一冊目『物語の冒頭』
「おつかれさまでーす!」
社内にいくつかの声が響き、私はそれを背にして会社を出る。
「いやー、今日も田辺さんにこき使われまくりでしたねぇ。余裕無い時に限って仕事回してくるんですから…」
「昼時はあの人の近くにいない方がいいですよ。
一番忙しい時間帯ですからね」
ため息を付きながら私の横を歩くのは後輩の里見健太郎だ。独り趣味が多く、あまり他者と関わりを持たない男だが、人と関わる仕事には天性の才能を持っている変わった男だ。
「それにしてもまた本読んでますね。今度はどんな内容なんですか?」
私は本から目を逸らさずに答える。この本は今から百年前に書かれた小説で、『海の沈黙』というタイトルだ。
宗教家のミランがとある街で熱心に布教活動をしていたが、政府が宗教弾圧を始めミランの逃亡生活が始まる。
ミランは苦しい生活の中でも欠かさず海に向かいながら神に祈りを捧げていたが一向に返事が無いことに絶望していくという物語だ。
「うへー、なんか悲しいですね。それだけ苦しいなら捨ててしまえばいいと思うんですけどねぇ」
「彼らにとって宗教は心の柱だったのかもしれないね」
街はどんどん寒くなり、今現在街はクリスマス気分一色だ。道路脇に立つ木々にはライトアップのための装飾が取り付けられている。
もうすぐここに光の道ができるのだろう。
『えー、今情報が入ってきました。〇〇県✕✕市△△区の青柳公園で九時頃に死体が発見されました。黒いコートに黒いブーツ姿で恐らく『ブラックウルフ』のメンバーではないかということで、警察は慎重に捜査を進めているとのことです。
次のニュースです。
☆☆動物園のゴリラ、王君が5人のメスゴリラを侍らせているという事で他のオスゴリラが嫉妬しているという動画が有名━━━━』
テレビでは連日起こっている『異能力者集団』の事を取り上げて話している。
「最近異能力集団の事件が沢山起きてますよねぇ」
「最近でもありませんがね。昔はマフィアをコントロールできる人間がいましたが、今は誰もいない。そのせいで後処理のできないボンクラの犯罪が表に出てきただけです」
「…笹島さんって何者?」
「何者?ただの五十代後半のサラリーマンですよ」
私は呆れたようにため息を吐いてから本をカバンにしまって歩き出す。
周りには多くの人集りが出来ており、これでは電車に乗るのも一苦労だろう。
そんな事を思いながら歩いていると前方、人集りの隙間から見えた男に違和感を感じる。
(視線、全身を覆う黒コート、歩き方…。
殺し屋、ではありませんね。恐らく素人でしょう。対象に視線を向けすぎです。
そしてその対象は恐らく里見くんで間違いないでしょう。
まぁ、彼は整った顔立ちをしていて女性の視線を集めますからね。嫉妬する男性も多いでしょう)
私は人混みに紛れながら里見君の前を歩く。
「…笹島さん?」
そのまま歩き続け、その男とすれ違う瞬間、男は懐に仕込んだ短剣を引き抜き里見くんを刺し殺そうと腕を伸ばすが、それを弾いて男の腹を蹴り飛ばす。
「え?!笹島さん?!」
一瞬の事でよく分からなかったのだろう。里見くんは驚いた顔で私を見るが、男の取り落とした短剣を見て青ざめる。
「ふぅ、危なかッ……!」
私がそう言った瞬間、背後から勢いよく押されてよろめいてしまう。慌てて踏ん張ろうとするが力が入らず仰向けに倒れる。
「あぁ、なるほど。しくじりましたか」
私は背中には刺さる短剣の存在を感じ取りながら、この男は陽動だったのだと気付かされる。
「目的は里見くんではなく、……私、でしたか」
「さ、笹島さん!!!」
(耄碌しましたね。この男が陽動だとも気づかず、背後から忍び寄る殺気にも気づかないとは……)
「〝も、元マフィアが、聞いて呆れます…〟」
「笹島さん!今救急車を呼びます!
大丈夫です!助かりますから!!」
里見くんは涙目でスマホを取り出すが私は片手でそれを止める。
「短剣は心臓まで深く刺さっています。出血も酷い。恐らく短剣にも毒が塗られているはずです。
それに今は人通りが多い時間帯で車も非常に多く、混んでいる。間に合う事はありません」
「な、何言ってるんですか!!
絶対間に合いますよ!!それに笹島さん全然痛そうにしてないじゃないですか!!
大丈夫ですよ!!!」
「……元マフィアのボスですよ?痛みには慣れています」
「こ、こんな時に冗談言わないでくださいよ」
里見くんの目から涙が溢れだし、私の頬に落ちる。
ゆっくりと意識が薄れて、まるで落ちていくかのように体が全体の筋肉が停止へと向かっていくのを感じる。
「…ようやく、眠れる」
あの日あの時あの場所で、私は死んでいる。後は蛇足だ。それがようやく終わるのだ。
(結局、私の求めていたものは見つかりませんでした。
けれど、私はそれでも構わないと思っています。長い長い蛇足でしたが、……楽しかった。
願わくば、今度の人生は最高の善人になりますように)
私は全てを放棄して、死へと続く流れに身を任せる。