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作家吾妻の事件簿

踊る招き猫

作者: 真波馨

始まり


 久方ぶりの再会とはいえど、中学以来の旧友と顔を合わせるのに十八年の月日は長すぎる。重大な相談に乗ってもらうという名目であるならなおさらだ。

 待ち合わせには、市内の喫茶店「シャーロック」を指定された。何でも彼の行き着けの店なのだという。遠い過去に想いを馳せ、なるほど彼らしいと一人頷きながら、私は歩を早める。

 約束の時間には十五分ほどの余裕があったが、彼はすでに店内の一番奥、ゆったりとしたスペースのソファ席を陣取っていた。右手の指にペンを、左手の指に吸いかけの煙草を挟み、手入れも粗雑な黒髪の男がテーブルに広げた数冊のノートと睨み合っている。

「やあ――久方ぶりだね」

私の声に顔を上げ、切れ長の両目が僅かに見開かれた。

「ヤマト――宇多大和うだやまとか」

「ああ、覚えているか」

「正直、あまり記憶になかった」

 クールに返されてしまう。私は笑いながら、彼の向かい席に腰掛けた。

「無理もないか。中学以来だものな」

「しかも、お前は退学しただろ。確か、二年の冬だったか」

「よく覚えているなあ」思わず語尾が上がった。古いビデオテープを再生するように、記憶を十八年前に巻き戻していく。黒い学生服を身に纏い、同じ空間で机を並べていた時代だ。

「だが、どうしてお前が退学したのかってことまではうろ覚えだ。何かやらかしたんだったか」

「表面上はな。実は、あれは不可抗力だったんだ」

「不可抗力?」眉間に皺を寄せ、男は灰皿の底に煙草をねじ込む。

「まあ、そのことについてはまた今度にしようぜ。今日は昔話をしにきたんじゃない」

「おい、そこまで言ったなら最後まで話せ。先が気になるだろうが」

「ふうん、意外だな。そんなことに興味があるのか。どちらかといえば、今日の相談事の方がお前の専門だろ」

 ノートの余白に殴り書きされた「トリック参考・幻影城」という文字を視界の隅に捉える。男は素早く机上を片付けながら、

「俺は、何でも屋や探偵事務所を開いた覚えはない」

「だが、警察の捜査に極秘で協力している。そうだろ」

 男は露骨に顔を顰めた。無駄に笑顔を振り撒くより、こうした顰め面や仏頂面が似合っているところも昔と変わっていない。

「で、お前はどうして退学するはめになったんだっけか」

「拘るなあ」

「ま、いきなり相談事に入る前に、軽く与太話でもしようじゃないか」

「俺の過去は与太話か」

「自分で言ったんだろ」

 そりゃそうだ、と笑いを漏らし、私はマスターに珈琲を注文する。ソファの背もたれに身体を預け、天井からぶら下がる洒落たデザインの電球を仰ぎ見た。

「まあ、一言でいえば喧嘩だよ。ガキ同士の他愛もない喧嘩。が、それが思わず大事になってしまったんだ」

「警察の世話にでもなったのか」

「当たり。他校の生徒が一人、意識不明の重体になってしまった。その喧嘩の中心にいたのが、俺ってこと。ま、責任をとっての退学ってのが、表での言い分なんだけど」

「それが、不可抗力だったと」

「はめられたんだよ。仲間だと思っていた奴らに裏切られた」

 男二人の空間を仄かに照らす照明は、よく見ると西洋なんかで使われるようなパイプ煙草を象っていた。伊達に「シャーロック」の名を店に掲げているわけでもないらしい。

「確かに、あの騒動を誘引したのは俺だった。だが、意識不明になった男子生徒に直接暴行をしたのは俺の仲間の一人なんだ。そいつは表では成績もそれなりに優秀で、卒業後は県内でも有名な進学校に通うことになっていた。俺は、そいつの親父から半ば脅される形で責任を擦り付けられたんだ」

「警察には、事実を話さなかったのか」

「信じてくれるわけないだろ。俺を裏切ったそいつは、そもそもあの騒動に参加していなかったって話になったんだ。意識がやっと戻った生徒も、俺に散々ボコられたって証言したらしい」

 珈琲が運ばれてきた。挽き立て特有の香りを楽しみながら、事実を確認するようにゆっくりと言葉を選んでいく。

「それで、俺はいくら反論したところで無駄だってことに気がついたわけ。仲間には裏切られ、警察には信用されず。辛うじて、両親は庇ってくれたけどな。そんなのが警察の心に響くはずもないってことさ」

「それは災難だったな」男は何かを考え込むように、灰皿から立ち昇る残煙に視線を投じている。

「お前、そいつと話したのか」

「そいつ?」

「重傷を負わせたって他校の生徒だよ。両親を連れて、謝罪のひとつでも言いに行ったんだろ」

「ああ――まあ、相手は聞く耳もないって態度だったけど」

「妥当な反応だな」

「それでも、相手を死なせていないだけ、まだ不幸中の幸いだったと警察には言われたよ。未成年の犯罪とはいえ、死人を出すと出さないとでは大違いだってね。さ、俺の与太話はこれくらいでいいだろ。時間を無駄にしたくはない。早速、こちとらの相談ってのを聞いてほしいんだ」

 珈琲を啜って、一息ついた。舌に絡みつくほろ苦い味は、どこか懐かしさの余韻を含んでいる。

「ああ、そうするか――尤も、それはお前がこれ以上俺に嘘をつかないという約束をしてくれたらの話だがな」

 はっと、顔を上げた。鷹や鷲を彷彿とさせる鋭い目が私を見据えている。丹念に研ぎ澄ました刃物のような、冷たい光を帯びた眼差しだった。



       ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



その一 関係者らの証言


 言葉を詰まらせる私に対し、男――吾妻鑑あずまかがみは不敵な笑みを浮かべている。やっと発した自分の声は、自覚できるくらいに弱々しく頼りなかった。

「ウソって。一体、何のことだよ」

「俺が受けたのは、あくまで『宇多大和からの、ある事件に関する相談事』。だが、訪ねてくるのが代理の奴だとは聞いていない。重大な相談をするのに、嘘を通してもらうのはこちらとしても都合が悪いんでね」

「だから、俺が一体何のウソをついているっていうんだ」

「おいおい、下手なハッタリはここまでだ。お前は宇多大和じゃない。化けの皮はとっくに剥がれているってことさ。大人しく本性を現すんだな」

「本性って。俺は宇多大和だ。他人に成りすます理由なんて何もない。お前の勘違いだよ」

「ほう、勘違いね。それにしては、お前の話には二、三の矛盾点があるんだが」

「矛盾?」

 上擦る声を抑え、再び珈琲カップに手を伸ばす。喉を流れる液体は、気のせいか幾分苦味が増しているようだ。

「大きな矛盾は三つ。まず第一に、そもそも宇多大和は被害者の生徒を見舞ってなどいない」

 低音が、地を這うようにして朗々と店内に響く。気がつけば、周囲に客の気配はなくなっていた。

「被害者の男子生徒と彼の家族が、宇多大和との面会を拒絶したからだ。特に、被害者の生徒が宇多と会うことにひどく怯えていたんだと。まあ、自分を殺しかけた相手と直接対面するとなれば無理もないことだ」

「な――」

「第二の矛盾は、会話に出てきた『両親』というお前の言葉。宇多大和は小学生の頃に両親が離婚し、以来父子家庭だった。宇多本人との会話では家族の話題に触れることがなかったんだろう、お前は宇多の家庭環境を把握していなかった故に勘違いしてしまった――最後に、これは宇多の喧嘩話と直接の関連性はないんだが」

