ある少年の記憶
魔術師殺しの少年が嫌いな方にはあまりおすすめできない内容となっております。いつもの4倍くらい長いです。
嫌いだった。憎かった。俺から父さんと母さんを奪ったこの世界も、俺をおもちゃみたいに扱う人間も。
白い服を着た男が子供みたいに両手をあげてはしゃぐ。
――成功だ、成功だ! やはり人間は無限の可能性を持っている!
同じような服を着た男たちがそれに賛同するみたいに両手を叩く。狂ってる。こいつらは全員頭がおかしい。
俺の体をを変な力でぐちゃぐちゃにしたと思えば、また別の変な力でそれを元通りに直した。まるで小さなガキがおもちゃのロボットを壊して、組み立てて、また壊すみたいに。俺は何度も何度も何度も壊されて、また組み立て直されて、そしてまた壊された。
――次は何をして遊ぼう! 目か、耳か、臓器にしようか!
知るか、知るか、知るか。俺はお前らと遊びたくなんてない。痛くて、辛くて、寂しくて、痛くて。気が狂いそうになるこの遊びに、俺は参加なんてした覚えはない。お前たちが勝手に俺を連れてきて、体中ひっかきまわして、笑ってるだけだ。俺は全然楽しくなんてない。
じいちゃんばあちゃんから貰ったランドセル、父さんと一緒にキャッチボールの練習をしたやわらかい野球ボール、母さんと一緒に勉強した教科書、すみっこに友達が落書きしたノート、好きな子と中のバネだけ交換したボールペン。全部全部俺から奪っておきながら、こいつらの与えたものは痛みだけ。不公平すぎるだろう。どうして俺が、こんな目に遭わなければならない。
お前たちなんていらなくなった本みたいに、庭の真ん中で燃やしてやる。そうしたら父さんが苦い顔をしながら言うんだ。「火遊びする子はおねしょするぞ」って。俺は胸を張りながら「もう三年生なんだから、おねしょなんかしないよ」と返す。すると父さんは怒って、俺にげんこつをひとつ落とす。俺は泣きべそかきながらごめんなさいと言って、母さんの作ったハンバーグを食べるんだ。それで終わり。終わりだ。終われ。
引きつるような痛みをこらえながら床の上で眠る夜も、犬のゲロみたいなドロドロでまずい食事も、体の中からかき混ぜられるような実験も、全部嫌い、嫌いだ。
こいつらにバラバラにされて、変な風に組み立てられたせいなのか俺は、おかしなものが見えるようになった。人間に寄生する変な色の光。赤だったり青だったり黄色だったり、更にはそれが混ざっていたり。とにかく、白い服を着た男たちには必ずその変な光が寄生していて、手に、足に、体に。どこから湧き出るかしらないが、いつだって四六時中まとわりついていた。中には、寄生する光が多すぎて、もはや光る人型の化け物みたいな奴だっている。
幸い俺はあの変な光には寄生されていなかったけど、いつ俺の腕へのあの光がまとわりついてくるか、怖くて眠れない日だってあった。
紅い光の化け物が、俺に手を伸ばす。やめろ、触るな。俺は――。
「――――――っ!」
白いシーツを蹴って飛び起きると、そこは石造りの何もないがらんとした部屋だった。シンプルだけどちゃんと布団が敷かれているベッド、お日様のにおいがする清潔なシーツ、小さなテーブルの上には水差しが置かれている。何もないけど、あそこよりはかなりまともな部屋。
「……そうか、俺」
あの場所から、随分前に逃げ出したんだった。あの気持ち悪い光を利用して、すべてを焼き尽くして。そんなことすら、悪い夢の中では忘れていた。
あの男たちを殺しつくした後、俺は色々な町を放浪した。優しい言葉をかけて利用しようとする奴、善人ぶって手を差し伸べる奴。そんな奴らを全部内側から壊してやった。
俺が触れるとあの光は、俺のものになった。だから、今度は俺がこいつらで遊んでやる。殺して、奪って。俺にはおもちゃを組み立てる力はなかったので遊ぶのは皆一度きりだったが、あの気持ち悪い光の塊を使って仕返しするのは、胸がすかっとした。
命を奪うのは悪い事、テレビや道徳の授業で何度も聞いたけど、殺さなきゃいいってもんじゃないと思う。むしろあの場所にいた俺は、死んだ方が楽だったかもしれない。だから俺は、遊んだら皆楽にしてやるんだ。おもちゃをおもちゃ箱に片付けるのとおんなじだ。おもちゃはおもちゃ箱に、ごみはごみ箱に。母さんだってそう言ってた。
