ノミのプライド
「はい? ……警察、呼びますよ?」
「本当に残念だ。どうしてこんな人間がいるのか。私は悲しくて涙が出るよ」
男は僕の話を無視し、一方的に芝居がかった口調で話し続ける。
「君の両親は品行方正でとても優秀な人間だと言うのに。子供の君がどうしてこんな人間ゴミになってしまうのか……私は本当に嘆かわしい。そして同時に人というものはかくも複雑なものなのだな、と感心させられる。優秀な人間から優秀な人間が生まれるとは限らない。しかしとてゴミのような人間から金が生まれることはほとんど無い。理不尽なものだよ。これも我が国の誤った教育制度のせいなのか。それともこれが人というものなのか……」
わけがわからない。だがこの人は危ない、そう確信できた。
僕はあまり男を刺激しないように、ゆっくりと電話に向かって移動し始める。これは警察を呼ぶ以外の選択肢はない。
「無駄だよ。今電話線は切ってある。どこにも繋がらない」
びくり、と行動を読まれ身体が震えた。
「どうして、そんなことを?」
「それはこちらの台詞だ、少年。君は今まで何をしていた? どうして何もしなかった?」
「はい?」
「毎日毎日同じ空を見上げ、何度も何度も同じ漫画を読み返し、来る日も来る日も無為に時間を過ごした……なあ少年。どうして君は何もしなかった?」
男の低くどもった声が、僕の心を強く刺激する。痛い。
「……それは、学校に、行けなかった、から……」
答える必要も無いのに、何故か僕の口から言葉がはみ出た。
言い訳が、穴の開いたガソリンタンクのように漏れ出す。
「別に学校に行かずともできることなど山ほどあるだろう。例えば君の好きな漫画でも描けばいい。絵は得意なんだろう? 君の描いた漫画が、それを読んだ子供たちを触発させて、その子供たちが将来何かを成すかもしれない。君の漫画を読んだ外国人が君の漫画のファンになって日本を訪れてお金を落としていってくれるかもしれない。高校を中退した人間でも、自分にできる仕事をして立派に社会のために尽くしているというのに……。それに学校に行けなかった? なんとも被害者ぶった言い方だな。君は学校に行かなかっただけだ。行けなかったなんて口が裂けても言うな。世界中の貧しい子供たちに謝れ。土下座しろ。わびて腹を切れ」
男の口調が少しずつ速くなってきているのがわかった。なにかこう、怒りを抑えつけるように。
そして男は言葉を続ける。
「君は自分がどれだけ恵まれた環境にいるかわかっていない。自分がどれだけ贅沢を言っているかわかっていない。君は自分がどれだけ罪深いことをしているかわかっていない。理解していない。無能じゃない。無知なのだ。だから君は、失格なんだ」
わけのわからないことをつらつらと話し終えた男は、そう言い終えてソファを立ち上がった。僕はいつでも逃げられるように、と体勢を取る。何もかもがわけがわからないが、しかし今僕がわかっていることは、この男は危険だということだけだ。
「君だって学校で習っただろう。この世界にはその日のご飯が食べられずに死んでいく子供たちが大勢いる。母親が働いている間どこにも逃げないようにと、犬のように柱と足を鎖で何時間も繋がれている子供がいる。欲しい物を買うために自分の臓器を売る子供だっている。それが、世界だ。世界がどこであるかと定義するならば、大多数が世界。だから我々のような恵まれた環境で暮らしている人間はごく少数なのだよ」
「だから、なんなんです? そんなのこの国に生まれた僕に理解できるわけないじゃないですか。僕はこの世界しか知らないんですから。世界がどこかと言われれば、僕にとってこの日常生活が世界です」
どうしてか。すぐにでも逃げるべきなのに、僕は黙っていられず言葉を発する。
男は言い返した僕をさらに睨むように見つめ、
「ふむ、言い訳だけは達者だな。まあなんであれ、君は自分の恵まれた環境を理解していない。もう十八になるというのに。君はね、差別が駄目だと理解はしている。でもどうして駄目なのか、それを考えようとしていない。ただ学校で教わったから、『差別は駄目だ』ということを反射的に言っているに過ぎない。この世界には理由のある正当な差別もあるというのに。それが子供ならまだいい。でも君はもう十八だろう。大人だろう。でも君の頭の中は今でも幼稚だ。陳腐だ。ゴミくずだ」