 言葉を失くす私に、吾妻は止めを刺すように言い放つ。

「宇多大和は、珈琲をブラックで飲むことはしない。あいつは今でも大の甘党だ」

 それきり、店内には暫しの沈黙が下りた。どこかに飾られているのだろう柱時計の、時を刻む音だけがやけに煩い。カチリ、と音がしたかと思うと、吾妻の指先にいつの間にか新しい煙草が挟まっていた。視界が灰色に濁り、彼の表情も朧になる。

 口火を切ったのは、私だった。小さく息を吐き、「あーあ」と大袈裟に声を上げてみせる。

「やっぱり、お前に嘘は通用しないか。でも、安心したよ。中学のときと変わらなくて」

「愉快じゃないな。こっちは貴重な時間を潰してここに来たんだ」煙たい視界から、不機嫌な声が返ってきた。

「それはこっちだって同じことさ。ある意味、お前と同業者なんだからな」

 背広から名刺を取り出し、テーブルに投げた。骨ばった長い指がそれを掴み取る。

本庄保ほんじょうたもつ。記者か」

「お前の記憶に辛うじて残っているとしたら、文豪みたいな丸眼鏡をかけた新聞部員ってところか」

「本庄――おいおい、まさか宇多の乱闘騒ぎをスクープ紙にして校内のあちこちに貼り出した新聞部員の」

「ご名答。覚えていてくれて光栄だよ」

「あの似非新聞記者みたいな真似をしていた本庄が、今や本職で東西奔走ってわけか。それにしては、偽る本人への取材がお粗末すぎやしないか」

「しょうがないだろ。電話応対だったし、俺も仕事が詰まっていたんだ」

「時間がなかった、か。立派な言い訳だな」

「ふん。推理作家は手厳しい」

 煙を手で払い、私、本庄保は傍らの鞄から一冊のファイルを取り出した。

「まだ俺の本性を怪しむようなら、その会社に問い合わせでもしてくれよ。一応業界ではそれなりに名の知れた出版社だからさ」

「そうさせていただくよ。それで」

「大和からの事件の相談っていっても、あいつは今その事件の最重要容疑者として警察に拘束されているんだ。本人が身動きできないものだから、俺が代理に指名されたってわけ。中学以来あいつと連絡なんて取っていなかったけど、俺が記者になっていることは風の噂で耳に挟んでいたらしい」

「それで、事件の容疑者となっている宇多は、金のかかる優秀な弁護士を雇う前にあんたを頼りにしてきた」

「そういうことだ。というか、さっきの口ぶりだと、お前も大和の近況を知っていたのか。あいつの甘党云々の話はともかくとして、風の噂にしてはえらく詳細まで把握していたようだが」

「ああ、つい最近まで宇多大和なんて名前はすっかり忘れ去っていた。宇多を偽ったあんたから連絡がきて、遠い記憶を掘り起こしながら警察への確認を取ったのさ。宇多が今でも糖尿病すれすれの甘党だということもな。だが、本庄保という記者が事件を嗅ぎ回っているということまでは聞いていなかった」

「失礼なことを言うな。俺はあくまで、大和から助けを求められたんだ。冤罪を被るのは一度で懲り懲りだって泣きつかれた。これでも一応記者を名乗っているから、お前が警察界隈ではちょっと名の知れた奴だったことは案外早く分かったんだぜ」

「こんなことなら、大人しく本業だけに専念しておくべきだったな」

 片手で名刺を弄びながら、嫌味を吐かれる。私は構わずに、飲み干した珈琲カップを脇に除けてファイルを広げてみせた。

「ま、とりあえず話だけでも聞いてくれよ。依頼を受けるも受けないも後から決めたって問題ないだろ」

 吾妻は咥え煙草のまま、頭髪を掻くと顎でファイルを示した。

「よし、恩に着るよ――事の発端は、三日前。去る十月二十日、土曜日のことだ。

 その日、宇多大和は自らの伯父にあたる、宇多康介うだこうすけの家を訪ねた。大和の父親は二年前に他界したんだが、伯父さんとは親交が続いていたんだそうだ。何でも、中学のときの事件で大和の無罪を警察に訴えた一人だったらしい。伯父さんのところへは、妻の雪枝ゆきえさんと一人息子の真幸まさきくんも一緒に訪ねた。伯父さんは妻を病気で亡くして一人暮らしだったから、様子を見るという意味でも三か月に一度くらいの頻度で伯父宅との往復があったそうだ」

「ふうん。宇多には妻子がいるのか」

「ああ。あいつも随分丸くなったんだな。昔のことも反省してすっかり大人しくなっているし、なかなかの美人で器量良しの奥さんをもらっているぞ」

「旧友が美人で器量の良い妻をもらって、羨ましいか」

「まさか」

 そのまさかであったりしたのだが、私は吾妻の言葉を遮って話を続けた。

 宇多大和、妻の雪枝、そして一人息子の真幸の三人で伯父の康介を訪れたのが、八日の午後一時過ぎ。二時三十分頃、雪枝は食事の買出しに出かけた。その日、宇多一家は康介宅に泊まりの予定であったのだ。雪枝が不在の間、大和、真幸、そして宇多康介の三人が屋敷に残された。

 事件が発覚したのは、午後三時三十分のことである。屋敷一階のキッチンでのんびりしていた大和のもとに、息子の真幸が寄ってきた。大和曰く、「真幸が『招き猫が部屋で踊っていた』と言い出した」のだそうだ。

「招き猫?」吾妻が怪訝顔で訊ねる。

「康介の書斎に、招き猫の置物が飾っていたんだ。陶器製で、宇多一家が以前旅行の際に土産物として伯父さんに買ったものらしい」

「ふうん。それで」

 真幸の言葉に疑問を持ち、大和は二階にある伯父の書斎を訪ねた。部屋のドアは開かれたままだったが、室内の照明は消されており、窓のカーテンも閉めきられ視界は暗がりだった。手探りでスイッチを見つけ明かりをつけると、ドアから向かって右手にある棚の傍で、頭部から血を流し倒れている宇多康介を発見。大和は慌てて警察と救急車に通報し、妻の雪枝にも連絡を取った。

「警察の到着時点で、宇多康介は既に事切れた状態だったそうだ。捜査によると室内の棚やデスク付近は何者かに物色された気配があり、通帳や金券が仕舞われいたデスクの引き出しをこじ開けようとした痕跡も残されていたらしい。また、被害者の死因については、頭部を強打したことによる脳挫傷。宇多康介の傍に転がっていた招き猫の置物と、被害者の頭部の傷跡とが一致したことから、その招き猫が凶器であろうと推測されている。遺体の状態から見て、死亡推定時刻は午後三時前後。警察は強盗殺人の線も洗いつつ、死亡推定時刻に被害者とひとつ屋根の下にいた大和を最重要容疑者として睨んでいる、ってわけだ」

 概要をかいつまんで話し終え、ふと腕時計を見ると午後四時を回っていた。五時に野暮用が入っている私は、珈琲代をテーブルに置いて席を立つ。

「明後日に、雪枝さんと面会する予定が入っている。彼女からも事件の真相を突き止めてほしいと言われていてね。現場の宇多康介宅に邪魔するつもりだ。ま、気が向けば電話の一本でも入れてほしい。現役推理作家の見解もぜひ伺いたいからな。そういうことで、よろしく頼むよ」

 事件の流れをまとめたファイルに目を落としていた吾妻は、煙草を持った右手をちょいと上げる。了解、という意味と受け取り、私は喫茶「シャーロック」を後にした。さしたる根拠がないにも関わらず、私の中には妙な確信があった。彼は宇多大和の事件解明を引き受けるだろう、と。



