ディッツ帝国 反攻
大陸反攻作戦開始です
ディッツ帝国では戦時体制への移行が進み、軍事物資の生産が軌道に乗ると共に徴兵された者や開戦後志願した者達が続々と戦力化されていた。
沿岸を荒らし回っていたガミチス潜水艦は対潜哨戒機を増やすことによって、被害は減少の一途を辿る。近いうちに近海からガミチス潜水艦を一掃出来る見込みだ。国内沿岸海運の安定化と共に工業生産も回復してきている。
ただディッツ帝国としては軍事全振りはしないことになっている。これは戦費確保のための輸出が大切であったためだ。日本と新たに貿易先となったイギリス+αで有った。特にディッツ帝国の誇る綿は大事な輸出品目だった。綿に関しては農家からの徴兵をせずに反って増員しての増産を要請をしている。これは優先事項であり対ガミチス戦でも重要な項目であり、徴兵関係部署や農業関係部署には徹底されている。
陸軍では教育部隊も含めてだが五十個師団が歩兵百二十個師団になり、砲兵九個師団、戦車七個師団、工兵八個師団、補給八個師団他通信・衛生などの支援関係が合計で四個師団まで強化されてきた。
空軍も教育部隊を含めてだが飛行十個師団まで拡張されていた。
猛訓練で練度も向上し、かろうじて踏ん張っていた旧国境戦線ではときおり優位になる事もあった。
反攻気運は高まっていた。
皇帝を始めとした首脳陣は反攻作戦を発動する。
それに伴い、新たな局面を迎えた。
フェザー平原奪還である。
今現在クルツブルクと硝石鉱山防衛に注力しているが、戦力を一気に強化。敵をフェザーンまで押し返そうという、ディッツ帝国からすれば第一段反攻作戦だった。
現在、南部旧国境線で対峙している敵戦力は歩兵三十万人、航空機八百機、戦車七百両、砲兵二個師団相当他と見られており、更に後方フェザーンに歩兵二十万人、航空機二百機、戦車二百両、砲兵師団未満規模他が航空偵察によって確認されている。
この戦力に加え、フェザーン油田・ベルフィスヘルム方面の戦力がある。
ディッツ帝国情報筋ではこの大陸に歩兵だけで百万人近く展開していると見ている。
投入される戦力は、敵を圧倒しなければいけなかった。
ディッツ帝国の歩兵師団は歩兵分隊十人を最小戦闘単位として✕4で四倍四倍と増えていく。
一個歩兵師団八千九百六十人である。それに付随する砲兵、補給などを含めた人数で一万一千人程度である。現在戦時編制で更に人員は増えて一万三千人近くなっている。
戦車師団も歩兵師団同様にしようという声も有ったが当然無理で、四両一小隊、十二両一中隊となっている。これも運用上の問題からであった。四十両で大隊、百二十両で連隊、二百五十両で師団だった。大隊以上には予備部隊となる戦車が有る。戦車部隊には必ず専門の整備部隊が付き添っており、補助部隊まで含めての人員は一個師団三千五百人前後だった。
砲兵師団は歩兵に次ぐ伝統と多種多様な砲のため、人員数は一定していない困った部隊だ。榴弾砲師団とカノン砲師団を統合運用しようという声もあるが、伝統の一言で反対され上手くいかない。更に対空砲を飛行場部隊や根拠地付属では無く、砲兵支配下に治めようという勢力もあり、近代化への抵抗勢力となっている。
飛行師団も歩兵師団同様に編成しようと初期は考えられたが、戦車師団と同じで最初から無理が有った。運用上の問題から徐々に師団規模は小さくなり、現在は一個小隊四機編隊を基本に十六機で中隊、六十機で大隊、二百機で連隊、四百機で師団となっている。作戦機のみの数であり、連絡機や輸送機、偵察機は別である。人員は戦闘機師団でパイロット三百五十名強、整備他一千二百名であった。パイロット以外は勤務地で違っていた。
複座機や多座機になれば更にパイロットと搭乗員は増え、機体の大型化と共に整備兵も増えていく。
これは実戦部隊で、教育飛行隊は別に編制されている。
補給師団は属国や植民地での部隊活動を補助するためにかなり強力であった。
工兵師団は最近日本から入ってきたバックホーを多数配備されている。仕事が楽になったが増えたと文句を言っていいのか分からない。
