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緑の下月の中頃、私とコールス様はアルケスの羽を去ることになった。
仕事仲間とは前日に別れの言葉を交わしていたし大層な見送りなどはなかったが、リトとマリーだけは窓から顔を出して、小さく手を振ってくれた。女将と何かを話すコールス様を横目に執事のチャドと共に手分けして馬車に荷物を積み込むと、別れを惜しむ間もなく馬車は動き出した。
徒歩でもそう離れていないコールス様の屋敷には、馬車ではあっという間に到着する。コールス様のお世話はロバートさんをはじめとした執事やメイドに託され、私はエリスという名の女性の前に立たされていた。エリスは鶯色の髪を持つ、歳の頃ならば私よりも少し下だろうか、何ともまあお貴族様らしい気品を持つお方だ。どうも彼女はどこぞの爵位持ちの家の出らしく、言葉尻に高慢さがにじみ出ている。人を早々嫌いになるタイプの人間ではないと思っていた私だが、彼女の第一声で先輩に対する敬いだとか、そんなものをすべてぶり投げてしまいたくなるような出会いをした。
「はじめまして、本日からお世話になり――
「目上の人間から声をかけられるまで口を開いていないという常識すら知らないのかしら」
「え、あの」
「まったく、ジェイデン様はどうしてこんなしつけのなっていない娘をお連れしたのでしょう」
「……えーっと」
「わたくしはエリス、ここのメイドを務めています。名前は?」
「理依子と、申します」
「よろしい。リーコ、今までどんな穴倉にいたのか知りませんが、ここは由緒あるコールス家の屋敷です。お前のような卑しい身で仕えられること、光栄に存じなさい」
「ありがとう、ございます……?」
「語尾を上げてはいけません、ただでさえ間抜けな顔が、更に間抜けになっているわ」
「……申し訳ありません」
「お辞儀すら満足にできないのね。お前、今までどんなみすぼらしい生活をしてきたのかしら」
エリスは私のやることなすこと、口うるさくののしってきた。歩き方に始まり果ては息の仕方にすら注文をつけてしまいそうな始末だ。確かに貴族の部屋付きになるようなミザリーたちと比べると私の礼儀というものは未熟かもしれないが、もっとこう、言い方というものがあると思う。エリスはお上品な言葉で私を罵るだけ罵ると満足したのか、教育係を別のメイドへと押し付けて立ち去ってしまった。一応先輩ではあるが、心の中で彼女を呼び捨てにするのは私の小さな反抗心からだ。
私の教育を押し付けられたシンシアは、困ったようにほほ笑んだ。彼女とはコールス様とこの屋敷を訪れた際に何度か顔を合わせている。薄い茶色の髪を持った、おっとりとした少女だ。おろせばふわふわと風になびく髪も、仕事中はひとつにまとめてシニヨンにカバーをかぶせた形のホワイトブリムで隠してある。
「ごめんねぇ、エリス様気むずかしくて」
「いえ、シンシアさんがあやまることではありません」
「つい最近来た子なんだけど実家がメイド長よりも爵位が高くて、誰も注意できないんだよね……」
「お嬢様なんですよね?」
「うんうん、わたしたち平民からしてみればすっごいお嬢様なんだろうねーよく知らないけど」
シンシアから話を聞きながら、使用人用の部屋へと案内してもらう。道中、彼女が年下だとわかりお互い敬語や敬称を外す約束をした。シンシアは、だって一緒に働く仲間なんだし、とのほほんとした顔で笑っていたが、先ほどのエリスは様付けなあたり面倒そうな人間関係が構築されていることが予測できる。
案内された私の部屋は、5畳ほどの広さだった。この屋敷の部屋に比べると少し手狭だが、メイドに与えられる部屋にしては破格の広さだ。しかも一人部屋である。シンプルなベッドに、サイドテーブル。クローゼットだけが置かれた部屋は無機質でがらんとして見えたが、これから徐々に私物が増えていくのだろう。
「クローゼットの中に制服が入ってるから、サイズを確認してみてね」
「うん、ありがとう」
「全部で3着あるはずだけど、足りなかったら多分まだ作ってもらえるから。着方わかるかな?」
「なんとなくはね」
「じゃあ着替えたら、食堂に来てねぇ」
「厨房?」
「今は厨房の人数が足りてないし、メイドはいっぱいいるのにおもてなしするのが旦那様おひとりだから、お手伝いしてるの。そこでほかの子の紹介もするからー」
