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私の休日の間はミザリーがコールス様の部屋付きを務めたらしい。彼の紳士的な性格をミザリーが褒め称えていて、部屋付きを変わってほしいとまで言い出した。私としては別に構わないのだが、人事に対する私の権限はない。コールス様に聞いてみるね、とだけミザリーに言い残して待機部屋へと戻った。
コールス様の朝は早い。日の出から少し時間が経つと目を覚まし、身支度を整えて朝食を取る。本来ならば個室には井戸がないため部屋付きである私が水を用意する必要があるのだが、コールス様は生活に必要な水を魔術で生み出してしまうので井戸から重い桶を運ぶ必要はなかった。
午前中には何か小難しい本を読んだり、書き物をしたりしているので私は部屋の清掃を済ませる。あとはコールス様に頼まれたらお茶を入れる程度だ。
昼食を取った後はコールス様はまた本とにらみ合ったり、たまに私を使って布に魔術をかけたりして過ごす。
夕食後は身を清め、他愛ない会話をしながらのんびりとする。最近は酒を嗜むコールス様に便乗して、私の少しだけ飲むようになった。量は飲まないが、ほろ酔い気分で彼と色々話すのは楽しくもある。
たまに私を伴って外出することもあるが、基本的に部屋で過ごすローテーションは完成し始めていた。
なるほど、こうして見るとコールス様の部屋付きをミザリーが希望するのもわかる気がする。主人は顔が整っていて紳士的、更には使用人に自由に振る舞うことを許す度量がある。コールス様がこの街に家を借りる際は雇ってくれないかな、とまで考える程、彼の部屋付きは今までの仕事と比較して気楽で、楽しいものだった。
「そういえば、コールス様っていつまでこちらに滞在されるんですか?」
年代物のワインを飲みながらコールス様に尋ねる。
「やはり、この宿は永住には向かないか?」
「まあお値段的にはどうでしょう、街に家を買った方がお安いかもしれませんね。初期経費はかさむかと思いますが、長期的に見ればどうしても宿の方が高くはなるかと。屋敷の規模にもよりますが、住み込みの使用人を数人雇ったところで、うちの宿泊料よりも安いと思いますよ」
「金銭的には左程問題もないのだがな」
「それに食事の好みもありますでしょう。うちの食事も確かに自信をもって提供しているのですが、主人の好みを知り尽くした料理人にはどうしても勝てませんから」
「確かに、郷土の料理が恋しくなることはある」
「あとは、体裁の問題でしょうかね。うちでは客室がありませんし、コールス様のお客様を持て成すには手狭です。私は貴族社会については詳しくはないのですが、やはり自身の屋敷がないと色々と不便なのでは」
「両親は屋敷を持てとうるさいが、俺はこの宿を気に入っている」
「大変うれしく思います」
「まあ屋敷については考えていないこともない。だが、この宿を出れば、リーコはいないだろう?」
「……いません、けど」
「リーコがついてきてくれるのならやぶさかではないが。どうだ、リーコ。俺の元で働いてくれないか?」
酔いが一気に醒めた気がした。
□
考えがまとまらず、磨き上げた窓越しに空を見上げてぼうっとしてしまっていた。昨夜はコールス様には持ち帰って検討しますと、なんともまあ無難な回答をして退席したが、あれからずっと彼の言葉を反芻し、理解しようとしていた。
私は勧誘されているらしい。
この世界において、農家の子は農家を継ぐし、靴屋に弟子入りした子は靴屋になる。日本で当たり前に行われていた転職というものは、あまり行われることはない。たまにやむを得ぬ理由で冒険者になったり、類稀な才能を見出され貴族に奉公に出たりということもあるが、それはごく限られた一部の不運な、あるいは幸運な人間にだけ訪れる転機だった。
そんな転機が、今私に訪れている。
確かに私は、異世界に落ちてしまうという不運を体験した人間ではあるが、貴族に召し上げられるほどの幸運を持っているとは思えなかった。特出した才能もなく、宿屋の下働きというどちらかといえば搾取され、こき使われる側の人間だ。落ち人なので逃げ帰る家もなく、これからもこのままずっとここであくせく働くか、あるいはどこかの――それも私と釣り合いの取れるような、平凡な――男の元へ嫁ぐのかと漠然と考えていた。
ところが、この突然降って沸いた奉公話である。