壁の上の方にある小さな窓から、太陽の光が差していた。外はまだ薄暗いみたいだけど、日がのぼるとあの女がやってくる。赤毛の、偉そうな、よくわからない力を持つ女。
いつの間にか見たいときにしか見えなくなっていたあの光も、あの女には見ようとしても見えなかった。だから多分、あいつも別の世界から来た女なのだろう。こんなところに連れてこられて、あんな奴らのために働くなんて、頭がおかしいとしか思えない。
もっと大きなおもちゃで遊ぼうと思って念入りに準備した計画も、いくつかはうまくいったけど途中でやめさせられた。せっかく協力してくれる奴らだってできたのに。俺があの白い膜を壊すだけで、わっと変な獣が寄ってくる。獣は強くて、俺を襲おうとすることもあったけど、俺はおもちゃ同士の戦争を眺めてる気分だった。
だけど、失敗した。おもちゃの反乱だ。圧倒的な力を持っていたはずなのに、足元を救われ、俺は檻の中に入れられた。
あの女さえいなければ、もっと遊べたはずなのに。あの白い光に包まれた金髪の男だって、俺なら上手に壊せたはずだ。あの女さえいなければ、あの、女さえ。
「おはよう。あら、まだベッドの中?」
食事を持った赤毛の女がやってくる。こいつはよくわからない力で俺を引っ張り上げて立たせて、指を一振りするだけでぐしゃぐしゃのシーツがたたまれる。よくわからない。あいつらやこの世界の人間が持ってる気持ち悪い光のような力じゃないし、この女の能力に俺は干渉できず、されるがままだ。
女が、檻の鍵を開いて食事のトレーを机の上に置く。皆俺の力を恐れて、大の男だって遠巻きに怯えた表情をしながら見張るだけなのに、この女だけは何ともない顔で檻の中に入ってきて、俺の隣に腰かける。ベッドが軋む音がする。
野菜のスープにやわらかいパン、何の肉を焼いたものに、少しの野菜。あの場所で食べてた犬のゲロみたいな食事よりも随分まともな、まるで母さんの作ったみたいな朝食。母さんは朝が苦手で、スープはお湯を入れるだけのレトルトを使っていたけど、献立はよく似ている。
俺の腹がぐぅと小さな音を立てた。女はくすくすと笑い、温かいスープを俺に手渡す。あの光がないから、この女は俺には壊せない。最初は力づくで、とも考えたけど、あっという間に変な力で宙づりにされてしまうので、この女を壊すのは七回目で諦めた。
俺が無言で朝食を口に運んでいると、赤毛の女の口は何が楽しいのかわからないがペラペラと動き出す。今日は天気がいいだとか、喫茶店をやっているが最近休みが続いているだとか、夫が心配して今日も引き止められただとか。どうでもいい、本当にどうでもいい話を何時間も話す。しばらくしてやっとその口が閉じたかと思うと、この女はいつも決まった言葉を呆れながら口にするのだ。
「まただんまり? そろそろ私も飽きてきたわ」
そろそろ飽きてきたわ、なんて言うものの、この女はもう何回も同じことを言っては、俺に話しかけることをやめない。こいつが不満そうにこのセリフを口にして、俺が無視を続ける。このやり取り、もう何日繰り返したかわからない。なのにこいつは言葉とは裏腹に、飽きずに俺に声をかけてくる。今日だってそう、また俺の返事など聞きもしないで、どうでもいい話を続ける。葉野菜が値上がりしただとか、ケーキがうまく膨らまなかっただとか、本当にどうでもいい話を。
何度も繰り返されるやり取りに嫌気が差したからなのだろうか。いつも通り黙ってやり過ごそうとしていたのに、俺の口が勝手に動く。
「……飽きたんじゃなかったのかよ」
女が弾かれたように俺の方を見て、少し固まる。そんなにじっと見つめられると、居心地が悪い。
「あら? あらあらあら!」
次は突然笑顔で叫びだして、まくし立てるようにまたしゃべりだした。俺が何を言っても、何も言わなくてもこの女のおしゃべりは止められないらしい。俺はため息を吐きながら、小さな窓から床に差し込む光を眺めた。
□
女の名はアメリアと言うらしい。