 私の期待を裏切らず、吾妻鑑は宇多康介殺害事件に一抹の興味を覚えたようだった。「シャーロック」での対顔から一夜明けた日の午後に、

「およその事情は把握した。ファックスの番号を教えるから、宇多康介宅までの地図を送ってくれ」

 相変わらずの低音で電話がかかってきたのである。

 実は私も、宇田康介の屋敷は今回が初の訪問であった。宇多雪枝との約束当日、インターネットから拾った地図を頼りに隣町の山間まで車を走らせること、一時間強。雑林を切り開いた空間にそびえる洋風の二階建てが、宇田康介の屋敷に相違なかった。

 私が屋敷に到着してからきっかり十分後、吾妻がシルバーのアウディで颯爽と参上。前回同様の寝癖か癖っ毛か判然としない髪型が、唯一残念といえば残念である。黒いロングコートを羽織った特大のカラスのような吾妻に関して、宇多雪枝には「大和くんの旧友で、事件解明に私とともに協力してくれるんです」とてきとうに濁しておいた。

「早速ですが、康介さんが亡くなられていたという現場を拝見しても?」

 名前に相応しく雪のような白い肌をした細君は、私と吾妻を二階の書斎へと案内してくれた。洋館にはお決まりの螺旋階段を登り、左手の廊下に折れ最初に現れた一室が悲劇の現場だ。重厚な造りのドアは、華奢な雪枝一人ではすんなり開閉することが難しいということで開かれたままであった。

「書斎は、まだ警察から頼まれて事件当時のままの状態です」

 ドアをくぐると、いかにも触り心地の良さそうなエメラルドグリーンの絨毯が目に飛び込んでくる。書斎ひとつをとっても私の自室より二倍近くの広さはありそうだ。

「現場保存、というやつですね。では、失礼して」

 刑事ドラマを真似て、もとい現場を荒らさないための配慮のために、持参した安物の手袋を装着する。ちらと吾妻を見やると、ダークコートに似つかわしい黒の手套が既に両手を覆っていた。「準備がいいな。さすがだ」と軽口を叩いてやると、運転用だと素っ気ない答えが返ってきた。

「康介さんは、こちらに倒れていたということですね」

 ドラマでお馴染み、人型をした白いロープがドアを開いて三メートルほど奥に見えた。頭を入り口側、両足を反対の窓側に向けている。頭の部分に、まだ赤黒く残る血痕が生々しい。高級感溢れる敷物も台無しである。

「康介さんは頭を強打したことが致命傷だったと伺いましたが、遺体の状態は具体的にどうなっていたのでしょうか」

 遺族相手に酷な問いかとも思ったが、警察の取調べにうんざりするほど応じたという雪枝はさして嫌な顔もせずに答えてくれた。

「伯父さまの後頭部に、二箇所の傷跡があったそうです。そのうち、この棚に飾っていた陶器製の置物と傷跡が一致した方が致命傷になったということでした。もうひとつの傷は、確かこちらの柱にぶつかってできたものだろうと、警察の方はおっしゃっていました」

 雪枝が示したのは、遺体のすぐ横、壁に沿って鎮座する立派なマカボニーの棚である。入り口に近い方の棚の脚部分から、微量の血痕が検出されたらしい。

「つまり、康介さんは一度この柱に頭をぶつけてから、犯人によって後頭部を殴られた。その一撃が致命傷となり、命を落とすに至った。そういうことになるのでしょうか」

「私が警察から聞いた話では、そのようでしたが」

 雪枝は細面を頷かせる。凶器と推察される招き猫の置物は、現在も警察が証拠として押収しているのだという。

「康介さんが柱に頭をぶつけたというのは、犯人が彼を突き飛ばすか何かのアクシデントによってできたものなのでしょうか。それとも、康介さん自身が足元を狂わせるなどして不慮の事故的に負った傷とか」

「さあ。そこまで詳しいことは、私は伺わなかったもので」

「まあ、当時はまだ初動捜査の段階だったからでしょうね――すみませんが、もうしばらくこちらを調べさせていただいてもよろしいですか」

「ええ、構いませんよ。一階でお茶の準備をしていますので、よろしかったら後程どうぞ」

 楚々と書斎を後にした雪枝を見送り、改めて現場を見渡す。遺体と反対側、ドアから見て左手の壁に貫禄あるロールトップデスクが構えていた。デスクの蓋は堂々と開かれ、机上は犯人の手によって荒らされた痕跡がある。部屋の奥、ドアから向かいの壁の中央に両開きの窓があり、モスグリーン色のカーテンは左右に寄せられていた。薄曇りの空の下に鬱蒼と茂った森林地帯が広がる光景。まるで映画のセットに入り込んだ気分である。

「趣味の良い部屋だな。さすが現役の社長さんだ」

 遺体横の棚付近を右往左往していた推理作家は、ふと立ち止まり「宇多康介は社長なのか」と問う。

「ああ。県下を代表する化学メーカー社の現役社長。それが、宇田康介の肩書きだ」

 肩書きだった、と今は言うべきだろうか。雪枝によると、頭取を失った組織内部は事件から一週間が経過した現在もてんやわんやの状態だという。

「社長ともなれば、それなりに各業界に顔も広かったんだろうな」

「それだけ、恨みを買う可能性もあったと言いたいのか」

「動機方面は警察に任せるさ。俺はそのあたりの事情に関して、ほとんどノータッチの状態なんでね」

 てっきり動機から責めるという推理手法もあるかと予想していたのだが、ドラマや小説世界だけの設定なのだろうか。

「それで。この部屋から何か発見でもありましたか、作家先生」

 気を取り直して訊くと、吾妻は棚に視線を投げたまま顎をさすっている。

「犯人は、この棚に飾っていた招き猫の置物を手に凶行に及んだ」

「ああ。それが警察の所見らしい」

「後頭部に傷跡が残されていたということは、犯人は背後から被害者を襲ったことになる」

「そうなるだろうな。それがどうかしたか」

「妙じゃないか」

「何がだい」

 そんなシンプルな事実から、私は「妙だ」という着眼点には至らなかったのだが。

「室内は荒らされた形跡があり、一見強盗殺人とも推測できる。だが、突如部屋に押し入ってきた強盗犯に対して、被害者が無防備に背中を向けるとは考えにくい」

「じゃあ、強盗を装った計画殺人?」

「だと仮定すると、遺体の二つの傷跡についても説明がつく」

「どういう風にだい」

「宇多康介と揉み合いになった犯人が彼を突き飛ばし、棚の柱に後頭部をぶつけ床に崩れ落ちる。だが、もし仮に、その時点でまだ宇多氏に息があったとすれば?」

「最初の傷を負った時点では、まだ生きていたということか」

「どのみち面が割れているなら、通報されるのも時間の問題だ。ならば、確実に息の根を止めて自分に関する証言をさせない方が安全だという思考に犯人が至っても不思議ではないだろう」

「そこまで計算に入れた上で、真犯人は宇多氏の事件を強盗殺人に仕立て上げようとした」

 綿密な計画を立てた上での犯行だった、というのだろうか。液晶画面の中だけでしか見たことのなかった世界が、たった今目前に飛び出してきたような感覚に陥る。

「ん。待てよ。吾妻のその仮説を進めるとすると、犯人は外部犯に見せかけた内部犯という可能性もあるってことだよな」

「そうなるだろうな」

「それはまずい。大和の疑いが強まるだけだろう。あいつの無罪を晴らすことが目的なのにさ」

「この屋敷の関係者は、何も宇多大和だけじゃないだろう」

 シンプルな、しかし嫌な予感を覚える一言だった。

「まさか、雪枝さん?」

「それから、一人息子の少年もだ」

「おいおい、それは飛躍しすぎた発想だろう。被害者の死亡推定時刻には、雪枝さんは買い物に出かけて不在だったんだぞ。ほら、推理小説でいうアリバイだっけ? 立派なアリバイがあるじゃないか。それに、真幸くんが殺人を犯したなんて」

