第10話
井上源三郎は『人間の身体』をはがされ、『脳髄と神経細胞』のみの
『身体』にされていた。もはや、人間の姿をしてはいなかった。
何と言う!
何という事を!
まるで人間の仕業とは思えない。
俺は怒りにも似た感情が沸き上がってきた。
俺ですらそうなのだ。
兄の怒りは想像を超える物であった。
「父に、父さんに、何をした?」
「だまれ! 犯罪者の息子め! お前の父、井上源三郎は十年前、
黒魔術を駆使して武装蜂起をおこし、人々を混乱に陥れたではないか!
様々な黒魔術による破壊活動で、何人の犠牲者が出たと思う?」
たしかにそうだ。たしかに十年前、この国の首都で黒魔術による破壊活動が
発生し、憑依現象で人々が怪物化して命を落としたり、いわゆる魔女狩りが
いたるところで起きた。高層ビルを誇ったこの国の首都は、便乗した暴徒の
破壊活動もあって、一時はまるで廃墟のようと化した。
復興するまで何年かかったと思う?
やっと治安も回復し、ようやく今復興のきざしが見えてきたと言うのに。
だが、少し違う。一部間違いがある。
それは。
「それは! それは違う! 黒魔術による破壊活動を行ったのは、
武闘派だ! 俺たち井上呪術研究ファクトリー本体は、逆に当局の捜査に協力し、
破壊活動を行った武闘派を、お前たちと手を組み、鎮圧したではないか!」
だが、リョウはそれを聞き流して答えた。たしかに、そうなのかも知れない。
「だからと言って、井上呪研本体が、全て完全に安全な組織とは言えまい。
井上呪研本体の黒魔術崇拝があったからこそ、あの事件が起きた。
一番確実なのは、全ての大本を絶つ事なのだからな。」
兄は憮然としていた。兄の言い様のない怒りはこの室内に広く充満し
はじめていた。兄は、自分の『父』が『監禁』されている水槽に見つめ、
そして俺たちを見据えた。
「…だからと言って、だからと言って、こんな残虐な事をしていいのか?
お前たちのしている事が正しいと思うのか?」
兄は自分の失われた『右腕』を突き出すようにして俺たちをにらんだ。
俺は見れなかった。兄に視線をあわせる事ができなかった。
何て事だ。きっと兄の右腕はリョウたちによって奪いさられたのだろう。
だがなぜ? なぜ兄は右腕を奪い取らなくてはいけなかったのか?
なぜ兄の右腕を奪い取る必要があったのか?
その答えは皮肉にも兄自身の『口』から発せられた。
「俺の右腕を返せ!」
兄が訴える目線、それはリョウの右腕に送られていた。
最初俺は何の事か理解できなかった。だがその答えは皮肉にも、
リョウ自身の口から発せられた。
「この右腕は、とても良い右腕だ。下等な魑魅魍魎など物ともしない。
さすがは黒魔術使いの盟王の右腕だ。簡単な黒魔術なら俺でも使いこなせる。」
リョウはそう言い終わると、右腕を上げ黒革の手袋をはずした。
それはリョウの右腕ではない。あきらかに手の形、指の長さ、骨格、
色がリョウの右腕ではなかった。それはリョウ自身の右腕ではなく、
奪い取られた『兄』の右腕であった。
そんな! ひどい事を!
俺は愕然とした。
「…なぜだ? なぜ、こんな事を?」
たぶん、俺の顔は驚きのあまり紅潮していただろう。
こんなにひどい事をリョウがするなんて、俺は信じられなかった。
だがリョウは、俺に目もくれず淡々とした口調で俺を諭した。
「…あいかわらず甘いな、お前は。敵に対抗するためには、
敵の長所を認めそれを素直に受け入れる事だ。相手の力が強大で
あればなおさらだ。我々の憎むべき敵が黒魔術使いなら、
こちらも黒魔術を取得するのは当然の事だろう。」
リョウのその言葉に、明らかに自分の意識が昂揚している事が、
良くわかった。
「しかし! しかし、だからと言って!」
今回、俺にしてはめずらしくリョウの意見に反発した。
普段は大人しかった俺の反抗的な態度に、リョウはあからさまな
不快感をあらわにした。
「だからお前はダメなんだ! こいつらは犯罪者だ! 犯罪者の血族だ!
