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第35話【信頼を裏切ると言う行為】

 それから数週間して甲斐選手がうちのジムにやって来た。

 最初に気付いたのは坂田さんだった。


「確か、獅童君だったね?なにか用かい?」

「折り入って、お願いをしに来ました」

「お願い?」

「ええ。僕をこのジムに入れて欲しいのです」


 その言葉に坂田さんは眉を潜めた。


「君は自分が何を言っているのか、分かっているのかい?」

「ええ。今回の一件で思い知らされました。

 僕には坂田さんのようなトレーナーや鈴木さんのようなライバルが必要だと確信したんです。ですからーー」

「断る」


 確信に似た表情でいた甲斐選手は坂田さんにばっさりと断られ、自分が何を言われたのか解らないと言う表情をする。

 そんな甲斐選手に坂田さんは厳しい表情を崩さず、彼を見据えて問う。


「ジムと選手には3年間は所属をしなければならないと云う契約があるのは知っているかい?

 仮に知っているとして君は今、何年目なんだい?」

「2年目ですが・・・」

「なら、あと1年は所属しなければならない義務がある。

 だが、例え、君が3年の契約を全うしたとしても断るだろう」

「な、何故ですか!?僕の何が悪いんですか!?」

「自分が何を背負っているのか解っていないところさ」


 困惑して叫ぶ甲斐選手に坂田さんは断言する。


「君は今、所属しているジムの期待と信頼を裏切ろうとしている。それも自分の都合でだ。

 確かに君には才能があるだろう。俺が指導すれば、確かに変わるかも知れない」

「だったら、何故!?」

「まだ解らないのかい、獅童君?

 目先の事柄に囚われて、それらの信頼など全てを捨てる人間に次のチャンスが与えられる程、ボクシングは甘いとでも思ってはいるんじゃないだろうね?」


 坂田さんの厳しい口調に甲斐選手は言葉を失う。


 坂田さんの言う事は理解出来る。

 俺も鈴木さんも周囲に支えられ、それに応えようと頑張っている。

 それを裏切ると云う行為の意味を甲斐選手は軽んじていると坂田さんは遠回しに指摘しているのだ。

 そして、恐らく、うちのジムに甲斐選手が移籍したとしても坂田さん以上に優れたトレーナーが別のジムにいれば、すぐに鞍替えしてしまうだろう。

 甲斐選手本人にその気がなくとも、その可能性があると周囲が判断するのは事実だ。

 それはジムの為にも甲斐選手本人の為にもならないと坂田さんは警告しているのだろう。


 だが、まだ若く自尊心の強い甲斐選手には届いてないらしく、彼は坂田さんに「どう言う意味ですか!?」と詰め寄るのみであった。

 そんな甲斐選手に坂田さんは背を向ける。


「意味が解らないと言うのなら、君はそれまでだ。自分のジムに帰って、じっくりと考えるといい。

 助言するとするのなら、見限ると言う行為は逆に言えば、見限られると言う事だ」


 坂田さんはそれだけ告げるとジムの入り口の扉を閉めた。

 そんな坂田さんの行為に甲斐選手は何故を繰り返したが、しばらくして諦めたように帰っていく。


「やり過ぎじゃないですか、坂田さん?」


 俺がそう尋ねると坂田さんは首を左右に振る。


「獅童君の現在、所属しているジムで悪い噂を聞いた事がない。寧ろ、彼に太鼓判を押している程だ。

 獅童君が新人王にまで輝いたのは彼の為に支えてくれた周囲の環境もあると言って良い。

 そんなジムの期待を易々と裏切っていい程、プロの世界は甘くはない。

 もしも、彼が事前にジムに宣言していると言うのならば、今後、彼の試合は少なくなるだろう。

 プロの世界で期待を裏切るとはそう言う事だ」


 いつになく、厳しい口調でそう告げると坂田さんは鈴木さんに会長室に来るように促す。

 俺も呼ばれたので向かうと録画された甲斐選手と天原選手の試合映像がテレビに流された。


「次の相手は彼にしようと思う。いや、獅童甲斐と言う選手が負けた以上、同格の宗成君を下に見るだろう。

 その違いを日本に教えてやろう」


 突然の坂田さんの言葉に会長が何か言い掛けるが、坂田さんの目に宿る意思を見て、沈黙する。

 それだけ、坂田さんは若き新人王の行為が許せなかったのだろう。


 だからこそ、鈴木さんと甲斐選手が背負っているものの違いを証明する必要があるのだ。

 そんな坂田さんの強い意思を感じたのか、鈴木さんも頷く。


「解りました」

「恐らく、獅童甲斐と云う選手と戦う事は二度とない。

 今は天原菊池と云う選手に専念するんだ。

 見ての通り、彼は懐へ入るショートレンジのダッシュ力が強い。

 特に獅童君を倒したショートアッパーには要注意だ。

 なにより、天原選手の強みは臨機応変な対応にある。恐らく、何度も何度も繰り返し、他の選手の試合映像を見て、相手の弱点を研究しているのだろう。

 本来なら避けたい相手だが、事情が変わった」

「・・・その訳を聞いても構いませんか?」


 熱く説明をする坂田さんに鈴木さんはいつもと違うものを感じたらしく、珍しく坂田さんに質問すると坂田さんは先程のやり取りを鈴木さんに伝える。

 甲斐選手がこのジムに移籍したいとお願いしたのにも驚いた様子だったが、坂田さんがそんな甲斐選手に言葉ではなく、態度で怒りを示しているのが珍しかったのだろう。

 鈴木さんは黙って、坂田さんの言葉に耳を傾けた。


「君達もゆめゆめ、忘れないように頼むよ。

 俺達はプロとして多くの期待を背負っている。簡単にそれを手放して良い程、世界は優しくないし、それは自分の為にもならない。

 強くなろうとするのは構わないが、周囲の期待を裏切ってまで本当に必要な事か重々考えた上で自身の道を進んでくれ。

 プロを目指す者もだ。誰に支えられ、誰に信頼を置かれているのかを考えて、改めてボクシングを続けて欲しい」


 坂田さんはそれだけ言うと再び、対天原選手攻略の為に鈴木さんと分析を開始するのだった。


 そして、それ以降、坂田さんの言う通り、周囲から甲斐選手の名を聞く事がなくなった。

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