「偏った思考から導かれる偏った答えは、真実から最も遠いところにある」

 妙に格言めいた言葉は、作家ならではというべきか。旧友の無実を証明したい一方で、雪枝や真幸が殺人に関わっているかもしれないという疑惑――相反する二つの感情は、まるで反発しあう磁石のようである。

 そんな私の内なる葛藤などいざ知らず、棚の検証を一通り終えたらしい彼は、次にロールトップデスクを入念に調べ始める。デスクの引き出しのうちいくつかには鍵がかかっていたらしく、金品の類には手がつけられていなかったようである。

 だが、よく考えてみれば、もし大和や雪枝が真犯人で、なおかつ金銭目的に及んだ犯行だったとするならば、ロールトップデスクの鍵の在り処を把握していても良さそうなものである。被害者の命を奪わずとも、屋敷内にある金目のものをくすねることなどさして難儀することにも思えない。

 その旨を吾妻に問うてみると、

「むしろ逆の可能性もあるだろう。金銭以外の殺害動機があったからこそ、真の動機をカムフラージュするために強盗殺人に見せかける。それに、仮に金銭が目当てだったとしても、社長でもあった被害者がいくら親類だからといって宇多や雪枝さんにデスクの鍵の在り処を伝えているとは考えにくいだろうな」 

 指摘ごもっとも。推理作家に頭脳で敵うはずもなく、私はだんまりを決め込むことにした。推理小説の探偵よろしくロールトップデスクを検分していた彼は、だがやがて興味を失くしたようにデスクを離れると、雑木林が一望できる大窓に近づいていく。

「この窓のカーテンは、事件当時閉め切っていたということだったな」

「ああ。大和が部屋のドアを開けたとき、室内は暗がりだったと証言していたようだ」

「そして、部屋の照明も消された状態だった」

「よく考えると、被害者はそんな真っ暗な部屋で一体何をしていたんだろうな。仕事なら迷わず照明をつけるだろうし、第一自分の書斎で照明をつけたくない理由でもあったんだろうか」

「照明をつけたくない理由、か。それは興味深い意見だ」

 どうやら推理作家のお眼鏡に適ったらしい。ワトスン役でも担っているようだと、少しばかり気分が高揚する。

「だが、そもそもこの書斎で秘密裏の作業をするのなら、部屋に鍵をかけておけば何の問題もない。客が訪ねてきても『仕事中だ』とでも言えば済む話だ」

 私の演じるワトスン役は、正味一分ほどで舞台袖へと退場した。

「部屋の鍵は開いていた。だが、照明は消えておりカーテンは閉ざされたまま。ドアはあっけなく開いて――」

 ぶつり、と言葉が途切れた。電池の切れたおもちゃのようにしばらく直立不動の姿勢を維持していた男は、おもむろに私へと首を向ける。

「確か、最初にこの書斎を訪れたのは宇多の息子だと言っていたな」

「ああ。真幸くんだ」

「その真幸少年は、あのドアから部屋の中を見て『招き猫が踊っていた』と証言した」

「だな。その招き猫云々という意味はまだ分からないが」

「踊る招き猫の謎は後だ。問題は、真幸少年がこの部屋を訪れたとき、ドアは完全に閉まった状態ではなかったということさ」

「ドアは完全に閉まっていなかった?」

「あのドアは、成人している雪枝さんの力だけでは容易には開閉できないくらいの頑丈な造りになっている。俺もそれとなく確かめてみたが、あれは大の男である俺でもそれなりの力が必要になるだろうな。当然、子どもの非力な腕力で開くものじゃないわけだ」

「なるほど。だから、事件当時この部屋のドアは全開、もしくは半開き程度に開かれていたと」

「犯人に明確な殺意や、あるいは計画殺人の意図があったのだとしたら違和感があるな。ドア付近の遺体といい、犯人には事件を隠蔽するという意思がなかったのか。いや、そもそも強盗殺人に見せかけた計画なら、犯人が慌てて逃走したためにドアを開けたままにしておいたという説明は自然か」

 後半はやや独り言めいていた。推理作家はくるりと私に向き直る。

「現段階では、どんなに仮説を組み立ててもあくまでそれは仮説にすぎない。憶測の領域を出ない問題だ」

 仮説を証明するには、まだ証拠が不十分ということらしい。吾妻は宇多雪枝への聴取を希望する。無論私もそのつもりであったので、二人で書斎を引き下がることにした。



 書斎を後にし向かった階下のリビングでは、純白のクロスが掛けられたテーブルの上に、ティーセット一式とクッキーの入った菓子受けが用意されていた。椅子に行儀正しく座った真幸少年は、紅茶の注がれたカップを慎重な手つきで傾けている。

「雪枝さん。事件当時のことについて、またいくつか質問したいことがあるのですが」

「ええ。お二方の気の済むまでどうぞ。夫からもとても期待されているみたいですし」

 雪枝は小さく微笑む。我々が学生時代の同級生だということは、すでに大和から話があったらしい。

「事件当時、雪枝さんは買い物に出かけていたということでしたよね」質疑は私が主導で進めることになった。雪枝は素直にこくりと頷く。

「ええ。確か、午後の二時三十分頃だったと思います」

「雪枝さんが最後に康介さんを目にしたのは?」

「お買い物に行く前ですね。リビングで、二時すぎまで夫と伯父さまと一緒にいましたから」

「なるほど。ちなみに、そのとき康介さんや大和さんに変わったところなんかは」

「まるで刑事さんみたいですね。特にはなかったかと思いますけど。いつも通りとしか言い様がありません」

「では、どんな話をされていたか覚えていますか」

「話といっても、大したことではありませんでしたよ。真幸の進路のこととか、あと、夫と伯父さんは仕事の話を少しばかりしていたようでしたけど」

「あの、ちなみに大和さんのお仕事って」

「警備会社で働いております」

「ですよね。いえ、伯父さんと仕事の話とはどんな内容だったのだろうと、ちょっと気になりまして」

「私もしっかり聞いていたわけではないので。ごめんなさい」

「ああ、いえいえ。では、雪枝さんが買い物に出かけるときも、康介さんと大和さんはリビングに残っていたのでしょうか」

「だと、記憶していますけど」

「ちなみにですけど、真幸くんはどちらに?」

「ずっとお庭で遊んでいました」

 雪枝の白い手が、リビングの吐き出し窓を指す。青々とした緑の芝が目にも鮮やかだ。小ぶりのサッカーボールや赤い三輪車、大和のお手製だという木作りのブランコ。絵に描いたような庭風景である。

「分かりました。では、大和さんから連絡が来たときのことについてですが」

 雪枝が夫から異常事態を告げられたのは、まだ買い物の最中であった三時四十分のことである。「康介伯父さんが、書斎で頭から血を流して倒れている。息をしていない様子だったから、救急隊と念のため警察も呼んでおいた」と、宇多大和の震える声に驚くばかりだったという。買い物を中断し急いで屋敷へと引き返した雪枝が目にしたのは、館の前に停まった救急車両と複数台のパトカー。現実離れの光景に目を疑いながらも、夫や息子、そして変わり果てた宇多康介の待つ書斎へと駆けつけた。