「いい加減にしてください。わけが、わかりません」
そう言いながらもずるずると下がり、僕は裏口の取っ手に手を掛けた。すると、
「君の唯一の希望を打ち砕いておいてあげよう、少年。こう見えても私は政府の人間だ。わかるかい? つまり、君がどこに行って何をどう叫ぼうとも何の解決にもならないし、その裏口から出て逃げおうせたところで、この家を取り囲む私の部下に捕まる」
「……せ、政府って、はあ?」
こいつは何を言っているのだ。最初から最後まで純国産本場瀬戸内海のわけワカメである。阿呆としか言いようが無い。やはりこいつはアメリカドラマの見過ぎのキチガイだろう。そう確信した。
男はゆったりとこちらに近づきながら、
「近年、日本を取り巻く不況の波については、知っているな? そんなものテレビを見ていれば不況不況とまるで流行語大賞にすらノミネートされないのが当たり前だと言わんばかりに連呼されているだろう。そして確かに現状、今の日本は岐路に立たされている。先ほど話した世界の悲惨な日常が、すぐそこまでこの国に近づいてきている。知っていたか? そんな危ない状況にあるだなんて。思ってもみなかっただろう? どうせなんとかなる、そう阿呆みたいな顔して生きていたんだろう」
「……」
それは、何も言い返せない。
しかしこんな子供の僕に日本のこれからについて考えろなんて無茶な話だろう。むしろそんなことを考えている高校生のほうがおかしい。
「もちろんなんとかする。我々政府も尽力している。しかしそんな我々の足を引っ張る存在がこの日本に多く存在するんだよ。そう、君のような存在がね。世間ではニートだとか引きこもりだとか、そう呼ばれているな。馬鹿馬鹿しい。そんな人権を与えるようなネーミングは不必要だ。君たちは《人間ゴミ》で充分。そう思わないか?」
男は酷く憎々しい顔でそう言い放って僕を見た。
これが世間の目だ。僕のような人間を同情する人もいるけれど、その人たちの皮を一枚はいでやれば、皆この目で僕らを見ている。この役たたず、穀潰しが、と。
「どうしてそんな努力もしない、なんの存在価値もない負担にしかならない人間のために私たちが血反吐を吐く努力をしなければならない? どうして我々の命がけの努力の成果を、お前のような生きる価値もない人間に分け与えてやらなければならない? 私たちが築き上げた財産は、私たち働いたもの自身で共有するべきだろう? あとは病気や致し方が無く働けない方々にお配りする。それが道理だ」
やめてくれ。そんな目で僕を見ないでくれ。
僕は何も悪くない。
たった半年、学校を休んでいただけじゃないか。
「もちろん、君のようなこれからという子供に、日本の将来を案じて日本の将来のために尽力していなければならない、なんて無茶は言いはしない。これから学んで行けば良い。でも、だからこそ、君たちにできることが勉学だろう? 君たちが勉学に励み、就職し、働く。それが日本の将来を案じていなかったといても、それは日本のためになっているんだよ」
「僕は……」
何か言い訳をしたかったが、しかし何も出てこない。出てきてもそれは、自分を納得させるための言い訳でしかなかったから。
男は僕の返答を待たずに続けた。
「私たちは待った。君が高校を卒業する時期まで猶予を与えた。が、それでも君は何もしなかった。だから国は判断した。君は我が国にとって何の生産性の無いゴミでしかない、と。君に我が国の大事な資産を一円、米一粒たりとも渡すわけにはいかない。お金も、食物も、水も、電気も、土地も、居場所も、君のその吸う空気さえも、そして日本のために従事してくださっている君のご両親の心の負担さえも、勿体ない」
両親という単語に、ずきり、と心が酷く痛んだ。
男は僕のその微妙な表情の変化に気付いたのか、
「ご両親は君なんて粗大ゴミは捨てて、何も負担に感じず、もう一度明るい笑顔で仕事に取り組むべきだ。以前のように。部屋に使い物にならない場所だけ取る大荷物が常に置いてあっては不愉快だろう? すぐに捨てるべきだ。どうせ使えないし使わない。そうだろう? 可哀相だろう。ご両親が。引きこもっている君に構ってやるという心労が、今君のご両親から笑顔を、幸せを奪っているんだよ」