どれだけ被害があったと思う? こいつらがいた事で、
どれだけ多くの国民が命を落としたと思う? 忘れたのか?
忘れてしまったのか? 俺がかばってやらなければ、何も出来ないくせに
生意気言うな!」
俺はショックだった。俺には相当なショックであった。
たしかに俺は鈍い。足手まといかも知れない。
だが俺は俺なりに一生懸命やってきた。なのにリョウは、
リョウは普段から俺の事を、そう言う風に思っていたのか。
立ち尽くす俺にさらに衝撃を与えてくれたのがエースの態度であった。
俺の元へ駆け寄り、そして俺を突き飛ばした。
「どけっ! どいてろ! 聞いただろ?
あんたはふ抜けな足手まといなんだよ!」
生意気なエースの態度に反発したかった。
だが、俺のショックは結構深かった。エースに突き飛ばされた反動で、
あやうく床に眠る妹にぶつかりそうになる所だった。
だが、今はそれどころではない。
俺は混乱していた。俺自身の意識が混乱しはじめていた。
たぶん、兄も怒りのあまり混乱していたのだろう。
一直線に武器を構えるリョウとエースを見据え、
兄は怒りの炎を燃え上がらせ、そして叫んだ。
「なぜだ? なぜ父を、こんなひどい姿にしたんだ? なぜなんだ?」
「…お前の父、井上源三郎が研究していた黒魔術は、実に合理的で
科学的な優れた物だ。井上の身柄を確保した後、我々は井上の黒魔術を
続けて研究分析しようとした。だが、彼は協力を拒否した。
……だから、この状態にした。彼の意思がどうであれ、その技術と知識は、
脳から直接引き出せる。」
衝撃の事実を淡々と語るリョウとは正反対に、
兄の表情が歪んでいくのがわかる。『生ける棺桶』に『保存』されている父の、
井上源三郎の『頭脳』に向って心の声で必死に語りかける兄。
一生懸命の兄の姿に対し、リョウはまたしても冷たく言い放った。
「ムダだ。お父さんは眠っているよ。彼の起きる時間や眠る時間はこちらで
完全にコントロールしている。」
「…こんな事をして、こんな事をして、何が狙いだ?
父が研究した黒魔術を何に利用するつもりだ?」
リョウはこれまでになく、明瞭でハッキリと、さわやかな口調で
兄の問いに答えた。
「お父さんの研究は全て、人々の平和のため、国家の未来のため
利用させてもらっている。」
さすがに俺も、それが真実ではない、と確信が持てた。
「……お前ら、許さん。絶対に許さない…!お前らこそが、
魔物だ!…お前たちは人間などではない!」
怒りに燃える兄の身体が震えている。
左腕の拳が激しく揺れている。黒魔術使いの盟王としての兄が今、
怒りとともに復讐の怨念で黒魔術の力を集中しようとしていた。
だが、リョウは笑っていた。黒魔術の力を集中せんとする兄の姿を見て、
リョウは笑みを浮べていた。
「…言い忘れたが、この地下室は特殊な魔法陣の中のような物だ。
電磁的に結界が張られている。黒魔術の力を駆使しようと思っても、ムダだな。」
リョウがリモコンのような物を取り出し、スイッチを入れた。
強力な地響きとともに、機械の作動音が室内に共鳴する。