「信じられませんでした。ついさっきまで言葉を交わしていた家族が、目の前で亡くなっているなんて」

 形の良い唇をきゅっと結び、睫毛を伏せた視線がティーカップに落ちる。「お気持ち、お察しします」という定型句を述べる一方で、宇田雪枝が強盗を装った計画殺人事件の犯人ではないか、という恐ろしい顛末が脳裏を過ぎった。

「あの――私からも、ひとついいですか」

 唐突に低音を響かせたのは、推理作家の吾妻である。

「あなたは、事件当日の午後二時三十分頃に買出しに出かけたということでしたよね」

「ええ」

「その買出しというのは、車ですか」

「はい。夫と真幸とで乗ってきた車を使いました」

「ちなみに、どこへ買出しに行かれましたか」

「山を降りたところにある、スーパーですけど。『ナチュラルマート』というところです」

「そうですか」

「あの、それが何か?」雪枝は訝しげな眼差しを向けている。

「いいえ。特に大きな意味はありません。こんな山中に住まいがあっては、被害者も日々の生活に何かと不便を感じていたのでは、と思いまして」

「社長の地位を辞した後には隠居生活も考えていらしたようです。それで、この洋館を買ったのだとか」

「なるほどね」

 ここから、聴取の相手は宇多真幸に移ることとなった。クッキーを美味しそうに頬張る少年に、私は精一杯の笑みを向ける。

「真幸くん。お兄さん、ちょっと真幸くんに訊きたいことがあるんだけど」

「なあに?」二枚のクッキーを手にしたまま、真幸はきょとんとした顔だ。

「真幸くん、この前お父さんに『招き猫が踊っているのを見た』って言ったんだよね」

「うん」

「その招き猫は、康介伯父さんの部屋で踊っていたのかな」

「そうだよ。僕、見たもん」

「どんな猫さんだった?」

「ううんとね――白くて、手にお金を持っている猫さん」クッキーから手を離し左手を挙げて招き猫のポーズをする少年に、雪枝は微笑を浮かべている。

「その猫さんは、どんな風に踊っていたのかな」

「どんなふう? ううん、こうね、こんな感じ」

 上半身を左右に揺らしながら、無邪気な笑みを見せている。今ひとつ想像し難いが、私は「なるほど」と大きく頷いてみせた。

「その招き猫を見た部屋には、誰かがいたってことはあるかな」

 一種の核心を突く問いかけだったが、事件の小さな目撃者は両目をぱちくりとさせると、

「ううん。真っ暗だったし、何も見えなかった」

 希望は脆くも打ち砕かれた。内心では肩を落としながらも、努めてにこやかに「そうか。どうもありがとうね」と礼を述べる。

 その後、私と雪枝の間でいくつかの問答が続けられたが、事件に関する目ぼしい証言を得られることはなかった。宇多康介宅を辞する際に振り返った洋館は、低く垂れ込める雲を一身に背負い、主を失くして悲嘆に暮れているようにも見えた。



       ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



その二 警察の証言


 宇多康介の事件を管轄する警察署へ赴いたのは、雪枝を訪ねた二日後のことである。宇多大和は今だ身柄を拘留されており、最初に彼と面会したときよりも幾分か頬が扱けているように見えた。

「気をしっかり持て。お前は犯人なんかじゃないんだろう。そう思うなら、絶対に自白なんかするんじゃないぞ」

 唾を飛ばす勢いの私に、大和は虚ろな両目を向ける。

「ああ、そうだな――俺は、犯人じゃない。伯父さんを殺したりなんかしていない」

「そうだ。もう少しの辛抱だ。俺らがきっとお前をここから出してやるから」

「ああ。恩に着るよ、本庄」

 力ない声を漏らし、頭を垂れる。よほど刑事に絞られたのか、あるいは彼自身の気概が限界に達する寸前なのか。いずれにせよ、悠長に構えている暇などない。宇多大和とのほんの数分間の面会を終えた私は、黒コートに両手を突っ込んだ吾妻とともに署内の小会議室へと向かった。

 大和の事件を指揮しているのは、形の良い禿頭と長身が目立つ大和田おおわだ警部という男だった。大和に頼まれ事件の調査をしているという我々を、大和田警部は邪険にするでもなく丁寧な応対で出迎えてくれた。

「それで、今日は事件の凶器となった招き猫の置物を見たいということでしたね」

「ええ。大和の息子である真幸くんによると、現場の書斎でその招き猫が踊っているのを見た、ということですが」

「確かに、そのような証言も得られていますね――こちらがその踊る招き猫です」

 テーブルを挟んでパイプ椅子に腰掛けた私と吾妻の前に、ビニール袋に包まれた招き猫の置物が登場する。招き猫は、全身が白く耳の内側が赤い、首輪も赤で左手を挙げているという至って平凡な姿をしていた。右手には小判を抱えているが、小判の表面には文字が刻まれていない。

「この小判の中に、自分がほしいものや叶えたい夢などを書くことができるんだそうです。被害者は知ってか知らずか、何も書き残さないままだったようです」

「左手を挙げているということは、これは客寄せの招き猫か」

 右手を挙げている場合は、確か金運を招くという伝えだったはずである。

「この招き猫を購入したのは宇多大和で、彼は特に考えもせずこれを選んだといっています。知っていたら右手の挙がったものを買ったのに、とも」

「あいつらしいな」

「真幸少年の話を最初に聞いたとき、我々はこの置物が地面に落下し作動したところを『踊っていた』と見たのではないかと考えていました」

「作動?」吾妻が初めてバリトンボイスを響かせる。

「ええ。この置物はよくよく見ると目覚ましの機能が付いていましてね。時間になると置物全体が震えだしてけたたましい音を響かせるんです。よほどの鈍感でない限り、一発で目が冴え渡ることでしょう」

 初耳である。見た目に似合わず柔らかな声で、大和田警部は説明してくれた。

「宇多大和によると、被害者はこの置物を目覚まし時計として使用していることもあったのだそうです。仕事合間に仮眠を取る際、これを目覚ましに使っていたと」

 大和田警部は招き猫を袋から取り出して、小判の部分に手をかける。かちり、という音がしたかと思うと、どうやら小判が蓋になっているようで内部にはアナログ時計の文字盤が埋め込まれていた。

「うわ、こんな仕組みになっていたんですね」

 よくできているものだ、と感心していると、招き猫の底部分を弄っていた警部の手の中で突如、甲高い狂ったようなベルの音が鳴り出した。机上に置いた猫の置物は、歪な振動音を立てながら前進を始める。思わず両耳に指を突っ込むが、大和田警部はすっかり慣れた様子で動く招き猫を見下ろしていた。

「この置物の仕組みから、我々はひとつの仮説を立てているところなんです」

「仮説?」警部が目覚まし音を止めた。陶器製の猫はそ知らぬ顔でテーブルに鎮座している。

「たとえばです。犯人は現場の書斎で被害者と何らかの理由により口論となった。ふとした拍子に被害者を突き飛ばし、運悪く棚の脚部分に後頭部が直撃。被害者はその一撃で死亡したか、あるいは微かに息があったのかもしれない。いずれにせよ、地面に横たわり動かなくなった被害者に恐怖を覚えた犯人は慌てて現場から逃走する。そして、セットされていた目覚まし機能付きの招き猫が起動して、棚の上を横断。さらに不幸なことに、陶器製のそれが倒れている被害者の頭に落下した」

