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プロローグ終わりです。
一瞬、久しぶりの直射日光がまぶしくて視界が閉ざされたが、しかしそれでも止まることなく僕は長年の記憶をたよりに塀沿いに家の門を目指した。
外は驚くほど静かで、鳥一匹たりとも見えなかった。仕方が無い、と僕は門を開けて敷地から出ていつも優しくしてくれる隣のおばさんの家を訪ねた。
ピンポーン。むなしくその音が響く。おばさんはこの時間なら家にいるはずだ。しかし家には誰もいる気配はなく、案の定数秒待ってもおばさんは出てこなかった。
「ああ、最悪だ」
こつこつと、革靴の音を響かせてまるでピアノ奏者が舞台袖から悠々と出てくるように歩いてきたのは、先ほどの男。光に反射してその白いスーツがまぶしい。手にハンカチを持ち、僕が先ほど思い切り声をぶつけた耳を丹念に拭いていた。
「私はね、潔癖症なんだよ。だから君のようなゴミの息がかかるのは我慢ならないんだ。今すぐ殴り殺したいが、しかし私はゴミに触りたくないのでね。それは止めておこう。物に当たる趣味はない」
「さっきから人のことゴミゴミって……ふざけんなよッ!」
「ああ、もういい。何も喋るな。面倒だ。私は果たすべき義務は果たした。もう君と会話してやる必要もない」
男は本当に面倒そうな顔で白いハンカチを胸元のポケットから取り出した透明のビニール袋に入れた。捨てた、のだろう。そう、彼にとってその高そうな白いハンカチも、もうゴミなのだ。ゴミの汚れを拭いたから、もう使えない。
常人ならば、発狂してもいいほどの屈辱だ。こんなに馬鹿にされたのは初めて……いや、よく考えれば初めてではないが、しかしそれでもむかつく。いますぐ目の前の男を殴り飛ばしたい。
でも、僕の中の何かが僕自身の身体を止めている。
それはこれに怒ると全てを認めてしまっていることになるから?
それとも、男の言ったことに、何も返す言葉が無いから?
「僕は……」
ゴミなんかじゃ無い。
今まで頑張って生きてきた。目の前の結果をがむしゃらに追いかけていた時期もあった。
ただ今は少し、その反動で休んでいるだけ。
たった半年じゃないか。たったそれだけ休んだだけで、停滞していただけで、僕は社会にとって不必要な人間になってしまったのか? たったそれだけで……。
「もういいだろう。諦めろ」
男は言った。まるで僕を優しく諭すように。
「君にだってプライドはあるだろう。後悔、反省はあるだろう。でもどうだ? 現実、君は何も行動を起こさず、ご両親に迷惑を掛けている。そうだろう?」
ずきり、と再び僕の心が確かに痛んだ。
思い出される両親の同情の目が僕の心を締め付ける。
「ご家族は君がいなくなったことを初めは悲しむかもしれない。それは我々も心が痛い。でもね、結果的にご両親は君のいない生活の方が幸せだと気付くだろう。心の負担が無くなり、自分のやりたいことに全力を尽くせる。君の分のお金も浮き、部屋も空き、ご両親はもっと別の事を楽しめるんだ。君と分割していた愛情も、全て君の妹に向けられ、君の妹もさぞ幸せだろう。単純にクリスマスプレゼントの質が二倍に跳ね上がる。君が部屋を出ないから行けなかった旅行も、三人で気軽に行けるようになる。君に対する陰口を周りから聞かされることも無くなる。そう、数え上げればきりが無いほど、全てが良い方向へ進むんだ」
確かに。僕はここ半年、両親の笑っている顔を見た事が無い。
いつも悲しい目で僕を見ていた。
母はいつも友達と通っていたヨガ教室に行かなくなり、父は毎週末に楽しみにしていた飲み会にも、月一のゴルフにも行かなくなった。
全ては、僕のためだ。家で僕と少しでも一緒にいて、僕が立ち直れるまで付き合ってくれているのだ。やりたいこともできず、ただただ息子に束縛されている。
「母さん……父さん……」
なんだかとても急に悲しくなった。
両親の事を思うと、辛くて仕方が無かった。僕は本当に、両親を不幸にしている。
家族を、悲しませている。
「だから少年、行こう。不必要な君にできる、唯一最大の親孝行は、今すぐ君がご両親の前から消え失せることだ」
僕はまぶしい晴天の青空を見上げた。本当にまぶしい。
今頃学校では卒業式が終わって、皆放課後の別れの時間を楽しんでいるころだろうか。母は休憩に入り、楽しく職場仲間とお喋りでもしているところだろうか。父は仕事で車で遠くに赴く途中、パーキングエリアにでも入って飲み会とゴルフに行かなくなった分で浮いたお金で贅沢に名産品でもほおばって、買って帰る土産でも思案しているのだろうか。
ただ何をしていようが、そこに僕は必要無い。僕がいなくても、いや、いない方が皆楽しい。何も考えず、何も心配しなくていい。ただ目の前の事に興じればいいのだ。
この家にも学校にも日本にも世界にも、どこにも僕は必要ない。僕がいて何かを成すことはできない。ただただ周りの足を引っ張り続けるだけだ。
こんな、ゴミのような僕には。
僕は大きく呼吸をして、男を見た。そしてゆっくりと頷き、
「はい」
そう返事をした。
さっきまであった反発心が、驚く程に消え失せていた。
むしろ、清々しい。
「泣いているのかい」
「……うぅぅ」
鼻を大きくすする。
全てを諦めて、なんとなく今まで張り詰めていたものが全て緩んでしまった。
でも少し、心が楽になった。
母さん――これからはまたヨガ教室に通ってください。そしてずっと行きたがってたお花の教室も行ってください。いつも買い物に行くたびに物欲しそうにショーケースを眺めてたね。見てたらわかるよ。母さんはブランドものに目が無いってこと。それも全部、買えるようになるよ。好きなだけ買っちゃえ。
だって、僕はもういないんだから。
父さん――飲み会とゴルフにまた行けるよ。ずっと行きたがってたのを我慢してたの知ってた。だって昔それが生きがいだって言ってたもんね。ごめん、僕のせいで。これからは飲み会は週二、ゴルフは月二回に増やしたらどうだろうか。そして母さんと妹を連れて、海外にでも旅行してやればいい。
だって、僕はもういないんだから。
「それじゃあ、行こうか。あっちに車を用意してある」
男がそう言ってある方向を指した。
僕は嗚咽で綺麗に返事をする自信がなく、ただ黙って頷いた。
もう一度自分の家を見上げる。そこは僕が生まれた家で、僕が育った家。毎日ここで寝て起きて、ご飯を食べて、テレビを見て、漫画を読んで……本当、たいしたことしてないな。僕って。
最後に、と僕は誰もいない自宅に向かって言った。
「ありがとうございました」