直後、青く燃えさかっていた兄の炎は消え失せ、兄の近くによどんでいた
『気配』が一瞬にして消失していった。
「…!」
愕然と驚く兄に、リョウは最高の笑みを浮べて口を開いた。
「この結界フィールドの実用性は、すでに何人もの実験体で証明済みだ。
卑しき魔界から現世に舞い降りた前世紀の異物の黒魔術師よ。
最後は化物ではなく、『人間』として我々と戦うが良い。
その方が人間的でいいだろう?」
もはや、リョウは『人間』ではなかった。
リョウの意志その物が『魔物』と言えた。
だが俺は、そんなリョウを否定する事はできなかった。
「いくぞ!」
最後は意外とあっけなかった。
現実とはこんな物なのかも知れない。
リョウのかけ声と同時にエースが兄に襲いかかる。
黒魔術が使えなくなったとは言え、兄が『丸裸』だったわけではない。
皮肉にも兄の身体には彼を拘束する様々な金属がまとわりついていた。
兄はそれを武器にしてリョウたちに対抗した。
抗黒の剣で襲いかかるリョウを、兄は原始的な方法で突き飛ばした。
兄の左腕にくくられていた金属の輪と長い鎖が、リョウを数メートル先に吹き飛ばした。
太刀を振りかざし続けて襲いかかるエースの頭を、
兄は返す左腕の金属の輪と鎖で見事に粉砕した。
まるでスローモーションのように地に朽ち果てていくエース。
その光景を見て怒りとも、驚きとも似た叫び声を上げ、再び襲いかかるリョウ。
だが、黒魔術に対抗するため特別に造られた抗黒の剣は、ただのなまくら刀と化していた。
リョウの左腕の拳でもろくも宙を舞う抗黒の剣。固まったように立ち尽くす
リョウに兄は勝ち誇ったかのように口を開いた。
「忘れたのか? お前。ここに結界が張られて黒魔術が無効になっているのは、
俺だけではないんだぞ。」
そうだ。ここでは黒魔術の効果は聞かない。
と言う事はリョウや俺たちにも同じ事が言えた。
その事実にリョウの顔が歪む。
事を終わりにしたい兄が満身の力を込めてリョウを吹き飛ばした。
リョウが吹き飛んだ場所、それは意外にも俺の所であった。
俺の身体にリョウがぶちあたる。その衝撃で俺は床に押し倒された。
その反動で俺の銃が床にころがっていく。
野獣のようなリョウが、それを見のがすはずはなかった。
閃光が走った。リョウは床に落ちた俺の銃を取り、仁王立ちして襲いかかる
兄の頭を打ち抜いた。
たった一発である。
たった一発が全てを決めた。
ここには結界が張られている。
俺の銃に装填されている『生け贄の怨念』が込められた『特別の力』は
無効になっている。だが、兄の頭を貫くには充分な『力』を持った
『普通の弾丸』であった。
最後は意外とあっけなかった。
現実とはこんな物なのだろう。
ハアハアと息を切らして立ち尽くすリョウが、俺の顔を見て一言つぶやいた。
だが俺はその言葉の持つ意味に少し不快感が残った。
「やはり、お前はこういう時には、必要だな。」
****
小鳥たちが集まっている。私が来るのをまっている。
ここへ来て、もうどのくらい立つのだろう?