「つまり、二つの傷のうち招き猫と傷跡が一致した方は偶然の不幸によって残されたものだったと」

「その可能性も、なきにしもあらずということですね」

「なるほど。真幸くんが目撃したのは、落下した後も動き続けていたこの招き猫だったというわけですか」

 静止した招き猫と向かい合っていた吾妻が、ちょいと片手を挙げる。

「刑事さん。ちょいといいですか」

「はい、何でしょうか」

「刑事さんの推理が正しいとすると、この目覚まし機能付きの置物は、犯人が部屋を去った後の三時に作動して、棚上を移動。棚から落下して、運悪く地面に横たわっていた被害者の後頭部に直撃した。そういうことになるのですよね」

「ええ」

「ということは、この目覚ましのアラームはオンの状態になっていたということになります」

「そうなるでしょうね」

「この時計には午前、午後を識別する機能はないので、もともと時間がセットされていたとしたら夜中の三時と昼の三時ということになります。事件当時の昼三時といえば、宇多大和や雪枝さんたちが訪れている時間ですよね。書斎で仕事の予定を入れていたという可能性は考えにくい。にもかかわらず、何故目覚ましをオンのままにしておいたのでしょうか」

「うむ、確かにそれは妙ですね」警部は低く唸りながら腕を組む。

「それに、もし真幸少年が目覚し機能の作動した招き猫を見たのだとしたら、このような音が書斎で鳴っていたということになります」

 吾妻が手を伸ばすと、招き猫型の置物は再び耳障りな音とともにガタガタと机上で震え始めた。これでは鶏の一声で目覚める方がよほどマシだな、と思考していたところで、私はある違和感に辿り着く。

「そうか。こんな音が半開きの部屋から洩れていたら、さすがに階下にいた大和にも聞こえて異常に気が付くかもしれないな」

「それに、真幸少年は踊る招き猫を見た際、『音が煩かった』ということについて何も言及していなかった。つまり、彼が目撃した踊る招き猫は目覚まし時計としての招き猫ではなかったという可能性が高い」

 いかがでしょうか、と招き猫のアラームを切った吾妻が大和田警部を見据える。警部はつるりとした後頭部を擦りながら難しい顔をしていた。

「でもさ、吾妻。だとすると、真幸くんが見た踊る招き猫というのは結局何だったんだ? 彼の見間違いか」

「分からんな。子どもの戯言とも、事件の重要な証言ともまだ判断がつかない――ところで、大和田警部」

「はい、今度は何でしょうか」組み立てていた仮説をあっさりと論破され、警部はやや不満そうに聞き返す。

「宇多雪枝が買出しに出かけたというスーパーについてなのですが」

「ええ、それが何か」

「あの洋館から山の麓にあるスーパーまで、車を使った場合のおよその所要時間はどれくらいのものなのでしょうか」

「三十分弱というところでしょうな。彼女に訊いたところ、スーパーに到着した具体的な時間までは覚えていないということだったので、これは我々が実際に走行して計った結果です」

「ちなみに、スーパーの監視カメラは」

「もちろん調べました。事件当日の午後三時十五分、宇多雪枝の姿をスーパーの入り口に設置されていたカメラが捉えています」

「そうですか」

「刑事さん。大和や雪枝さんに、宇多康介を殺害する動機はあるのでしょうか」私は先刻から気にかかっていたことを尋ねてみる。大和田警部は額に手を当てしばらく無言を貫いていたが、やがて「今回は特別ですよ。無論、他言無用でお願いします」と厳しく釘を刺した上で証言してくれた。

「分かりやすくいえば、遺産がらみの動機と考えると二人を怪しむには充分です。宇田康介が死亡した場合、遺産は宇多大和に相続されるようになっていました。宇多大和が単独で事件を起こすことも、また宇多雪枝と共謀して計画を実行したとも考えられます」

「遺産、か。三人の関係については」

「宇多大和は過去の傷害事件のこともあるからか、被害者には頭が上がらなかったようですね。ただし、周囲の聞き込みによると二人の仲は至って良好だったということです。また、宇多大和、雪枝の夫婦仲も円満だったと、二人を知る者から証言が得られています。宇多雪枝と被害者にいたっては、特にこれといった情報は今のところ掴んでいません」

「ううん。個人的な恨みがなかったとすると、やっぱり遺産目当ての殺人計画か」

 雲行きは一層怪しくなるばかりだ。化学メーカー社の社長であった宇田康介の遺産を手にできる最も近しい人間、それは宇多夫妻に他ならないのである。

「いずれにしても、宇多大和はまだしばらくこちらで大人しくしてもらうしかありませんね。宇多雪枝についても、秘密裏に交友関係を洗っているところです――すみません、これから捜査会議が始まります」

 大和田警部はちらりと腕時計を盗み見ると、「いいですか。今までの情報は決して口外なさらないように」と最後まで口すっぱく駄目を押してから会議室を出ていった。グレーの背広姿を見送った私は、今なお招き猫と対面している吾妻に向き直る。

「どうだろうか。警察は大和と雪枝さんを容疑者筆頭に挙げているみたいだが」

「仕方がないさ。あんな辺鄙な立地の屋敷に強盗がわざわざ押し入ったという可能性は考えにくい。大和田警部のあの様子じゃ、強盗に関する目撃証言はおよそ皆無なんだろう」

「ああ。このままじゃ本当に大和が犯人にされかねない。だからといって、雪枝さんが宇多氏を殺害したとも考えたくないしな」

 文字通り頭を抱えた。しがない記者ごときの私に事件解決の妙案など浮かぶはずもなく、だからといって大和と交わした言葉が空約束に終わるという展開は避けたいところである。

 我らが頼みの星である推理作家は、険しい面持ちで幸運を招くという猫の置物と対峙し続けていた。



       ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



幕間 吾妻鑑の考察


 警察署を後にしアウディの車に乗り込む前、吾妻は私にちょいちょいと手招きをした。

「ひとつ、調べてほしいことがあるんだが」

「何だ、藪から棒に」

 推理作家は、懐から一枚の紙切れを差し出した。走り書きされていたのは、ある人物の名前である。

「調べてほしいって、こいつのことか」

「あるいは、彼が事件の片棒を担いでいる可能性もある」

「えっ」

「お前の得意分野だろう。俺は生憎と締め切りをひとつ抱えているんだ。それじゃ、よろしく頼むよ」

「あ、おい。よろしくってこいつの何を」

 言い終わらぬうちに、吾妻はシルバーの車に滑り込みすぐにその姿は見えなくなってしまった。手元に残った紙片を見下ろし、私は頭を掻く。

 それから三日間、溜まっていた有給休暇を消化し私が「彼」についての調査にかかりきりであったことは記すまでもないだろう。ひとえに、旧友を殺人犯にしたくないという単純な正義感ゆえであった。あるいは、探偵ホームズから信頼を寄せられたワトスンとして、その期待を裏切りたくなかったからなのかもしれない。

 何はともあれ、宇多康介殺害事件の発生から十日、くしくも私が吾妻鑑と十八年ぶりの再会を果たした日から一週間が経過した火曜日の午後。件の喫茶店内にて、私は探偵ホームズにおよその調査結果を報告していた。

