第5話
静かだ。あまりにも静かだ。
異様で異常な出来事が目の前で展開されたせいだろう。
草むらの虫たちも衝撃のあまり鳴くのを忘れてしまったようだ。
リョウは、リョウはどうしているんだ?
兄に吹き飛ばされ遠くの草むらに落ちたはずだ。
リョウは、リョウはどこに行ったんだ?
俺は不安になった。ものすごく不安になった。
ひょっとして、生き残ったのは俺だけか?
十年前の事件の時と同じように生き残ったのは俺だけなのか?
その時、リョウの声が聞こえてきた。インカムを通して俺の耳もとに、
リョウの押さえた声が聞こえてきた。
リョウは無事だった。インカムも壊れてはいなかった。
俺はうれしさもあふれ思わず声を上げていた。
「リョウ! リョウ、大丈夫か? 今お前、どこにいるんだ?」
普段から冷静でなくてはいけない。
その時の感情に押しながされて自分を見失ってはいけない。
そう自分に誓っていたが、俺は思わずその事を忘れていた。
俺が数十メートル先のリョウに声をかけた事により、
兄に、俺がここにいる事を伝えてしまった。
まずい! と思ったが、もうそれはすでに遅かった。
怒りに燃える兄は、残った標的である俺の姿を見つけ、
一歩一歩近づいてきた。
俺はビビッた。俺は動けなかった。
まるでヘビににらまれたカエルのように。
だが、この表現は正しくない。
なぜなら兄はヘビなどではなく、そう、アフリカの大草原で
獲物を狙う百獣の王、またはそれ以上の存在だったからだ。
「撃てっ! やつを撃ち殺せっ!」
はるか遠くの草むらの奥からリョウが叫ぶ。
そんな事言ったって、そんな事言ったって、わかってる!
俺はすぐさま立ち上がり、震える手で銃を構えた。
そう、黒魔術使いに対抗するため専用に作られた銃弾を入れた銃だ。
俺は、その銃弾が何で出来ているか知らない。
そんな事知らなくたって構わない。
今は銃を構え、俺を目指して一歩一歩進む兄に向って引き金を
引くだけだ。だが、引き金が引けない。激鉄を握る指がブルブルと震え、
力がはいらない。
いや、指だけじゃない。銃を構える両腕までがブルブルと震えはじめた。
これも兄の放つ黒魔術のせいか? と思った。だがそれは違っていた。
俺は怖さのあまり、恐怖のあまり、身体全体が震えていた。
黒魔術によるものではなく、俺自身が恐怖のあまり身体全身で震えて
いたのだ。
怖い。
とても怖い。
恐怖を押さえられない。自分自身を押さえられない危機に直面した時、
人は身体全身をブルブルと震わせて恐怖を表現する。
押さえられない。
それはとても恥ずかしい事なのだが、仕方ない。どうしようもない。
十年前のあの事件の時も、俺は現場で震えていた。
今、その時と同じように、俺は恐怖のあまり震えていた。
一歩一歩近づいてくる兄。
その距離が俺の直前まで来た時、ふっ、と笑みを浮べた。
兄は笑っていた。
たしかに笑っていた。
どちらかと言うと、小馬鹿にしたような感じであった。
恐怖のあまり、俺は目を閉じてしまった。
俺は敵を目前にして、思わず目をつぶってしまった。
目を閉じてしまった事により、身体全身で兄の気配を必死に感じ取る。
兄がすぐ近くまで近づいている感触を感じる。
肌を通して熱のような、空気圧のような兄の気配を感じる。殺意だ!
俺は殺られる!
兄の気配が、俺のすぐ目の前に来た時に、ふいに、
それがすっと消えた。兄の気配がまるでなくなった。
本当か? 兄はどこへ行ったんだ?
