第2話【ボクシングジム】
ーーそして、迎えた約束の日の朝。
俺はスマートフォンのアラームで約束の時間の30分前に目を覚まし、ベッドから起きて洗面所に向かい、顔を洗ってから寝癖を直す。
それから軽めの朝食を取ってから自室に戻り、私服に着替えようとした。
そこで俺はふと、どんな服装で行くべきかで手を止めて悩み出す。
ビジネススーツで行くには流石に場違いだろうし、だからと言って私服で行くのも何か違う気がする。
結局、約束の時間の10分前位まで悩んだ末に俺はスーツ姿で行く事にした。
これもちょっとした面接みたいなものだろうし、多少は場違いだろうとしてもスーツ姿の方が誠意が伝わる筈だと判断したからである。
俺はスーツに袖を通して自室を出ると玄関へと向かい、革靴を履く。
「正樹」
そんな俺に居間から出てきた母さんが懐かしげに俺を見る。
「本当に久しぶりだね。正樹のスーツ姿も・・・」
そう言われれば、確かにそうだ。
最後に着たのは前の会社の面接の時だから、もう大分前の事になる。
なんだか、ひどく昔の事のようで懐かしく感じる。
「ただ、やっぱり、母さんはボクシングなんて危ない事は心配だよ」
「それについては昨日、散々話し合っただろう?
とりあえず、鈴木さんの行っているってジムの人に会いに行くだけだから、行ってすぐ、ボクシングを習いに行く訳じゃないからって母さんも納得してくれたじゃないか?」
「それはそうだけど・・・」
母さんが言い淀んでいると俺は腕時計を見る。
そろそろ、約束の時間に走らないと本格的に間に合わなくなりそうだ。
「ゴメン、母さん。もう行くよ。
あとは帰ったら、また詳しく話すから」
俺はそう言って玄関の扉を開けると急いで鈴木さんの待つコンビニへと向かう。
なんとか、走って約束の時間にコンビニに到着するとランニングTシャツに紺色の長ズボン姿の鈴木さんが待っていた。
「お待たせしました、鈴木さん」
「時間通りですね、多田野さん。
しかし、その格好は?」
「はい。色々悩んだんですが、初対面になる訳ですし、失礼のない様にと思いまして・・・変ですか?」
「変ではありませんが、そんなに堅苦しく考える必要はなかったんですよ?」
鈴木さんはそう言うと溜め息を吐いて苦笑する。
やっぱり、最初に考えた様にスーツ姿は場違いだったろうか?
「まあ、スーツで来てしまったのなら仕方ありません。
此方も服装については指定しませんでしたからね?」
「なんか、すみません」
「お気になさらず。それでは行きましょう」
そう言うと鈴木さんは俺の前を軽く走り出す。
俺もその後に続いて駆け出す。
鈴木さんは呼吸一つ乱さず、一定のリズムで走るのに対して、俺は徐々に息切れし始める。
こんなに走るのは学生時代のマラソンの時くらいだ。
そうしている内に鈴木さんと俺の差が少しずつ開き、3キロは走ったんじゃないかろうところで俺の足は完全に止まる。
そんな俺に気付いて鈴木さんが立ち止まり、此方に戻って来る。
「すみません。つい、いつもの癖で走ってしまいました」
「・・・はあ・・・はあ」
「大丈夫ーーでは、ありませんね。少々、お待ち下さい」
そう告げると鈴木さんは今時では珍しい古いタイプのガラパゴス携帯で何処かに電話する。
恐らく、ジムに電話しているのだろう。
「もしもし、会長ですか?
鈴木です。申し訳ありませんが、予定していた時間よりも遅れるかも知れません。
はい。はい。ええ。解ってます。
はい。では、後程」
鈴木さんは携帯をポケットにしまうと呼吸を整える俺を見詰めた。
「此処からは歩いて行きましょう」
「ご迷惑をお掛けして、すみません」
「此方こそ、申し訳ありません。
私も多田野さんの体力をもう少し考えるべきでしたから」
鈴木さんはそう言うと俺の体力が戻るのを待ってから歩き出す。
俺もその後について歩いて行くが、思っていたよりも遠い。
ようやく、辿り着いたのは、それから30分以上歩き続けた末の事であった。
その頃には俺の足が悲鳴を上げていた。
「到着しました。此処が私の通うジムです」
「・・・や、やっと着いた」
「これ位で弱音を吐いているようでは、これからが不安ですね?
