みけんのしわ
一つ、二つと増え続けるみけんのしわ。
えっと、私、何やっちゃいましたか??
バレンタインデーの渡り廊下での一場面。
いきなり耳に飛び込んできた言葉に驚いて、どさどさどさっと、伊吹の手から分厚い本の束が落ちた。
何冊かは足の上にも落ちて、かなり痛い思いをしたが、彼女は喉から飛び出しそうになった悲鳴を何とかこらえた。
あまりにびっくりして、何が起きたのか分からなかった。
目の前には、眉間に1本しわを寄せた、無愛想極まりない長身な男が立っている。
同じクラスの、松元雄馬だ。
彼は数学の授業以外、窓際の一番後ろの席で気持ちよさそうに寝ていて、それをいつも2つ横の席から眺めている伊吹は、彼をこんな真正面から見たことがなかった。
首を思いっきり上げないと、彼の顔が見えない。
目が合って慌てて下した彼女の視線の先は、ちょうど彼の胸の辺りに向かう。
もう一度ちらりと視線を上げると、雄馬はもの凄い顰め面だった。
クラスメイトが噂するように、彼の顔はいつも無表情で怖い。
彼女がまじまじと彼を見つめていると、彼の眉間のしわが、もう一本増える。
何だか彼が不機嫌になるようなことがあったのかと、彼女は慌てた。
この渡り廊下に二人っきりで向かい合っている状態で、もしその原因があるとするなら、伊吹以外ありえない。
雄馬はゆっくりと体をかがめて、彼女の足下に落ちた本を拾った。伊吹の手は、本を落とした状態のまま中途半端に前に出されていて、その彼女の手を大きな雄馬の手が包むようにして、彼女にしっかりと本を持たせる。
ずしりとした重さに、半分惚けていた彼女は、ようやく意識を覚醒させた。
「じゃ」
短くそう言って、雄馬はくるりと背を向けた。
「ちょ、ちょっと、ちょっと」
慌てて、伊吹は彼を呼び止める。
「何?」
やはり眉間に2本のしわを寄せた状態で、彼は振り向いた。
凄く不機嫌らしい。
でも、それはおかしい。おかしい、と伊吹は思う。
「な、何って」
真っ直ぐに見つめ返されて、伊吹は慌てた。
授業中、いつもこっそり見ていたけれど、彼と視線があったことはない。
雄馬の視線は真っ直ぐで、だから視線を逸らすことが出来なくて、彼女の顔には次第に熱が集中してきた。
「いや、あの、済みませんが、先ほど言ったことをもう一度お願……」
雄馬の眉間のしわがもう一つ増えて、伊吹は言葉を切った。
山のように本を抱えて渡り廊下を歩いてきた伊吹に、ふらりと反対側から歩いてきた雄馬が突然声を掛けてきた、のだと思う。彼女の幻聴でなければ。
出来れば、もう一度まともな状態で聞かせて欲しかった。心臓の音が耳元までばくばくと大きく聞こえてくる今が、まともな状態とは言い切れなかったけれど。
「えっと、その」
「もう一度?」
不機嫌極まりない雄馬の声が響く。低く、腹の底に響く重い声に、伊吹はびくりと震えた。
「はい、出来れば、ですけれど」
同級生だというのに、同じ年だというのに、伊吹は雄馬につい敬語を使ってしまう。
でも、とにかくもう一度聞きたかった。
「何度も言うことじゃない」
そう言い捨てて、雄馬はもう一度背を向けた。
どさどさっと、もう一度本が落ちる音がし、雄馬が振り向く間もなく彼の右手が引っ張られていた。
「えっと、ですね。
普通、それはないんじゃないかと思うんですよ」
落ちた本に目もくれず、伊吹は振り向いた雄馬の顔を見上げて言った。
「私の幻聴でなければ、貴方、今、私に、その……」
言い淀みながら、伊吹の頬が朱に染まる。
「あ、愛の告白とかいうやつをしませんでしたか?」
つい先ほど名前を呼ばれて雄馬を見上げた時、確かに「好きだ」と言われた、と思う。
雄馬の眉間のしわが、もう一本増え、反射的に、伊吹は彼の腕をつかんだ手に力を入れた。
しかし、ここで怯むわけにはいかない。
「し、しましたよね?」
「ああ」
