第2話
『あの事件』。それは、今から十年前に起きた事件だった。
井上源三郎を主とする『井上呪術研究ファクトリー』。
通称『井上呪研』。声を出して読むと『井上受験』と聞こえる。
これではまるで、受験のための塾か予備校だ。
実際、そうであれば何も問題はなかったのだが。
この組織は当初、ただ単に『黒魔術』を愛好する小さな研究会で
しかなかった。だが、一部のメンバーが『井上呪研武闘派』を結成、
黒魔術を使って行動に出た。
『革命』と言う名の武装蜂起を行った。
この国の首都で発生した、まるで戦争のような異常事態。
一大被害を受けた当局はそれに対抗すべく、
特別科学警察SSPを編成し、事態を無事鎮圧した。
騒動を起こした『武闘派』は全滅し、事件とは無関係だった井上源三郎は
その責任を問われ、当局に拘束された。
井上源三郎には、二人の子供がいた。今年、二十五才になる兄と、
十八才になる妹がいた。井上源三郎と十八才の妹は、人里離れた高原の山荘に
隔離され、二十五才の兄だけが、刑務所にずっと収容されていた。
だが、その兄が脱走した。刑務所に囚われていた兄が、脱走した。
****
俺はリョウが運転する車に乗り、自分が歩いてきた坂道を下った。
歩いて約一時間半かかった道は、車ではたったの数分だ。
複雑にカーブする坂道だったが、リョウはこの道を何度も往復して
いたのだろう。迷う事なくアクセルをふかし、ハンドルを切っていた。
井上源三郎の兄が脱走したと言う事で、SSPのメンバーはただちに急行した。
リョウの運転する車を先頭に、同じデザインの車両が数台後について走った。
俺と同乗している後ろの席に座る奴の顔も憶えている。
十年前の『あの事件』でともに戦った仲間だ。こいつもこの山荘に
配備されていたのか。彼女が、井上源三郎の娘が幽閉されている、あの山荘に。
誰がどこに配備されているのか、俺は知らない。
それは本部が決める事だ。ひょっとしてあの事件に係わり、
生き残ったメンバーでここに配備されていないのは、俺だけかも知れない。
そんないぶかしい気持ちを悟ったのか、リョウがつぶやいた。
「…気になるか?」
不意をつかれた俺はあわてた。
「…えっ?」
「気になるんだろう? 彼女の事が。」
隠す必要はない。今さら、隠しても仕方ない事だ。
なぜなら、彼女の情報を知るチャンスは、今しかないのだから。
俺はつぶやいた。後ろの席の『同僚』に聞かれないように
小さな声でつぶやいた。
「普段はどうなんだ。元気になってるのか?」
「…まあな。元気だ…。」
…これでは、さっき会った時の会話と変わっていない。
真新しい情報など何もない。いぶかしがる俺の表情を見て、
リョウはいたずらっぽく微笑んだ。俺の考えている事をリョウはわかるのだろう。
だが俺は、リョウの考えている事がわからない時がある。
****
うかつにも眠ってしまった。ぐっすりと、眠ってしまった。
半日以上列車とバスに揺られ、山深い高原の山荘にたどりついた疲れが
あるとは言え、うかつにもぐっすりと寝込んでしまった。
すでに作戦行動に入っていると言うのに、俺は寝込んでしまった。
俺はリョウの声で目をさました。
リョウが俺に話しかけたからではない。
井上源三郎の長男が収容所を脱走し、逃亡している。
夜のハイウエイをハイビームで照らしながら、リョウはインカムで
情報を確認していた。その声で俺は目をさました。
たぶん本部と話していたのだろう。
リョウの話し方と独特の言い回しで判断できた。
あたりはすっかり暗くなっていた。今、何時なのか? と確認しようと
した時、リョウが俺につぶやいた。
「もうすぐだ。」
リョウの笑みを含んだつぶやきに、俺は思わず何も考えず問い返した。
俺はまだ寝ぼけていたのかも知れない。
「…えっ?」
「…もうすぐで行動ポイントに到着するぞ。」
俺は楽しみだぜ、と言う顔をしていた。
リョウは作戦行動が楽しくて仕方なかったのかも知れない。
ハンドルを握りハイウエイを飛ばすリョウの表情が、
笑みを浮べているのがわかった。
リョウがそういう性格な事は、俺は昔から知っていた。