俺とは別の世界から来た落ち人で、その世界では超能力者が普通に存在している世界なんだと。まるで漫画みたいな世界だと思ったが、この世界だって変な光を使って火をおこしたり、水を出したりするから漫画みたいなものだ。俺は漫画の中にいるんだなと実感した。漫画の登場人物ならけがをしてもすぐ治ったり、楽しいことばかり起こるはずなのに、この漫画は面白くない。
アメリアはうるさい。最近は名前を聞かせろとしつこいし、苦い野菜を残すと怒る。あんまりアメリアがうるさいもんだから俺が大人になって、名前を教えてやって、ピーマンみたいな野菜を丸のみにした。するとアメリアは突然大人ぶって、えらいわ、と俺の頭を撫でる。その手がまるで母さんみたいに優しくて、泣きそうになる。
アメリアは嫌いだ。アメリアといると母さんを思い出す。寒いからと布団を肩にかけたり、夜寝付くまで俺の胸をトントンと叩いたり、隣に座って昔話を話したり。俺は子供じゃないから、そんなことしなくてもいいと言っても、アメリアは聞かない。アメリアは嫌いだ。俺を子ども扱いする。優しく撫でらて、抱きしめられると母さんを思い出すから。アメリアは、嫌い、だ。
□
随分と長い間、あの狭い檻の中でアメリアと過ごした気がする。ある日、アメリアが「明日、別のところへ移動するわよ」と言うので、俺はようやくこの女と離れられるのかと清々した。
あの気持ち悪い光を少ししか持たない男たちに囲まれて檻の外へ出ると、アメリアは俺の頭を撫でて、ちゃんといい子にするのよ、と言った。悪いことをしたくても、こんなに光が少ないと俺は何もできない。だけどそれを悟られないように、不機嫌な顔でつんと明後日の方向を向いた。
乗せられた馬車の小さな部屋の中には俺一人で、俺はあのおしゃべりな声が聞こえないことにほっとしたけど、すぐに寂しくなった。ずっとずっと一人ぼっちだと思っていたのに、突然一人が静かすぎると感じるようになった。
俺の隣に誰もいない、誰も。父さんと母さんがいないのは俺のせいじゃないけど、アメリアがいないのは多分俺のせいなんだ。今頃、アメリアも鎧を着た男たちみたいに、俺のいる方を睨みつけてひそひそと悪口を言っているのだろうか。それは嫌だ。いつも優しい母さんが本気で怒ったときみたいに、胸の奥がひりつく気がした。
がたん、ごとん。少しだけ揺れる馬車の中で、何日過ごしただろうか。多分、三回くらい眠ったと思う。でも三日は経っていないと思う。一人ぼっちの馬車の中はやることがなくて、しゃべる相手だっていないから、寝るくらいでしか暇をつぶせない。
床の上で足を投げ出していると、馬車が止まり、がちゃりと音を立てて扉が開いた。またおっかなびっくりしながら男が食事を渡すのだろうか。そう思って重い頭を上げると、パンとスープをもったアメリアが笑った。
「ランチにしましょう」
俺は飛び上がりたくなった。
じいちゃん家にいた犬のポチは、たまに俺が遊びに来るとしっぽをぶんぶんとふってその場でぴょんぴょんと飛び跳ねていたが、ポチはこんな気持ちだったのだろうか。アメリアがいる。あの檻を離れたら、もう会えないと思っていたアメリアが。
俺は必死でうれしさを顔に出さないようにしていたが、多分アメリアにはバレていたと思う。だってアメリアはいつもより優しい笑みで食事をする俺を眺めていたから。俺の食べこぼしをハンカチで拭ったり、まるで母さんみたいに甲斐甲斐しく世話を焼くアメリアを、俺は嫌いではなかった。今までだってずっと、嫌ってなんかいなかった。むしろ――。
□
その後はアメリアは俺と同じ小さな部屋の中にずっといた。
たまに、アメリアの夫だというでかい男も一緒になって馬車の中に居座るので、小さな部屋はぎゅうぎゅうだった。アメリアの夫にはあの気持ち悪い光が見えたが、これを壊すとアメリアが悲しんでしまうのでやめておいた。アメリアの夫は物静かで、よくしゃべるアメリアの話をうんうんと聞いていた。この二人を足して二で割ると丁度いいのに。
三人で過ごしているとあっという間に目的地に着いた。王都、と呼ばれる、王様の住む城がある町。馬車の小さな窓から外はよく見えないけれど、ばしゃばしゃと水音が聞こえたので、多分水路でもあるんだろう。俺はアメリアと、他の人間からマスターと呼ばれるアメリアの夫と共に大きな城へと入った。