ぎゅっと、伊吹の手に力が入り、雄馬は微かに顔を顰めた。
「えっと、ね、それで、じゃ、なの?」
「他に、何が?」
不機嫌そうな顔で、不思議そうに問われる。
「他にって、普通は、その、私の気持ちとか? その、つ、付き合って、とか、ほら、ねえ?」
伊吹は雄馬から視線を逸らし、きょろきょろと目を動かした。あまりにも堂々としている彼の態度に、何だか、自分が言っていることが普通じゃない気がしてくる。
普通は、そうだと思っていた。
少なくとも、自分は。
告白して、付き合って欲しいと言うつもりで。
「あ、ああっ!」
突然叫び声にも似た大きな声を出した伊吹に、雄馬は驚いたように目を見開いた。驚きでか、眉間のしわが一本減っている。
「ひ、ひどい、そうよ、だって」
唐突に自分の世界に入り込んだ彼女は、更に雄馬の腕を握る手に力を込めた。
「おいっ」
「……ひどいっ」
「ひどいのはそっちだろう。いい加減放せ」
「へ?」
押し殺した低い声に、伊吹は雄馬を真っ直ぐに見上げた。
「腕、痛いぞ」
言われて、視線を落として、我に返ったように彼女はぱっと手を放す。
「ご、ご免なさい、痛かった、よね?」
「まあな」
腕をさする雄馬の眉間のしわは、2本。
「で、何がひどいんだ?」
「え?」
びっくりしたように、伊吹は雄馬を見つめる。
「私、ひどいなんて、口にして、たんだね……」
乾いた笑いを浮かべながら、伊吹は、自分が思っていたことをそのまま声に出していたことに気付く。
「悪かったな、忘れてくれ」
そう言って去ろうとする雄馬の腕を、伊吹は今度は両手で引っ張った。
「いや、そうじゃなくて、違う、っていうか、えっと、違うの」
「何が……」
慌てている伊吹を、雄馬は疲れたように見つめる。
「あのね、もしかして知らないかも知れないけれど、今日はバレンタインなんだよ」
女の子が、好きな男の子にチョコレートを送る日。
「ああ、そうだったな」
「でね、その、バレンタインにね、女の子は普通一生分の勇気をため込んできてるの、少なくとも私はそう」
「……だから?」
それが、自分とどんな関係があるのかと、雄馬は視線で問う。
「チョコを用意して、夕暮れ時、一人佇む相手にチョコを渡して、一世一代の告白をするの。
告白のタイミングとか、シチュエーションとか、台詞とか、それはもう一生懸命考えてきたの」
「……」
雄馬の眉間のしわが、また1本増える。
「今はね、チョコ持ってないの」
放課後、告白するつもりだったのだ。今ではない。第一、今会う予定ではなかった。
「それがどういう……」
気付いたのか、雄馬はぱっと伊吹から一歩飛びさった。眉間のしわは2本。頬に微かに朱が走っていた。
「すっごく考えてきたの。それはもう、本当に。
チョコだって、何回も何回も作って。だから、ひどいって。こんなはずじゃなかったのに」
真っ赤な顔で雄馬を真っ直ぐ見つめる伊吹の視線から、今度は雄馬の方が逃れられない。
「チョコレート渡して、ちゃんと告白するつもりだったのに」
「えっと、その、誰に?」
困惑したような雄馬の眉間のしわは、1本。
「松元くんに」
伊吹の言葉にノックダウンされたように、雄馬はその場に座り込んだ。
「松元くんが好きです。あとでチョコ、もらってくれますか?」
「……」
蹲ったままの雄馬の前に、伊吹も座り込む。
いつもは大きく見える雄馬が、何だか小さく見える。
「で、私と付き合ってくれる?」
はあ、と重い溜息が漏れて、雄馬は顔を上げた。その顔は真っ赤だ。
「参った。あんた、ほんとに変わってるな」
「そう?」
「まあ、そこが気にいってんだけど」
はあ、と諦めたように雄馬は溜息をついて、伊吹の顔を苦々しく見つめる。勢いを付けて立ち上がると、座り込んだままの伊吹の手を引っ張って、立ち上がらせた。
「俺も、あんたが好きだ」
笑ってそう言った雄馬の顔には、もう眉間のしわは消えていた。