「やはり、睨んだ通りか」

 机上に並べられた書類を前に、吾妻は満足げに小さく鼻を鳴らす。だが、私にはどうにも腑に落ちない点があった。

「なあ、どうしてこいつを怪しいと思ったんだよ。確かに雪枝さんと繋がりはあったが、まさか刑事の勘ならぬ探偵の勘とか言い出すんじゃないだろうな」

「そのまさかだとしたら?」

「むむ――まあ、解決できたらそれに越したことはないんだけどさ」

「ま、大した推理ともいえないが、根拠を挙げるとしたら三つだ」

 にやり、と悪戯小僧のような笑みを口の端に見せる。私が初めて出会う彼の表情であった。

「まず最初に、宇田雪枝の買出しについて」

「買出し? あれのどこに怪しむ要素がある?」

「大和田警部に確認したところ、事件当時宇田康介宅の冷蔵庫には既に夕飯の支度が整えていたらしい」

「え」

「つまり、宇多雪枝はわざわざ山の麓に降りてまで食料を調達する必要はなかったわけだ。にもかかわらず、彼女は買出しに出かけた。そして二つ目」

 人気のない「シャーロック」の店内にバリトンボイスを響かせながら、吾妻は突き出した右手でピースサインをつくる。

「これは宇多大和に問い質したことで判明したんだが」

「え、お前大和に会いに行ったのか」

「俺一人じゃなかなか面会に通してもらえなかった。大和田警部が出払っていなくて助かったよ」苦笑交じりに、口に咥えた煙草の煙をくゆらせる。

「宇多大和によると、彼女の携帯電話に何度か非通知設定の電話がかかってきたことがあったらしい」

「非通知の、電話」

「宇多は、細君の浮気を気に病んでいたようだ」

「雪枝さんが、浮気だって!」思わず腰を浮かせる。吾妻は「お前が慌ててどうする」と平静そのものだ。

「そして、最後の鍵を握っているのは真幸少年だ」

「真幸くんが?」

「やはり、彼が目撃したのは『踊る招き猫』だったのさ」

「踊る招き猫――」

 宇多真幸の微笑ましい動きが脳裏に甦る。あれが事件の真相究明にどう役立つというのだろうか。

「ま、これで一通りの材料は揃った。後は、犯人の自白を取るのみだな」

「犯人の自白って」

「宇多大和の無実を晴らす。そして、真犯人を白日の下に引きずり出すのさ」

 煙草を灰皿に押し込み、吾妻は立ち上がる。ロングコートを翻し「シャーロック」のドアを押し開けながら、

「もちろん、同行してくれるだろ。ワトスン博士」

 実に愉快そうな口ぶりで、そう告げた。



       ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



真相 踊る招き猫



 窓外に広がる夕空と森林風景を背にした宇多雪枝は、絵画の中に描かれたように幻想的だった。開け放たれた窓から吹き込む冷気が、モスグリーンのカーテンをふわりと揺らす。

「そう――それが、警察方が出された結論ということなのですね」

 雪枝の声は平坦で、温度がない。艶やかな黒髪に覆われた細面は、能面のように一切の感情表現を拒んでいるようだった。

「最も賢い選択肢は、あなたが今、ここで全てを洗いざらい話してしまうことです。言い逃れをするほど、あなたの立場は苦しくなる一方ですよ」

 対して、推理作家・吾妻鑑のよく通る低音が朗々と書斎に轟く。彼の背後には、ワトスン役を一任された私こと本庄保と、署から駆けつけた大和田警部が待機状態にあった。

「全てを話す? 私には何も話すことなどありません」

「そうですか。それはおかしいな。我々はまだあなたの口から直接聞いていない事実をいくつか掌握しているのですがね」

「ふうん。それはどのような事実なのかしら」雪枝は冷たく微笑んだ。殺人犯と名指しされてなお、動揺の色ひとつ見て取れない。

「たとえば、あなたと工藤蒼くどうあおいとの関係などいかがでしょう」

「工藤? 存じ上げない名前ですね。誰ですか」

「嘘はよくありませんね。あなたはよく知っているはずだ。夫である宇多大和を、かつて罠に嵌めた人物といえば分かりやすいですか」

「夫を、罠に? 一体何のことですか」

「宇多大和が高校時代に起こした傷害事件は、ご存知ですよね。その事件で、あなたの夫は仲間に裏切られやってもいない暴力の罪を被せられたと証言しています。結局宇多大和が事件の首謀者ということで、彼は高校を退学するはめになってしまった。これらのことは、後ろの彼に聞くと詳しいことを教えてくれますよ」

 吾妻は後方の私を手で示す。有給消化期間に当てた三日間で、改めて当時の事件について洗い直してみたのである。もはや似非記者とは言わせまい。

「工藤蒼は、高校を卒業後国内でも指折りの国立大学に進学しました。そして、全国でも名の知れたとあるメーカー企業に就職する。あなたは、そんな折に工藤と偶然出逢ったのではないですか。あるいは、あちらがそのように仕向けていたのかもしれません。工藤は気を揉んでいたのですよ。あなたの夫が、自分の唯一の汚点である高校時代の不祥事を、いつ世間に暴露しまいかとね」

「夫の高校時のことは、確かに話してもらったことがあります。ですが、工藤なんて名前は聞いたことがありません。そんな人と、私が何の関わりを持っているというんです」

「あなたの夫は、あなたの携帯に定期的に非通知の電話がかかってくることを知っていました。また、ここ二、三年ほど、あなたの外出が増えたことについても言及していましたよ。彼は、あなたが外部の人間と不倫関係にあるのではないかという疑念を抱いていたのです」

「不倫? 私がですか。まさか、その不倫相手が先ほどおっしゃった工藤という人だと?」

「おや、そうなのですか。工藤蒼と聞けば、すぐには性別が判断し難い名前だと思われますがね。工藤が男であるこという根拠がおありで?」

 雪枝の表情が、初めて険しさを顕わにした。唇を固く結び、突き刺すような視線を吾妻に送っている。

「あなたは運転免許を所持してはいるが、自身の車は所有していませんね。宇多大和によると、宇多家にあるのは彼が購入したボックス型の普通車が一台のみだそうで。あなたは近場の買い物などは自転車で済ませるし、たまの外出も電車を利用することが多いと伺いました。ですが、この数年は夫の車を乗り回す機会が増えてきたと、これも宇多大和が話してくれました」

「そう、ですか。それが、私が不倫をしている証拠だとおっしゃるつもりですか」

「決定的な証拠にはならずとも、疑うには充分の根拠です。不貞の関係が明るみになることを恐れていたあなたは、外出先の店などで工藤と遭うことは避けていた。さしずめ、車内で密かに愛を語らうことが多かったのでは?」

「ふふ。ドラマの観すぎではなくて? それとも、小説の読みすぎかしら」

「生憎、そういう職業なんでね――まあ、先を続けましょうか。工藤と並々ならぬ関係にあったあなたは、いつの日にか彼と悪魔の囁きを交わすようになった。さしずめ、夫の伯父である男が相当の遺産を溜め込んでいるらしいとか、そういった内容だったのでは」

 窓から吹き荒ぶ風は、すっかり冬の色だ。陽は山並みに沈みかけ、雪枝に落ちる影は一層濃さを増す。

「絶対的な将来を約束されていながら、工藤は貪欲な人間だったようですね。自分の過去を知る邪魔者を抹殺すると同時に一儲けする。あなたもまた、夫よりも先の明るい工藤に心を傾けるようになった。二人の間で、宇多康介を殺害しその罪を息子である宇多大和に被せるという悪事が謀られるまでにさした時間は必要なかったのでしょう」

「全て憶測だわ」

「そうでしょうか」

 ぴしゃりと言い切った雪枝に、だが推理作家は怯むことなく素早く切り返す。

「工藤の所在はとうに割れています。警察の尋問に耐えられるのも時間の問題でしょうし、あなたが工藤との逢瀬に選んだボックス車から、工藤に繋がるちょっとした痕跡くらいは発見できるのではないかと思いますがね」