城の中では木でできた手錠をはめられた。アメリアはそれを止めようとしていたが、アメリアみたいに光を持たない人間以外簡単に殺せる俺が、鎧を着た奴らは怖いんだろう。実際たくさん壊したし、俺は黙ってその手錠を受け入れた。
俺をおもちゃみたいに壊した奴らは俺が壊した。だから俺も、あいつらみたいにおもちゃで遊んだんだから壊されるんだろう。それは仕方ない。俺だけ散らかしたままじゃ、不公平だ。
偉そうに椅子に座った校長みたいなじいさんと、鎧を着た奴ら、それに教頭みたいなちょっと小難しい顔をしたおっさんたちが、俺を変な顔で眺めていた。床に座らせられた俺の隣にはアメリアが膝をついているが、俺もアメリアも無視しておっさんたちは話をしている。
被害がとか、子供がとか、原因不明の能力がとか。小難しい話をしているが、どうやら俺が子供だったことに驚いたのだろう。俺は別に子供じゃない、もう――あれ、俺はいくつになるんだっけ。何年か前だったら小学三年生だったはずだけど、あれから随分と時間が経っているはずだ。もしかしたらもう中学生になっているかもしれない。
俺が自分の学年を考えていると、アメリアは必死に俺をかばった。あの白い服を着た男たちのことだったり、人さらいだったり――そんな話、アメリアにしたかもしれない。ぽつりぽつりと、寝物語のように俺の恨みつらみを聞いたアメリアは、ぎゅっと俺を抱きしめてくれたっけ。
アメリア、別に俺はどうなったっていい。俺は十分壊して遊んだんだから、多分、責任ってやつを取らないといけないんだ。嫌なことをされたからって、同じく嫌なことをし返していいわけじゃないって先生だって言ってただろ。
ごめんなさい、で謝って済む問題じゃあないんだ。夏休みに飼育係が忘れて、金魚を殺したことがあった。あれだって、あいつはわざとじゃないのに、泣きながら謝ったって皆一か月はひそひそ意地悪しただろ。俺はわざとだし、殺したのも金魚じゃなくて人間だから、ごめんなさいしたって多分駄目なんだよ。
だからアメリア、あんたがそんなに泣かなくてもいいんだ。
□
アメリアの必死の嘆願のおかげか――後から小耳にはさんだが、俺を取り押さえたあの女の口添えもあったらしい――俺は取りあえずは壊されなくて済むようだった。
そのかわり、この変な力を操る能力について調べる協力をしなければならないらしい。実験、だなんて嫌な記憶を蘇らせる言葉だが、アメリアがあんまり笑顔で喜ぶものだから、俺は渋々頷いた。
実験は俺が思っていたことより痛くないものだった。小さな針を刺して血を取ったり、弱い光の塊――魔術というらしい――を俺に向けて投げて、俺がそれをほどいて、消す。内臓をぐちゃぐちゃにかき回したり、生きるか死ぬか程度の魔術をぶつけないのか、俺がそういって首を傾げると、アドニスといういつもへらへらと笑っていた男の顔が初めて陰った。
手足どころか指だってひしゃげた肉片にならないし、墨みたいに焦げたりもしないし、目玉に変なものを刺されたりしない。俺が研究者を名乗る男たちに疑問を投げつけるたびに、お菓子だったり果物だったりを与えたり、おそるおそる俺の手を握ったりする奴が出てきた。初めは遠巻きに意地悪を言ってきた男だって、今では砂糖菓子をくれたりする。よくわからないけど、ここの奴らの言う実験は、俺が知っているものとはかけ離れていた。
俺も少しずつ、男たちの名前を憶えたり、あの変な光のことを話す。こいつらを壊すのは簡単だけど、何となく俺は、あの男たちとは違うこいつらを壊したくないと思い始めていた。
アメリアは四六時中俺に付き添っている。多分、何かあったときのために、変な力で俺を止めるためだろう。だけど俺はここではもう何も壊すつもりもないので、アメリアには寂しいけど、帰ってくれていいと言った。
前にあの小さな檻の中で、アメリアは喫茶店をやっていると言っていた。その笑顔がとても楽しそうで、アメリアは喫茶店をするのが好きなんだろうと思った。だけどここにいたら、俺のせいでアメリアの楽しいができなくなってしまう。
