浮浪者以下ではないか!」


ヒューイ「雪花にそのような侮辱を……! いくら父さんでも、聞き捨てならない!」


 ヒューイは雪花の手をつかんで、大股でドアに向かう。

 息子の突然の行動に、ゴードンは慌てて呼び止める。


ゴードン「待て、どこに行くつもりだ!?」


 振り返ることなく、ヒューイは叫んだ。


ヒューイ「父さんのいない場所だ!」


 そのままヒューイは雪花を連れ、ドアを乱暴に開いて出て行った。

 残されたゴードンは、両手で机の板面をぶっ叩き雷鳴のごとき重低音を響かせ、マシューに怒鳴った。


ゴードン「マシュー、ヒューイのヤツを連れ戻せ!」


マシュー「しかし、ヒューイ様の決意は相当に固いように見受けられました。無理に連れ戻しても、よい結果にはならないと存じますが」


ゴードン「いいから言う通りにしろ! それとも主人のワシに逆らうつもりか!?」


 主人の絶対命令に、執事はしずしずと頭を下げた。


マシュー「……かしこまりました」




5・街路(夜)


 すでに街は静まり返り、室内灯もほとんど消えていた。

 点々と灯る街灯が、雪の積もる街路に淡い光を投げかけている。

 ヒューイと雪花は、寝静まった街を無言で歩いていた。両手には旅行に持っていくような大きなバッグがあった。


 ふいにヒューイが立ち止まる。


ヒューイ「……つけられているな」


雪花「え……?」


ヒューイ「次の角を曲がったら、一度立ち止まってくれ」


 角を曲がり、二人は足を止める。

 ヒューイは角から僅かに顔を出して様子を窺った。


ヒューイ「……結構いるな。十人ぐらいか」


雪花「どうしますか?」


 ヒューイは周囲に視線を巡らせる。彼の目は一台の車で止まった。

 シルバーゴースト。

 一万五千マイルをノンストップで走った、製造当初は超高品質な一台だった。

 ご丁寧にタイヤチェーンまで取り付けてある。

 もしもヒューイが東洋文化に明るかったら鬼に金棒という単語を思いついただろう。あるいはカモがネギを背負って来るか。


ヒューイ「アレを使おう」


 後部座席に荷物を放り投げ、ヒューイは運転席に飛び乗った。雪花も助手席に着く。


ヒューイ「見ろよ雪花、鍵が挿さりっぱなしだ。フォード・モデルTがスクラップにされてた時はどうしようかと思ったが、天は俺達を見放さなかった。まさしく神様からのクリスマス・プレゼントだな」


雪花「僥倖ですね」


ヒューイ「んで、これは俺からのプレゼントだ」


 そう言って、ヒューイはポケットから小さな小箱を取り出す。

 開くと中には、紅い宝石の付いた小さなリングが収まっていた。


雪花「えっと、これは……?」


ヒューイ「エンゲージ・リング。日本語だと婚約指輪か?」


雪花「でも、婚約はあなたのお父様には……」


 ヒューイは雪花の肩を抱き寄せ、耳元でささやいた。


ヒューイ「関係ない。俺は雪花のことが好きで、雪花は俺のことが好きだ。何かおかしいか?」


雪花「……いいえ。でも、私は何も用意できていないのに……」


ヒューイ「それなら、キスをくれないか?」


雪花「そ、そんなことでよろしいのですか?」


ヒューイ「ただのキスじゃない。この世界で最も麗しく、愛らしい女性のキスが俺は欲しいんだ」


 雪花はヒューイの頬を包み顔を近づけて、唇をそっと触れさせた。


追っ手「いたぞ! あそこだ!!」


 仰々しい足音やら怒声がヒューイ達の背後から迫る。


ヒューイ「来たか。雪花、舌を噛まないように口を閉じていろ」


 ヒューイはシルバーゴーストのエンジンをかけ、アクセルを思いっきり踏み込んだ。

 あわやエンストしかけたがギリギリで持ち直し、どうにかロケットスタートできた。

 シルバーゴーストは路面の雪を削り猛スピードで闇の中に消え行く。


マシュー「困りましたな。あれでは追いつけません」


 マシューの言葉に、ぬっと出てきた異形の者が歯を見せ笑う。

 上半身は人間、下半身は馬。

 どちらも筋肉隆々の怪物、ケンタウロスは高らかに言い放った。


ケンタウロス「なあに、俺様ならあの程度のスピードは余裕さ。後ろ走りでも追いついてやるぜ!」


 鼻息荒く意気込むケンタウロスに、マシューはあくまで冷静に言う。


マシュー「……普通の態勢でお願いします」


ケンタウロス「分かったよ。じゃあ、行くぜ!」


 ケンタウロスはマシューを背に乗せ、腕をぐるりと回し。

 地を蹴るなり、風のごとく駆けだした。




6・ロンドン橋(夜)


 テムズ川を横目に、シルバーゴーストは爆走する。


 雪面をそんな無理な速度で走っていれば、当然スリップする。

 その度にヒューイは慌ててハンドルを切り、危ういところで難を逃れていた。


雪花「ろ、ローラーコースターより戦慄ものですね」


ヒューイ「当然だ。だって俺達はもうレールの上にはいないんだからな!」


 その時、ケンタウロスに乗ったマシューが追い付いてくる。


 振り返ったヒューイは、青白い顔を笑みの形に変え、「よっ」と気さくに片手を上げた。

 マシューはそれに応じず、


マシュー「ヒューイ様、お車を停めてください。さもなくば……」


 ホルスターから銃を抜き、ヒューイに突き付けた。


ヒューイ「残念だけど、マシューさんは撃てないよ。だって、俺を殺すわけにはいかないだろ?」


マシュー「それはどうでしょうか?」


 マシューは銃口を下方へずらし、躊躇わずに引き金を引いた。

 弾丸はタイヤにヒットし、ぱすんと間抜けな音を立てた。

 たちまちタイヤから空気が抜けていき、車体が傾く。


ヒューイ「っと、おおぉっ!?」


 車は大きくスピンし、ヒューイの操縦とは関係なく暴れ狂い。そして橋から飛び出し、テムズ川へ落下した。

 水音を響かせ盛大な水柱が立ち、川はヒューイ達をシルバーゴーストごと飲み込む。

 残されたマシュー達は静寂の中、しばらく大人しくなった川を眺めていた。


 やがてケンタウロスは、はっと我に返り慌てて喚いた。


ケンタウロス「お、おい! 坊ちゃん達、川へドボンしちまったぞ!? 急いで消防署とかに連絡しねーと!」


マシュー「いえ、その必要はありませんよ」


ケンタウロス「な、何言ってるんだよ!?」


 夜闇に包まれた、真っ黒な川をマシューは見下ろして言った。


マシュー「ご主人様は、種馬にしか興味が無いご様子でした。ですから今のヒューイ様を連れて帰っても、何の役にも立たないでしょう」




7・雪国(昼)


 一面の銀世界。

 広い雪原の真ん中に、ヒューイと雪花がいる。

 雪花はトウモロコシを食むように、ヒューイの首筋を噛んでいた。


ヒューイ「おい、もう俺を噛む必要は無いだろ? それはとっくにイギリスで済ませたはずだ」


雪花「すみません。でも、ヒューイ様の首を噛むのが楽しくて」


ヒューイ「まったく、お前は」


 ヒューイはそっと雪花を抱きしめた。


ヒューイ「愛してる、雪花」


雪花「……私もです、ヒューイ様」


 極寒を運ぶ北風が二人を包む。

 しかしヒューイが寒さを感じることは、もう二度とない。


 ―END―

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