国内 南アタリナ島
南アタリナ島と調査。
油田なのか。
調査隊は、南アタリア島東側の大きな湾の奥深くに泊地を求めた。
水深も問題なく、波風も穏やかであった。
二航戦達は、交代で横須賀へ帰っていった。補給後、千島方面へ向かうらしい。ご苦労なことだ。
上陸地点は、石油とみられる露出から一五〇kmほどの所で付近の中でも開けたところが選ばれた。最短距離の海岸は、流出した石油による物かヘドロと悪臭が凄く、おまけにかなりの遠浅で港湾には向いていなかった。
調査隊は、様々な病気の潜伏期間を考えて半年は帰れない。従って海軍部隊との接触は禁止された。
学者・研究者の意気は高かったが、他の面々は様々な好条件を押しつけられて無理矢理参加させられた人間達だ。意気は上がらなかった。
陸軍工兵隊が基地を設営する場所を決め設営を始めた。海岸から八kmほど内陸だった。4k四方のほぼ平坦な場所が有ったのだ。二航戦達が残していった航空写真のおかげで大雑把な地形は分かっていた。
上陸地点から爆薬や九五式軽戦車改造の大型回転のこぎりを付けた車体などを使い道を作りブルドーザーやションベルカーなど土木機械で切り開いていく。乱暴だが、丁寧に木を切り倒すよりよほど早い。
それでも八km進むのに三日かかった。
学者・研究者は未知の島と聞いて、どんな動植物相かと思って期待に胸をふくらませていた。
おかしかった。未知の植物など無かった。台湾や沖縄周辺で確認出来る動植物ばかりだった。
ならば、クマがいる可能性がある。タイワンツキノワグマの可能性が高かった。調査隊全体にクマ注意の警告をした。
防疫部隊も拍子抜けだった。未知の病原体や細菌、媒介生物、寄生虫などを警戒していた。しかし、台湾・沖縄周辺で見られる物ばかりだった。コブラやハブなどの毒蛇とマラリアなどの伝染病には気をつけないと行けないだろう。
学者・研究者は未知の島と聞いて来たら、何のことは無い、台湾・沖縄周辺と何ら変わることの無い動植物相にがっかり来ていた。すでに帰りたいという者も出てきた。
とどめを刺したのは、バナナとパイナップルだった。どちらも台湾・沖縄周辺では、天然では存在しない。
防疫部隊の観察結果も同様で、台湾相当の扱いで問題無いという結論が出るには時間がかからなかった。
あの手紙に書いてあったように神の贈り物なのだろう。この島は。
結局一部の動植物学者・研究者を残し、動植物系の学者・研究者は本土に帰ることになった。
防疫部隊も一部を残し、本土に帰る。
なにしろ、学者・研究者はこの島に来れば、西の陸地に無条件で行かせてもらう約束でこの島に来ていた。
彼等は、早く西の陸地に行きたかった。
上陸して一ヶ月。早くも本土に帰る船と護衛兼水先案内の十一駆で船団を組んで帰って行った。
未知の危険がほぼなさそうだ、と言うことで民間の人間はかなり緩んできていた。生死を覚悟して来てみれば、何のことは無い台湾・沖縄周辺の自然だった。バナナとパイナップルはおいしかった。押しつけられた好条件も相まって、自然に頬が緩んできた。
緩まなかったのは当然陸軍だった。クマと毒蛇には注意しなければならなかった。
一番苦労しているのは工兵隊だった。参謀本部の見積もりでは一日五~十km進むことが出来るとなっていた。
冗談では無かった。地形や植生に阻まれ直線距離で一kmしか進めない日も有った。予定ではとっくに石油とみられる露出にたどり着いているはずだった。
参謀本部に呪詛を吐きながら、今日も工兵隊は進んでいった。
民間人は暇だった。上陸後遅くとも一ヶ月で石油とみられる露出までたどり着けるはずだった。
しかし今だ半ばであった。
暇だと人間なにをやるか分からないというのは、この集団にも適用された。
彼等は倒された木を使って基地の隅で櫓を組み始めた。高さ十五メートルくらいの中々立派な櫓が出来た。
もちろん基地を管理する陸軍には許可を取った。見張り台を作ろうじゃ無いかと言って。
みんなで交代して登り周辺を見渡した。彼等は浮かれていたのか考えなかったのか。周りの木と同じ高さである。見通しがいいわけなかった。
さらに五メートル追加した。これで見える。ただ天辺には一人しか登れなかったが。
人気が出た。みんな暇だったのだ。工兵隊の苦労は忘れた。
そんな中、夕暮れ時に登った奴がいた。そして山肌に光る物を見つけた。泊地からでは見えない角度だった。
みんなで考えた。分からない。行くしか無いだろう。目検で十kmほどだ。行けないわけでは無い。
しかし基地司令は許可を出さなかった。地図が無い。当たり前だった。
交渉の結果、持ってきたロープを伸ばしながらなら行くことが許された。持ってきたロープは総延長で三十kmはある。
クマ対策の護衛に一個分隊を付けてくれた。