私はなぜ、ここにいなくてはいけないのか。
都会の喧噪から、はるか離れた高原の山荘。
私は『あの事件』以来、ずっとここにいる。
私の自由を認めてくれる事もなく、ずっと、ここにいる。
小鳥たちが、私が来るのを待っている。
どんな種類かわからない。
どんな種類でも構わない。
そんな事は、関係ない。
さまざまな種類の小鳥たちが、私が来るのを待っている。
****
結局、俺は何も出来なかった。
今回も俺は、何も出来なかった。
『兄の脱走・襲撃事件』から数カ月が過ぎた。
あれから事態は特に変化はなく、数カ月が過ぎていた。
俺は再び、事件の現場となった高原の山荘を訪れた。
この高原の坂道を歩くのは、何回目になるのだろう。
もはや回数など関係ない。山荘へ続くこの長い坂道をただ歩くだけだ。
迎えの車などいらない。
俺は歩きたかった。
俺は、高原の山荘へと続くこの長い坂道を歩きたかった。
しばらくすると、小鳥たちのさえずりが聞こえてきた。
小鳥たちがまるで俺の事を出迎えているかのように、
あちらこちらで鳴き誇っている。
どんな種類かわからない。
どんな種類でも構わない。
そんな事は、関係ない。
小鳥たちの『歓迎』のさえずりに包まれながら、
俺は高原の山荘のまでの長い坂道を、ひとり歩き続けた。
小高い丘にある山荘まで、あと百メートルと言う場所にたどり着く。
地面に突き刺さり盛り上がった岩の上で、例によってリョウがそこに
陣どっていた。俺とリョウは特に会話は交わさなかった。
会話を交わさなくても、お互い何を考えているかは良くわかっていた。
俺はリョウに視線を送る事なく、ゆっくりと歩を進め、リョウの前を
通り過ぎた。その時、リョウの右腕が俺の目の中に飛び込んできた。
兄の右腕を移植したとされる、リョウの『右腕』。
いつものように黒革の手袋がしっかりとはめられていた。
リョウはなぜそのような事をしたのか?
本当に黒魔術に対抗するため、黒魔術を駆使するために、そんな残虐な事をしたのだろうか?
俺とリョウは会話を交わさなくても、お互いの考えが良くわかっていた。
だが俺は、リョウが何を考えているか、たまにわからない時がある。
リョウを背にして数歩あるくその先に、小鳥たちが集まっていた。
『秘密の花園』と呼べるような庭園に、小鳥たちが集まっている。
その中心で小鳥たちとたわむれる、一人の少女。
妹である。
彼女は本当に『魔女』なのか?
彼女は自分の兄が殺されたのを知っているのだろうか?
妹はなぜ、ここに幽閉されているのか?
そのひとつひとつを問いただしたかった。だがその答えがわかったからと言って、
何が解決するのだろう。世の中はとても複雑で、現実はそんなに単純ではない。
妹は俺の視線に気がついたようだ。
燐とした眼で俺の顔を見る。
遠く離れていても、彼女の表情ははっきりとわかった。
彼女はしばらく俺の顔を見ていたが、やがて何事もなかったように小鳥たちと会話を続けた。
以前来た時彼女は、俺の顔を確認するなりそそくさと荘園の奥へと隠れてしまった。
だが、今回は違う。
彼女は逃げる事もなく、俺の事を気にする事もなく、
小鳥たちとたわむれる姿を披露してくれた。
今回の事件で、俺とリョウの関係は、かなり開いてしまった。
だが、俺と妹との距離は少しは縮まったと思う。
降り注ぐ春のあたたかい陽射しに包まれて、小鳥たちと『会話』する妹。
その『会話』の内容が、ふと、理解出来たような気がした。
妹と小鳥たちが何を話しているのか、わかったような気がした。
だが、たぶんそれは、気のせいだろう。俺がそう思い込んでいるだけに違いない。
そう思った時、小枝に留まる一羽の小鳥が俺に『話しかけて』きた。
『そんな事はないよ』。
俺には、そう聞こえた。俺の『耳』にはそう理解できた。
それが『気のせい』なのか、『真実』なのか、どちらでも良かった。
これも『魔女』である妹の力なのか。
『魔女』である妹の『魔力』に俺が蝕まれたせいなのか。
もはや、細かい事はどうでも良かった。
どちらかと言えば、俺は少し嬉しかった。
人には不謹慎と言われるかも知れないが、彼女に一歩近づけたようで、
俺にはとても嬉しく思えた。
今回、俺は彼女を救う事ができなかった。
今回も、妹を『奪還』する事ができなかった。
だが、あわてるのは止めよう。
急ぐのは止めよう。今後どうなっていくのか、
この現実がどうなっていくのか、一歩一歩確かめながら前へと進んでいこう。
『そのうち想いが伝わるよ。』
小枝に留まる小鳥が、そう俺に話しかけてきた。
完