「わかった。案内ありがとうシンシア」
「いえいえーようこそコールス家へー」
ひらひらと手を振りながら部屋を出るシンシアを見送って、クローゼットにかけてある制服――メイド服を手に取る。私がこの世界で触れたことのないくらい上質な生地で作られたそれは、あらかじめ採寸してあった私の体にぴったりとフィットした。ワンピースのボタンを閉めて、エプロンをかけて、そして髪をまとめてホワイトブリムをかぶる。
窓に映る自分の姿を見て何だかコスプレみたいだと少し恥ずかしくなってしまうが、背中を丸めていたらエリスにまた何を言われるかわからない。おかしなところがないかを確認すると、背筋を伸ばして食堂へとむかった。
食堂には数人のメイドと、コックがいた。銀食器を磨いていたシンシアに一通り紹介されたが、エリスのように噛みついてくる人間はいなかったのでほっと息を吐く。
「リーコはお料理はできるかな?」
「下ごしらえ程度なら、宿でやってたけど」
「そうなの、よかった! キッチンメイドがいなかったのよ! わたしたち誰も包丁を使えないの。ハンスさんを手伝ってあげて」
□
屋敷で働くうちに、いつの間にか私はキッチンメイドとハウスメイド両方の役職をこなすトゥイーニーと呼ばれる職についていた。二十数人分の料理の仕込みをして、空き時間には部屋の掃除などを行う。あまり宿屋の下働きと変わりない生活だ。
少しだけ変わったことは、コールス様と旦那様と呼ぶようになったことだろうか。シンシアから「ここはコールス家の屋敷なんだからこれから先コールス様がいっぱい増えるにきまってるじゃない!」と言われ、慣れ親しんだ呼び名とさよならした。私が旦那様の前に出ることはあまりないので、この僅かばかりしっくりこない呼び名はまだメイド同士のおしゃべりにしか使用されていない。
エリスは初日以来突っかかってくることはない。なんでも彼女は、旦那様にべったり張り付いているらしい。メイドたちの噂話曰く、ジェイデン様を狙っているから彼が連れてきた私につらく当たったらしい。私の礼儀作法はそこまで酷いものではなく、エリスの言いがかりだったとは何とも気に食わない話である。
ちなみに彼女は目下刺繍の練習中らしい。貴族の出で魔力の強いらしいエリスが刺繍をしたところで、私がする以上のものはできないのではないだろうかと、少しだけ魔力のない自分が誇らしくなった。
「ねぇねぇリーコ、知ってる?」
本職はパーラーメイドであるはずのニコレッタが窓を磨きながら形のいい唇を開く。見目美しい者が選ばれる接客専門メイドなだけあって、いたずらっ子のような笑みですら美しい。
「お客様がいらっしゃるらしいの。やっと私の本来の仕事ができるわ」
「へぇ、よかったね」
「もう! つれないわね。もっと興味を持ってよ」
「えーっと……誰が来るの?」
「旦那様のご友人らしいわ。その方も、魔術師って噂よ」
「そもそも魔術師って自分の街を離れられないんじゃないの?」
「それは結界魔術師だけよ。王都には魔術を研究する部門があって、そこにお勤めの方らしいの」
「ふーん、何しにくるの?」
「…………さぁ?」
「まあ私には関係のないことだけど」
「でも私には関係あるわよ?」
「そういえばニコはパーラーメイドだった気がする。最近もしかしてハウスメイドなのではって気にはなってたけど」
「あらひどい。私だってお客様がいれば花形のパーラーメイドになれるのよ?」
「え、花形なの?」
そうでしょ、だって制服からして違うんだから。と、私よりもフリルの多いメイド服を着たニコレッタがその場でくるりと回る。確かにそこらへんのハウスメイドよりも、華やかな服装ではあった。それ以上に、ニコレッタ本人に華がある。
「ニコはきれいだからね」
「うふふ、知ってる」
ニコレッタが色気を携えた妖美な笑みでほほ笑む。確かに、メイドたちの噂話の中で主人のお手付きになるのはパーラーメイドばかりだ。間違っても、トゥイーニーではない。
二人でほほ笑み合いながら掃除を続けていると、パタパタと駆けるような軽い足音が聞こえてくる。人一倍礼儀に厳しいニコレッタが柳眉をひそめる。
「シンシア、廊下を走ってはだめよ。はしたないわ」
「ごめんなさぁい! あ、リーコちゃん!」
「はい、理依子です」
「旦那様が呼んでるよー!」
突如会話を遮ったシンシアの言葉に、私とニコレッタは互いの顔を見合わせた。