彼等は二kmほど進んだところで後悔を始めた。工兵隊を偉大だと思った。鉱山関係者や地質学者以外は山歩きなどしたことが無かった。
初日は、朝一に出て四kmほど進んだところでお昼前になり帰投した。
二日目は、山歩きになれている人間が先頭で進み、不慣れな人間は四km地点まで荷物持ちで進み、そこで帰ることになった。先頭集団はすぐそこに見えるところまで進めた。
三日目は四km地点からさらに二km集積所を前進させた。山歩きになれている面々は野営装備を持ち込み、六km地点で野営するという。陸軍も山歩きになれている兵を選抜して付けてくれた。
四日目、いよいよである。お昼前、ついに光る場所にたどり着いた。
鉱山関係者は驚いた。鉱石だった。鉱山が露頭していた。地質学者も同様だった。
灰クロム柘榴石だった。サンプルとして何kgか持ち帰ることにした。
五日目、みんな帰ってきた。興奮しているので何事かと尋ねると、鉱山が露頭していた。これがサンプルだと言って、鉱石を手渡された。意外にきれいだった。
六日目、海軍に頼んで連絡機を出してもらう。貴重な金属が見つかったと言って説得した。
七日目、本土にサンプルが届き直ちに分析された。
八日目、クロム鉱石であると確定された。
転移前、国内のクロム鉱山は産出量が需要を満たしておらず、いよいよとなったら兵隊の鉄鉢を溶かして抽出しようなどと言う、冗談だか本気なのか分からない発言まで出たくらいだった。
政府は直ちに調査団の増員と開拓団の編成に取りかかった。以降南アタリア島は開拓ラッシュとなった。
工兵隊は石油とみられる露出まで後十kmまで迫っていた。
海軍部隊は周辺に脅威をもたらす意相手はいないとして、新たに配備された瑞鳳級空母中心の小規模な部隊と交代になった。
南アタリナ島の空撮は南鳥島に進出した陸攻が中心になった。大型正規空母は必要なくなった。
一式陸攻は機内タンクだけでは航続距離が足りないため、爆弾倉に臨時タンクを増設して飛んでいた。
そんな中、ついに工兵隊は目的地に到着した。
その独特の匂いは間違いなく石油の物だった。サンプルを数十リットル採取し大至急本土に送ることにする。
疲れ切っていて万歳三唱をする元気も無く、黙々とサンプルと共に帰路についた。
基地を出発して二ヶ月半、帰り着いた彼等が見た物は連隊規模の駐屯地だった。鉱山が発見されて規模を拡大すると聞いていた物の、ここまでとは思わなかった。聞けばさらに増やして飛行場まで作り近場に民間人用の街まで作るという。
浦島太郎になった気分だった。
サンプルは海軍の手で南鳥島に渡り、そこから飛行機で本土に送られるという。一人便乗が可能というので、大隊副官を便乗させた。
サンプル分析の結果、中質油であり硫黄分も少なめで使いやすい油種だという事が判明した。
現状日本が使える油田はオハと新潟・秋田のみで、油質云々よりも産出量が足りなかった。
神倉庫には食料・金銀銅の他各種石油製品や資源類が、五年分入っていた。できるだけ使いたくなかった。
この油田らしき物に賭ける日本政府の意気込みは凄く、先行している調査隊に代えて、試掘隊をすぐさま送り込んだ。追って本格的な油田にするべく掘削隊やパイプライン設営隊も送るのであった。
神の贈り物の島だ。必ずデカい油田がある。そう信じている。
初期に入った陸軍部隊は、これで交代。本土帰還後、歩兵中隊には十日間の特別休暇、工兵大隊には二週間の特別休暇が与えられることになった。
彼等は喜んで受け入れた。南アタリナ島にいる間は休日が無かったことを忘れて。
国家非常事態宣言中とはいえ戦時ではないので、平常勤務の延長だった。休日は休日で別に出されるべきだったのだ。
後日、そのことを抗議すると部隊として予定が入っているので休暇はだせない。代わりに臨時ボーナスを出すと言われた。
日本時間で十二月になっていた。まだ雪は降らなかった。問い合わせが相次いでるが、どうしようも無かった。
冬至を過ぎてもまだ日時計の針は小さくなっていった。夏至とみられたのは八月二十五日前後だった。
気温は下がり、ようやく北海道や富士山山頂に雪が積もったのが、年が明け日本時間で一月になってからだった。
まだ日時計の針は短くなっている。まだ冬至は先だ。
日本時間四月、本格的な冬がやってきた。大阪でも最高気温が十度から十五度前後の日が続いた。
四月半ば冬至とみられた。日時計の針が短くならなかった。
五月、日時計の針が長くなってきた。やはり四月中旬が冬至だったようだ。
地球では夏至から冬至までは六ヶ月。こちらでは八ヶ月のようだ。
一年のサイクルは十六ヶ月と言うことになる。
暦も代えなければいけなかった。
南アタリナ島と調査はここまでです。
次回は西の陸地に向かいます。ここで章が代わります。
九月十日 05:00予定