「だとしても、それだけで私を犯人扱いするには横暴なのでは?」

「他にも根拠ならあります。たとえばあなたは、宇多康介が殺害された当日、山の麓にあるスーパーに買出しに出かけていますね」

「ええ」

「確かに、スーパーの監視カメラにはあなたの姿が写っていました」

「当たり前です。私はそのスーパーに立ち寄ったのだから」

「時刻は、午後三時十五分でした」

「それが何か」

「厳密に追求するならば、少しばかりですがあなたにも犯行の可能性が浮かび上がってくるのです」

 見間違いだろうか。雪枝の視線が僅かに揺らいだようだったが、なお強気の口調で「どういうことですか」と反発する。

「この屋敷からスーパーまでは、片道が正味三十分ほど。渋滞が発生する道でもないので、早ければ二十分ほどでスーパーに辿り着くことができます。あなたは当時、午後二時三十分に屋敷を出たと証言しましたね。とするならば、少なくとも三時までにはスーパーに到着している計算になるはずです。ですが、あなたは予定よりも十五分ほど遅れた時間にスーパーのカメラに写っていた」

「そんなこと――そんなことが、私が犯人だという根拠になるのですか? 車内でちょっと携帯を操作していただけです。それに、当時はちょっと疲れていて運転もゆっくりとした速度になっていました。どこにもおかしなところなどありません」

「おかしいというならば、そもそもあなたがわざわざ山を降りてまで買出しに出かけたことを指摘すべきでしょうね」

「どういうことです」

「事件当時、屋敷の冷蔵庫には充分な食料が揃えられていたそうです。夕飯を作るつもりであったならば、冷蔵庫の中身くらい確認するでしょう。しかも、あなたが買出しに行くと言い出したのは出かける直前だったそうですね。随分急だったと、宇多大和からの証言が挙がっています」

「何が、おっしゃりたいのですか」

「単刀直入にいえば、書斎で宇多康介を殺害してしまい一刻も早く現場から立ち去るため咄嗟に出た行動だった、というべきでしょうか」

「伯父さまが亡くなったのは、午後三時頃だと伺っていますが」

「三十分前後ならば誤差の範囲です。宇多大和によると、二時以降はあなたも宇多康介氏もリビングから姿を消してその所在ははっきりしなかったということでした。康介氏があなたに『庭先の花が枯れかけていたから世話をしてこい』とおっしゃっていたという話も得ていますが、その姿を宇多大和は目撃していない。二時から三十分の間、あなたと康介氏は書斎にいたのではないですか。そこで何らかのトラブルが発生し、あなたは康介氏を殺害した。

 尤も、最初は事実アクシデントだったのかもしれません。揉み合った拍子に康介氏を押し倒してしまい、彼は後頭部を棚の脚部分に強打。あなたは一度は焦ったものの、兼ねてより企てていた殺人計画を思いもがけず実行すべき時がきたと考えた。それで、招き猫の置物で彼の頭部を殴り、部屋を荒らして強盗殺人の犯行現場に見せかけた。招き猫の置物は長らくこの書斎にあったものだったため、宇多大和やあなたの指紋が付着していても警察が疑問を抱くことはないと踏んだのでしょう――しかし、ここであなたは致命的なミスを犯してしまう」

 ぴくり、と雪枝の肩が上がった。陽はすっかり落ち、書斎に薄暗い帳が下りる。

「一人息子の真幸少年が、この書斎に姿を見せたことです。あろうもことか、自分の息子に殺人の決定的瞬間を目撃されたしまった。書斎のドアはちょっとやそっとの力では開閉が難しいため、あなたは書斎に入るときは常にドアを半開きの状態にしていた。犯行当時も例外ではなかったのでしょうね。階下で過ごしていた真幸少年が、よもや気まぐれで二階を訪ねてくるとは想定していなかった。そして、彼は目にすることとなった。あなたが凶器を振り上げて、まさに人一人の命を奪おうとしているその瞬間を」

 がさり、という乾いた音がする。大和田警部から吾妻の手に、袋に入った招き猫の置物が渡ったのだ。照明のない空間の中、ぼんやりとした発光体が気味悪く浮かび上がったとき、私は思わず「あっ」と声を上げた。

 猫の置物が、緑色の妖しい光を放っていた。吾妻が腕を振ると、左右に揺れる奇妙な動きを始める。暗闇の中、邪な魂を誘うかのような踊りを続ける猫に招かれたのは、女の押し殺した嗚咽の声だった。



「吾妻」

「何だ」

「あの招き猫が暗闇の中で光るものだと、何故分かったんだい」

 三日月の浮かぶ洋館を背景に、推理作家は煙草の煙を細く吐き出す。

「真幸少年は、暗がりの書斎で踊る招き猫を見たと証言したのにも関わらず、人影は見ていないと言った。おかしいだろう。人の姿が見えなかったのなら、人よりずっと小さい招き猫の置物が見えたはずもない。ただし、その招き猫が闇の中で発光していたとしたら話は別だ」

「それだけか」

「人が人を怪しむきっかけなんざ、そんなものだろ」

「それもそうだが――何だか、後味が悪いなあ」

 ゆらりと立ち上る紫煙を眺めながら、私は車のボディに寄りかかる。

「雪枝さんがあのドアさえ閉じていれば、真幸くんが現場を目撃することはなかった。事件も解決しなかったかもしれない」

「いくら子どもでも、立派な証人だ。それに、彼女も実の息子に『本当は人を殺したけど殺していないことにして』とは口止めできなかったんだろうさ。ある意味で、彼が真相解明の救世主だったのかもしれないな」

「不幸中の幸い。真幸くんが、真実をもたらした招き猫だったってことか」

「上手いことをいうな」

 褒められてもちっとも嬉しくない。嬉しくないといえば、ようやく友の無罪が証明されたのに、このセンチメンタルな感情はどうしたのだろうか。

「本庄、もしかして宇多雪枝に惚れていたのか」

「な――ま、まさか。どうして俺が同級生の細君に惚れなければならないんだ」

「分かりやすい奴だな。宇多雪枝が康介氏に脅されて関係を持っていたことが、そんなにショックだったか」

 図星を突かれる。もはや言い逃れはできまいと、私は潔く「ああ、それはもうショックだったさ。悪いか」と白状することにした。

「そういうお前だって、いい歳なんだからちょっとは女っ気見せろ。人が死ぬ話ばかり書いていたんじゃ、生身の女は寄ってこないぞ」

「スクープばかり追い掛け回しているお前に言われたくはない」

 これでは団栗の背比べである。負け犬の遠吠えともいうのだろうか。

「ああ。でもなあ、これであいつも独り身になる訳か」

「人の不幸は蜜の味、ってか」

「馬鹿を言え。俺は大和に幸せな人生を歩んでほしいと思っている。この一週間、憔悴の一途を辿るあいつを見るのは心苦しかったよ。一人家族が減りはしたが、これからは真幸くんをちゃんと育てていってほしい。一人の父親として、一人の人間として、立派にな」

 はたと我に返り、説教めいたことを口走ったかと気恥ずかしくなる。だが、吾妻は無言で夜空を見上げているだけだった。灰煙が、月明かりの中を幻想的に彷徨っている。

「なあ、吾妻」

「ん」

「煙草、ひとつくれないか」

 言葉もなく、拉げた箱とライターが飛んできた。久しく味わっていない苦味が、今は妙にノスタルジーな気分に浸らせてくれる。十八年前に同じ学び舎を共にした者と煙草を吹かせるなど、想像もしていなかったことだ。

 どこかで、猫の鳴き声がする。軽やかな鈴の音が、初冬の夜を駆けていった。

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