気がつくと、俺の身体全身を揺らす震えがいつのまにか収まっていた。
その変わり、ハアハアと激しく息をしている自分自身に気がついた。
ゆっくりと目をあける。
だが、そこには兄はいなかった。思わず驚き、俺の小さな眼を
せいいっぱい広げてあたりを見回す。
だが、いない。
兄はいなかった。
ふいに空を見上げて兄がどこへ行ったのか、すぐにわかった。
満月を隠していた雲は流れて動いていた。
あたりには再び月明かり照らされていた。
雲が、兄が怒りの黒魔術を発動した時に沸き上がった雲が、
ひとすじの流れを作り、はるか先の夜空に移動していた。
あの雲の下に、兄はいるのか?
兄は俺たちが来た山奥の山荘へと向っているのか?
あの雲のはるか遠い先に、俺たちが来た山荘があるのか?
俺にはそれがわからなかった。
だがもうひとつ、俺にはわからない事があった。
俺は、なぜ助かったのか、兄はなぜ、俺を襲わなかったのか。
黒魔術ショーが終わり、あたりは平穏を取り戻していた。
鳴くのを忘れていた虫たちが一斉に羽根を奏でだす。
ブルブル震えていた俺の足元で、小さな小さなコオロギが何事も
なかったように鳴いている。
あぶないぞ、お前。
間違って、お前を踏みつぶしてしまうじゃないか。
俺はそう思った途端、なぜ兄が俺を襲わなかったのか、わかった。
それはとても嬉しい事ではなかった。
俺は相手にならない。
俺なんか、兄の相手として認めてもらえなかったんだ。
兄は、そう、まるで百獣の王ライオンに見えた。
百獣の王ライオンはか弱い小鳥など襲ったりしない。
小さな虫になど、目もくれない。
俺は、そんな存在だったんだ。黒魔術をかける事なく、恐怖のあまり
ブルブル震えていた、俺。
兄は、そんな情けない俺を、敵として認める価値のない俺を、
相手にしなかっただけなんだ。
俺は情けなかった。
これじゃ、まるで十年前と同じだ。
俺は自分自身が情けなくて仕方なかった。
だが、気落ちしている俺の気持ちを救ってくれたのは、
リョウの声だった。
「…また今回も生き残ったのか。」
皮肉だった。リョウが俺に話しかけた言葉は、実際は相当に
嫌味であった。だが俺は、それをマイナスには受け取らなかった。
リョウはいつも、皮肉めいた事をぼそっとつぶやく。
リョウは、そう言う奴だ。
だが、いつもクールに決めているリョウにしてはめずらしく、
今回は身体全体をボロボロにしてやつれていた。
草むらをかき分け、足を引きづりながら、こちらに歩いてくるリョウ。
自慢の長い髪も、もはや周りの草むらと区別がつかないくらい乱れていた。
『兄』によって飛ばされた影響で、身体がガタガタなのだろう。
あちこちの痛みをがまんしているようであった。
特に右腕が痛むのだろうか。右腕を触るリョウの表情が苦痛で歪んでいた。
リョウは乾いた笑みを浮べて俺の右手を見た。銃を握る俺の手を。
「…相変わらずだな、お前は。今回も何もできなかったのか。
まあ、あわてて狙いも定まらず、全弾使い切るよりもマシだったかな。」
ふっ、と息を吹いて、リョウは俺の顔を見つめた。
「その弾、作るの大変なんだぞ。何人もの生け贄の怨念が入ってるんだからな。」
「えっ?」
俺にしてはめずらしく速効で反応した。
「次はちゃんと狙えよ。」
リョウの言った言葉は本当なのだろうか?
それとも、今回も何も出来なかった俺に対しての、皮肉なのだろうか?
俺が細かい事を口に出さなくても、リョウにはいつも筒抜けだった。
だが俺は、リョウが何を考えているか、たまにわからない時がある。
この現場に来る時は、大勢の仲間とともに数台の車でやってきた。
GPSとインカムがあるとは言え、全員が遅れぬよう車を先導するのは
結構大変だったはずだ。
だが、帰りは問題ない。
帰りの車は、俺たちの乗る車一台だけだ。
道案内の必要もないし、好きなだけスピードを出せる。
ただ予想外だったのが、帰りの車は俺が運転した事だった。