そう付け足した。
「ご、ごみって……そ、そんな人たちは日本中にごまんといるでしょう?」
醜くも、しかし僕のノミのようなわずかなプライドが反論した。
「いる。だからその全てを必要、不必要に分別して選別して、より分けている。それが私たち、《分別屋》の仕事であり、我が国の新たな政策だ。そして君は晴れて我が国にとって不必要な人間である人間ゴミであると印鑑を押された。そしてそれは君だけではない。今まで不必要とされてきた人間は君の言う通りごまんといる。そのごまんといる不必要な人間ゴミも順次君と同様に処分されていく。ただの、順番の問題さ」
「しょ、処分……? それって、何を」
そう恐る恐る尋ねると、男は少し考えるように視線を逸らした後、
「それは君が今考える必要はない、ゴミ。私は君のようなゴミが大嫌いだ。何もせず、何もしようとせず、ただバカみたいな面をして私たちが必死に得た財産をかっさらっていく。泥棒だよ、君たちは。君はゴキブリと一緒に部屋で暮らしたいかい?」
「そんな、だって、こんなことなるなんて、知らなかったし……」
やはり僕の口から出るのは何の力も無い言い訳。
それでは目の前の男も、そして僕自身すらも騙せはしない。
「知らなければ努力しない、それが駄目なんだ。すでにそこで必要と不必要の歴然とした差ができてしまっている。我が国は限られた財産を限られた人数で回さなければならない時期に来ている。少しでも無駄遣いを減らすためにね。そのために君のような何の生産性も無い存在は無駄だから消えてもらうことにしたんだよ。それが政府の方針であり、我が国が今の状態を維持して生き残っていくための最善の策なんだ。こうして親切に君に全て説明してやっているのは、ゴミでも人間だから、と言う最後の情けだ。ゴミに残された最後の人権、だな。何も知らずただ処分されるのは嫌だろう? 私も今すぐ君を処分してこんな場所とはおさらばしたい。ゴミと話しているなんて不快以外の何物でもないからな」
ぎりり、と悔しさのあまり唇を噛みしめる。
こんな侮辱は初めてだ。でもだからと言って男の言う事は何一つ間違ってはいない。
「確かに、僕は不必要な人間かも知れない」
男の目が怖く、下を向いてだったが、しかし僕は男にもう一度強く反論した。このままゴミだと言われ続けるのが無性に苛立ったから。
「でも、でもまだ僕は十八です。これから、まだ取り返すだけの猶予はあるでしょう?」
「無い。君に与えられた猶予は十八の卒業式までだ。それまでに何の変化も見えないようならば処分は確定だった」
僕のわずかな希望を打ち砕くように、男ははっきりとそう否定した。
「でも……」
僕がさらに何か言い訳をしようとすると、男は僕の目の前まで近づいてきて、僕を見下ろすように立ち、
「君はこう言いたいんだろう。世の中には大器晩成という言葉があり、子供のうちに才覚が芽生えても大人になっててんで駄目になったりすることもあるし、逆に若い内は駄目でも大人になると凄い結果を残したりすることもある。だから今が駄目だからといって切り捨てるようなエリート優遇思考では、隣国のサッカー選手のように結果の残せない将来性の無いものになってしまうのでは、と」
そして男は顔を下ろしてきて、すっと僕の耳元に顔を近づける。その際鼻のあたりを手で覆っているのが何とも腹立たしかった。
「残念だが、それは大きな的外れだ、少年」
僕は唾を大きく飲み込んだ。
「私たちがただ単純な判断だけで人々をより分けていると思うか? 私たちには私たちなりの細かい確かな選別方法がある。もちろん、将来性があるかどうか、その人間が変われるかどうか、ありとあらゆる角度から考慮し、判断している。我々は国民のために働いているのだ。大事な国民を、根拠の無い適当な判断で処分することができるわけがないだろう。君が人間ゴミだと判断されたのには、それ相応の根拠がある。残念だが、これはもう決定事項だよ。君は逃げられない。たとえ国外に逃げようとしても無駄だ。君のパスポートは既に使用不可能になっているし、すぐに戸籍も無くなる」
「う、うるさいっ!」
僕はそう男の耳元で叫んで相手をひるませ、がちゃりと後ろ手に裏口の扉を開けて外へと飛び出た。