やっぱり、やめて置きますか?」
鈴木さんにそう問われ、俺は首を左右に振った。
折角、一昨日、変わるんだと決めたばかりだ。
此処でやめてしまったら、元も子もない。
「いえ、お願いします」
「では、中に入りましょう」
鈴木さんはそう言うとジムの扉を開けた。
「失礼します」
「お邪魔しまーー」
鈴木さんに続いて那珂へ入った瞬間、ズバンと鈍い音が響き、俺は息を飲む。
どうやら、サンドバッグを叩く音らしい。
「もっと押さえて!」
サンドバッグを殴るがたいの良い男性がそう叫ぶと一見ひ弱そうな青年が「はい!」と答える。
「やってますね、坂田さん」
「坂田、さん?」
そう言われ、俺はその人を改めて見る。
この人、雑誌で見た事あるぞ。
確か、ミドル級でランキングトップ10入りをした坂田 糀さんじゃなかったかな?
その速度はミドル級なのに素早く、一撃が重いと見た事がある。
特にカウンターからの連打に異常に強いんだとか・・・。
「相変わらず、練習熱心ですね、坂田さん?」
「宗成君か。君にしては遅かったじゃないか?」
坂田さんはそう言うと此方に振り返りながら汗を拭う。
その身体つきは良く、顔に似合わぬ鋭い目をしていた。
「彼が噂の見学者かい?」
「ええ。そうです」
「・・・そうか」
坂田さんはそう言うと俺に手を差し出す。
「坂田だ。どんな形であれ、このジムに来た事を歓迎するよ。えっと・・・」
「多田野です。宜しくお願いします」
俺はその手を取り、坂田さんと握手を交わす。
「折角だ。君もサンドバッグを叩いて見るかい?」
「え?良いんですか?」
「坂田さん。会長の許可もなしに初心者にサンドバッグを叩かせるのはどうかと思いますが・・・」
「ああ。それもそうだな」
ガクッ。
結局、叩かせて貰えないのか・・・。
「期待させて、すまないね?
まあ、そこら辺は会長と会って話すと良いよ。
あの人は会長兼トレーナーだからね?」
そう告げると坂田さんは再びサンドバッグを叩く。
その拍子に休んでいた気弱な青年がひっくり返る。
「いつまで休憩気分でいるんだい?練習を再開するよ?」
「は、はい!」
坂田さんに檄を飛ばされ、彼は慌てて起き上がって再度、サンドバッグにしがみついて坂田さんの打撃を受け止める。
坂田さんの打撃は芯まで響くと言う。
それをサンドバッグ越しとは言え、真っ向から受け止めるのだから、彼もなかなか我慢強いのかも知れない。
「坂田さんの練習の邪魔になりますから行きましょう、多田野さん」
「え?あ、はい」
俺は鈴木さんに声を掛けられ、坂田さんと青年のトレーニングを一瞥して奥へと入る。
「あの、坂田さんとトレーニングしていた方は?」
「新米トレーナーの佐藤さんですよ。
あれでも昔はかなりの強打を叩く人だったんですが、パンチドランカーになってからは見ての通り、自信を無くしてしまって弱腰な人になってしまったんですがね?」
「え?」
それはつまり、俺と真逆の人じゃないか?
俺はそれを聞いて気持ちが揺らいでしまいそうになり、足を止める。
そんな俺に気付いて、鈴木さんも立ち止まって此方に笑う。
「私も多田野さんが同じ道に入るとは思いませんよ。
ただ、そういう人もいるんだと言う事も忘れないで下さい」
鈴木さんは俺の肩をポンと叩くと此方に背を向けて歩き出す。
そうだ。俺はまだスタートにも立ってないんだ。
まずは踏み出す事から始めなくては・・・。
俺はそう思い直して、鈴木さんの後について行く。
そして、とうとう会長室の前へと辿り着いてしまう。もう後戻りは出来ない。
・・・駄目だな。緊張し過ぎてしまっている。
もう少しリラックスして構えなければ・・・。
俺が深呼吸して心を落ち着かせると鈴木さんはそれを待ってから会長室の扉を開けた。
私の作品を読んだ方なら解ると思いますが、過去作であるH.E.A.V.E.N.と少しリンクしてたりします。
ご愛読されてる方が何人いるか解らないけど、彼は何度か出てきますが、なるべく過去作を読まなくても解る様に描写しますのでご容赦をば。
m(_ _)m