君の名前は
まるで天からの斬撃のようなその一振りに僕は切られるかと覚悟したが、しかしその刀はその長さ故の重さからか、予想以上に遅く、僕はそれをしっかりと今度は慌てずに避けた。
「え……」
少女がそんなすっとんきょうな声を上げる。
まるで今の斬撃が当たらなかったのが不思議のようだった。しかしそんな速度では当たらない。そもそもこんなか細い少女にこんな図太い長刀を振り回すなんて土台無理な話なのだ。
「ちょ、ちょっと落ち着いてください!」
そうもう一度制止を試みたが、しかし彼女は僕を見てキッと目を鋭くした。
また切りつけてくる。そう思って僕は慌てて後ろへ後退する。が、その際何かに躓いて僕はお尻から後ろへと倒れ込んだ。
「いった……って、え?」
その躓いた何かを見た。木の枝か、はたまた大きな石か。
しかしそれは僕が予想した中のどれでもなかった。
それは人。僕と同年代か少し上くらいの体つきをした男性が、何か両手で胸に守るように抱いていて、うつぶせになって倒れていた。その背中にはいくつか赤い点があって、そこからは大量の血が流れた後があった。実際に見たことは無いが、想像するにこれはまるで何度も背中を刺されたような。
恐る恐る僕はそのうつぶせの男性をひっくり返して仰向けにさせる。男性はやはり大学生くらいの少し髭の生えた長髪の男で、眼鏡を掛けていて身体はたるんでいた。まるで引きこもりのネット中毒者のような人間だったが、その服装は僕と同じで身体も汚れていて、あまりにも雰囲気が合っていない。
そしてその男性は確かに死んでいた。脈を取る必要も瞳孔を確認する必要もなかった。明らかに、目を見開いて苦痛の顔を浮かべて死んでいた。
「な、んだよ……これ……」
男はその胸に大事そうに何かを抱えている。
それは一本のペットボトルだ。ラベルも何もない、ただ中には水がいっぱいに入っている。たかがそれだけのものを、しかし男はまるで劉備の子を護る趙雲のように大事そうに抱き抱えている。
「君、まさか」
そんな僕を見下ろすように少女が何かを言いかけた。しかしそんな彼女を見上げると、彼女はその図太い殺意の塊である長刀を今にも僕に振り下ろそうと構えており、僕はそれを見て彼女の言葉を訊くや否や、慌てて逃げようと身体を動かしたが、そこで気付く。
僕は何故逃げようとしているのだろうか――と。
僕はゴミだ。世の中に必要の無い、むしろ邪魔な存在だ。死ぬ事で、消える事で初めて世のため人のために役にたてると言うのに。どうして醜く逃げようとするのだろうか。
僕は逃げようとする自分を抑え、諦め、そしてその少女を、刀を見上げた。
「……逃げないの?」
少女は両手を上げたまま、僕にそう尋ねる。
だがそれに答えず、諦めたように悟った顔をする僕に、少女は――
「君は、新入りね?」
そう言った。そしてその振り上げていた長刀を下げ、腰にしまい直す。
「新入り……?」
「そう。ご愁傷様。でも残念だけれど、私は案内役でもなんでもないから、君に今のこの状況を説明してあげる義務も義理もないの。だから端的に言うなら、ここはこういう場所なの。ここではありとあらゆるものを奪い、奪われ、殺し、殺される……誰からと言うわけでもなく、自然と皆はこう呼ぶようになったわ」
《ゴミ箱》――そう、彼女は言った。
「ゴミ、箱……?」
「そう。ここはゴミ箱と呼ばれる地……詳しい話は、そうね。付いてきなさい。初めての人は皆困惑するもの。自分が置かれた状況くらいは知っておいてもいいものね」
自分が置かれたどうしようもなく絶望的な状況を――と彼女は最後にいかにもおどろおどろしくそう言い足した。それは確かに今の僕によろしくない言葉ではあったが、しかしそんなことだろうとは薄々感じていた。だって同じ年頃の女子が無防備な僕に刀を向けて脅しているんだ。どう考えたって良い状況には思えない。だからこの状況が今までの僕が置かれていた状況よりもよっぽど酷いものであることだけは、理解していた。
「君は誰だい? どうしてこんな所に?」
と僕が当然のように質問を投げかけると、少女はこちらを振り向いて言った。
「ここで名前を聞くのは御法度よ」
「……どうして?」
「名前は、この中ではもう既に必要の無いものよ。私たちは皆過去を全て捨ててここに来たの。もちろん君もね。だからそれは言ってはいけない。ここでは誰も本名は名乗らない」
「じゃあどうすれば?」
「ここでは皆あだ名で呼び合ってる。私は皆にソウって呼ばれてる。漢字は無いわ」
「ソウって、なんだかとても猟奇的な名前だね……まあよくわからないけど、じゃあ僕も本名は名乗らない方がいいのかな」
「その方がいい。その辺りは、後で詳しく説明してあげる。だから君も、何かあだ名を考えた方がいいわね」
うーん、と彼女はわかりやすく考えるようにそううなって、
「じゃあ君は今日から《シュン》。そう名乗ったら? 良い名前でしょ?」
「……シュンか。いいね」
ソウと名乗った少女はそう満足気に言って、再び前を向いて歩き出した。
僕はもう一度、彼女につけてもらった名前をぼそりと呟いた。