コールス様の人柄を考えれば、おそらく宿で働くよりもずっと条件のいいものになるだろう。もしかすると、使用人が複数いる分この部屋付きの仕事よりも楽になるかもしれない。他の人間だったならば、はだしで飛びつく程の転職を眼前に突き付けられたのにもかかわらず、私は迷っていた。
どうしたものだろうか。
こういったことを相談する相手が、今の私にはいなかった。日本でなら両親に相談するだろう。進路の相談をしたとき、両親は真剣に私のことを考えてくれたし、この世界に落ちてこなければ家族で相談した進路に進んでいたはずだ。
マリーは確かに仲が良いが、この仕事を辞めるという話を彼女にはしづらかった。他の同室の皆だってそうだ。食事や住処を与えられているとはいえ、誰しもが自分の中の大小様々な不満と折り合いをつけて働いている。好条件で何のとりえもない私が引き抜かれるのは、面白くないだろう。
考え事をしていたら、控えめなノックの音で意識を引き戻される。昼食の時間だ。
給仕をすべく部屋と扉を開けると、そこにはめずらしい顔が立っていた。
「よお」
リトだ。リトは厨房のコック見習いのため、こういった給仕は彼の領分ではない。お昼時を過ぎているとはいえ、いまだ厨房は慌ただしい時間のはずだ。私が不思議そうな顔をしていると、彼は部屋の中を見渡して、外に出るよう手招きをする。
それに従い廊下へ出ると、リトは後ろ手に扉を閉めた。ぱたんと、小さな音が響く。
「どうしたの、給仕なんて」
「あー……ちょっとアンディに代わってもらった」
「へぇ、またなんで」
「き、昨日のことだけど」
何でもはっきりとものをいうリトにしてはめずらしく、言いよどむ。
昨日といえば何かあっただろうか。記憶をほじくり返してみると、リトとハリエットが二人で食事していることを思い出す。そういえば昨日は二人のデートに居合わせてしまったのだった。コールス様との会話が衝撃的ですっかりと忘れてしまっていた。
「ハリエットとは、何でもねぇ。勘違いするなよ」
「まあ、言いふらしたりはしないよ。こういうことってこじれると厄介だし」
「こういうことって……そもそもそういうことじゃねぇから!」
「わかったわかった。誰にも言いません」
「ああ、もう、お前わかってないだろ……」
「わかってるって」
絶対わかってないと唸るリトを放っておいて、食事の乗せられたカートを彼の手から奪う。そのまま部屋の扉を開こうとしたが、リトによって乱暴に閉じられる。
「……何?」
「いや、なんか……お前変じゃねぇか?」
「別に、普通だけど」
「いつもより張り合いがないっつーか……落ち込んでる?」
扉に寄りかかるようにして私を睨むリトは、記憶にある彼よりもずっと大人びて見えた。リトの濃紺の髪が照明を遮り、私の顔に影を落とす。リトの、こんな真剣な顔を見るのは初めてな気がした。
「落ち込んではないよ」
「じゃあなんか、悩んでるだろ」
「……別に」
「うそつくなよ」
「悩んでない。考えてるだけ」
「屁理屈」
「うるさい、ばか」
「あいつに何かされたのか?」
「あいつってコールス様のこと? まさか」
コールス様はリトなんかよりずっと紳士的だ。
「……あのさ、俺はリーコよりも年下だけど、ここじゃあお前よりずっと先輩なんだよ。だからもっと、頼れよ。俺じゃなくてもいい、マリーだってアンディだってリーコが悩んでたら相談にのってくれるはずだ。リーコはもっと、仲間に寄りかかれよ」
「め――」
「迷惑、だなんて思うなよ。俺たちにとっては、お前が一人で抱え込んでつぶれる方がずっと迷惑だ。なんで気づけなかった、頼ってくれなかったと自分とお前を責め続けなきゃならねぇ。わかるか、その辛さが」
「……チェルシーが辞めたとき、皆後悔してたね。自分たちが仕事を押し付けていたのかもしれないって」
「結婚とかなら俺たちだって大手を振って笑顔で見送れる。だけど傷ついて、黙って去られるのは我慢ならねぇ。リーコが辛いなら、俺……たちが支えてやる」
「私、も。リトが辛いなら支えてあげたいよ」
「そうだな、俺たちは仲間だ」
リトはいつもの少し悪ぶった笑みではなく、純粋な子供のような顔で笑い声をあげる。
日本では両親や友人たちに寄りかかっていた。だけどある日突然、その拠り所をなくした私はこの世界でひとりぼっちになったと思っていた。だけど――。
「ありがとう、リト。もうちょっと……私の中で考えたら、話を聞いてもらってもいい?」
「おう、もちろんだ。じっくり考えろ」
「うん」
「お前が考え抜いて出した結論なら、誰にも文句は言わせねぇよ」