第9話【ジャブとオーソドックススタイル】
それからまた半月経った。
相変わらず、就職難でこれだと云う仕事はなかったが、その分、母さんパートを頑張ってくれ、俺はトレーニングに集中する事が出来た。
お陰で身体が前よりも少し軽くなったようにも感じる。
それに身体もだいぶ、引き締まった気がする。
俺はジムにいる佐藤さんの元を訪ねると佐藤さんは俺の二頭筋やふくらはぎに触り、具合を確かめる。
「頑張りましたね、多田野さん。
だいぶ、苦労なさったと思いますが、これならある程度、ボクシングの練習が出来るでしょう」
佐藤さんは俺の身体の具合を確かめ終えてから、そういうと俺にテーピングの仕方やグローブのはめ方を教えてくれた。
そして、ミットを手にするとジムのリングへと上がる。
「では、実際に打って見ましょう」
「はい!」
俺はグローブをはめてリングに上がると佐藤さんに構える。
それを見て、佐藤さんが不思議そうな顔をした。
「多田野さん、左利きですか?」
「いえ、右利きですが?」
「でしたら、構えが逆ですね。
右足が前ではなく、左足と左手が前に出るように構えて下さい」
俺はそう言われて、言われた通り、左足を前に出し、左で構える。
思っていたよりも、この体勢を維持するのがキツい。
「では、準備が出来たら、いつでもどうぞ」
佐藤さんにそう言われ、俺はゆっくりと深呼吸をしてから、左のジャブを繰り出す。
ポスン。
そんな小さな音がして、佐藤さんの右のミットが微かに揺れる。
佐藤さんも顔をしかめ、次の指示を出す。
「次は右ストレートをどうぞ」
そう言われて、俺は右のストレートを佐藤さんのミットに叩き込む。
今度は佐藤さんのミットを倒す事が出来た。
「・・・ふむ。右は良いですが、左が思っていたよりも弱いですね?少しフォームを見直しましょうか?」
佐藤さんはそう言うと俺の横に立ち、ミットを手にしたまま、構える。
「今の僕のフォームがオーソドックススタイルと言います。
そして、ジャブは手を軽く卵を持つように軽く開いた方がよりスムーズに打てるでしょう。
ジャブの打ち方は人それぞれですが、基本的に構えを崩さぬように打つのがコツですね」
佐藤さんはそう言うと改めて、俺の前に立ち、ミットを構え直す。
俺はそのミットにひたすらジャブを打ち込んだ。
しかし、どれもしっくりと来ない。
やがて、ゴングが鳴り響き、俺は一息吐く。
ジャブを意識したミット打ちだったので然程、疲れはしなかったが、フォームの事やジャブの事で色々と悩んでしまう。
「まあ、最初はこんなものですよ。
僕も最初はなかなか、覚えられませんでしたからね」
佐藤さんはそう告げるとミットを外し、俺と共にリングを降りる。
今回の課題は左の強化とフォームを覚える事なる。
まずは左を使うように徹底してサンドバックで練習する。
オーソドックススタイルのフォームが崩れてないかを意識しないでも出来るようになるまでこれも練習した。
これは思いの外、かなりしんどい作業であった。
だが、分かった事もある。
フォームを崩さずにジャブを打つには腕だけを動かすイメージが必要なのだと。
威力も必要だが、ジャブはあくまでも牽制用であり、威力もそうだが、連打出来るスタミナも必要になって来る。
これが分かっただけでも、一歩前進したろう。
それにしても、ジャブ一つがこんなに大事だとは思わなかった。
ボクシングと云えば、フックやストレートが重要視されると思っていたんだが、その中でもジャブは初心者の登竜門なのかも知れない。
こうして、新たな課題の元、俺は練習に打ち込むのであった。
その後、トレーニングを終えて家に帰ると母さんが心配そうに俺を待っていた。
「ただいま、母さん」
「正樹。怪我はないかい?」
最近、母さんは俺がボクシングを本格的に始め、気が気でないらしい。
ここまで心配されているとどうも、やりにくい。
「ただ、トレーニングしているだけだよ。
母さんが思っているような殴り合いはしてないよ」
「そうかい。なら、いいんだけど・・・」
「それにこれは俺の決めた事だし、前に進む為にも今、やりたい事なんだ」
「・・・正樹」
「だから、見守っててくれよ?」
そこまで言うと母さんは何も言わず、黙って頷く。
母さんには未だに心配を掛けるだろうが、先程も言ったがこれが俺の今のやりたい事なのだ。
そして、俺が変わる為に必要な事である。
母さんにそれを理解してもらうには難しいが、時間を掛ければ、いつかは理解してくれるだろう。
その後、俺は入浴して寝巻きに着替えると今日やった事を反芻するようにオーソドックススタイルで構えて、ジャブの練習をひとしきりしてから眠りに落ちる。