そんな戦力の中から、歩兵六十個師団 、戦車四個師団、榴弾砲師団二個、カノン砲師団二個、航空五個師団、補給四個師団、工兵二個師団、他四個師団相当を投入する、今の出せる戦力をほとんど投入した作戦だった。
作戦発動は日本時間正和二十七年五月、日本なら一番寒い時期を迎えようとする頃だが南半球である現地ディッツ帝国ではこれから一番暑い時期だった。作戦期間は三ヶ月。終わる頃には涼しくなっているはずだ。
日本もこの作戦に参加。歩兵二個師団。戦車二百両、航空機三百機が正面戦力として投入された。
ただ日本の航空機は実戦試験を兼ねている機体も多く、最前線で侵攻戦闘機として使える機体は少なく、迎撃機や長距離高高度爆撃機、高高度偵察機の比率が多かった。
侵攻戦闘機としては中島十一式戦闘機疾風が有った。中島レシプロ戦闘機の集大成と言っても言い機体で、格闘戦から一撃離脱まで何でもこなす戦闘機だった。中島としては転移後開発が滞ってしまいもっと早く出したかったのだが軍が待てを出し、より熟成させた状態で採用した。
この熟成期間は誉発動機の熟成期間でもあった。この間に誉は離昇出力二千二百馬力を安定して発揮出来るようになっていた。
この戦場に来ているのは一型改二で、胴体内燃料タンクの増量を行い航続距離を増槽無しで二千二百キロまで伸ばした試作機だ。
機体重心から遠い位置にタンクがあるために、燃料残が多いときは運動制限がある。
迎撃機として川西二十三試局戦として開発された十一式局地戦闘機紫電がいる。
二十三試局戦、十一式局戦紫電は川西が転移後細々と研究していた強風改造陸上機を中翼単葉から低翼単葉にして、誉に合わせた機体だった。性能的には疾風とほぼ変わらない。疾風同様加速力を重視した小径プロペラを採用しており、最高速度には劣るが最高速度が必要ない場面では高い運動性に寄与していた。川西の秘密兵器、自動空戦フラップが装備されており旋回性能はかなり高い。ただ好き好きがあり、作動を切っている搭乗員も多い。
武装もほぼ同じであり二十ミリ機銃四丁だった。迎撃用局地戦闘機とは言え海軍機であり航続距離は疾風と変わらない。
合同演習でも戦績は変わらず、中島は密かにショックを受けたようで有る。
海軍は驚いていた。
三菱で二十三試艦戦として開発された、十一式艦上戦闘機烈風を海軍が持ってきた。十五試艦戦、十七試艦戦と連続でコケた三菱の意地が見えた。悔しいことに発動機は誉だったが。
十五試、十七試で水平旋回性能を重視させられた為に肥大化した機体はコンパクトに纏められ零戦と同じ幅十一メートル、長さ九.二メートルだった。
艦上戦闘機という事で整備の手間が増えてもスロテッドフラップと前縁スラットを使い着艦時の速度を抑えている。航続距離は零戦初期型と同等。その旋回半径はともかく全てに良好な運動性は零戦以上ともてはやされた。
最高速度こそ疾風、紫電と同じ程度だが、上昇力と横転性能はピカイチだった。開発中止となった十四試局戦の仇を取りたかったのだと言う、まことしやかな噂が立ったが開発者は否定している。
二十三試戦闘機は三機とも誉であり、性能的には大差なく仕上がってしまった。烈風が一番個性的で、優等生の疾風、バンカラの紫電、異端の烈風と呼ばれる。
百式司令部偵察機四型改も投入された。四型は発動機を誉に変えた機体で全速七百三十キロ出る韋駄天だ。それに排気タービン過給機を装備した機体は高度一万メートルで七百五十キロを記録した。現状追いつける機体は無いと思われた。ただ、与圧室には苦労しており搭載されてはいない。相変わらずの酸素瓶である。その代わりと言ってはなんだが発動機から高温の空気を操縦席と偵察員席に導入出来るようになっていた。暖かい空気は有難かった。
ディッツ帝国軍と日本軍の展開が終わった。
フェザー平原奪還作戦は航空撃滅戦から開始された。
両軍ともレーダーは持っている。低空侵攻でもそこら中に歩兵部隊がいる。
奇襲は無かった。
力業の強襲である。
数々の新型機を実戦テストとして投入する日本。
次回 七月二日 05:00予定