「アメリアはいつまでここにいるの?」
「いつまで? さあ、いつまでかしらね」
「俺は……もう何も壊す気なんてない。ここの奴ら……その、こ、壊したくないし。だから、アメリアは帰って、喫茶店をやっていいんだ」
俺がうつむきながらそういうと、アメリアはぎゅっと俺を抱きしめる。
「確かに私はお店をするのが楽しいわ。だけど今は、コーヘイの傍にいたいとも思うの」
そういってほほ笑むアメリアを見て、俺はわっと泣き出してしまった。うれしかった。アメリアには楽しいことをやってもらいたい。だけどそれ以上に、俺はアメリアと離れたくなかった。
□
ある日実験が終わってアドニスから貰った焼き菓子を食べた後、アメリアと一緒に俺の部屋に戻ると、机の上に手紙が置いてあった。俺の部屋は研究者たちは誰でも入れるけど、ぷらいばしーとかよくわからないものを尊重するらしく、誰かが入る際は俺に一声かけられる。
その真っ白な封筒を拾い上げて中に目を通すと、俺は首を傾げた。内容が小難しい言い回しでよくわからなかったからだ。仕方がないのでその手紙をもって、アメリアの部屋の扉を叩いた。
その手紙はアメリアには読めないらしかったので、アメリアと一緒にアドニスのところへ行った。アドニスも読めないらしく、俺は皆の前でその手紙を音読することになった。
「――いとうさまに、あしをおはこ、びいただく……ごそくろうをしいて、しまい。……たいへんもう、しわけございませんが………ごきかんの、いしがござい、ましたらおうと、めがみきょう……し、しんでんへとおおしくださいませ。なお……ごきかんをきぼうされない、い、いい、いせかいの…………らいほうしゃのみなさまは、そのままこのせかい、で、おすごし、いただいてかまいません……だって」
手紙には漢字がいっぱいだったけど、ふりがながふってあったので何とか読めた。音読は得意だと思ってたけど、意味の分からない言葉を読むのはどこで区切っていいのかよくわからないし、何度も間違えてしまってはずかしい。
俺が手紙を読み上げると、周りにいた研究者たちはひそひそと何かを話しているし、白い光を目に集めて、手紙をじっと見てる人だっている。
「……どういう意味?」
「えっとね、コーヘイは、おうちに帰れるんだよって女神様からお手紙が来たんだよ」
「家に!」
俺はポチみたいにしっぽがぴんと立ち上がった気がした。だけどそのしっぽも、すぐに下を向く。
「……だけど、俺……もう何年も経ってる……父さんも母さんも、忘れてるかも……」
「それは大丈夫、コーヘイのいた世界では、時間が経ってないことになるんだよ」
「なんで?」
「それはえーっと……女神様が何とかしてくれるから、かな?」
アドニスが首を傾げながら答える。だけど俺のしっぽは、下を向いたままだ。
「だけど俺、大きくなったし……ランドセルもなくした。もしかしたら、制服だって入らないかも!」
「それも大丈夫、コーヘイの体も元の大きさまで縮むんだ」
「縮むの? せっかく身長伸びたのに、それはやだ」
「……すぐに大きくなるさ」
そういってアドニスが俺の頭を撫でる。よくわからないけど、父さんと母さんの元に帰れるんだ。俺はポチみたいに、ぴょんこぴょんこと跳ねて、喜びを表現した。
その日はうずうずしてあまり眠れなかった。ベッドの上で一人寝転がっていると、色々な考えが浮かんでくる。帰ったら母さんのハンバーグが食べたい、父さんを枕にしてテレビを見るのもいい、じいちゃんばあちゃん家に行って虫取りをするのもいいし、ポチとも遊んでやろう。もう何年も会っていないのに、皆の姿はぱっと思い浮かんで、楽しい気持ちが増えていく。
――だけどふと、気づく。
俺がこのまま帰ってもいいのだろうか。たくさんの人を壊した責任だって取ってないし、まだ俺の力はわからず仕舞いだ。皆をぐちゃぐちゃにかき混ぜておきながら、はいさようならでは虫の良すぎる話ではないだろうか。
帰りたい気持ちと、責任を果たしていないもやもやが心の中でぐるぐると回る。結局その日は、夜が明けるまで俺の目は冴えたままだった。
次の朝、眠い目をこすりながら俺はアドニスに宣言した。
「俺、まだ帰らない」
「……それは、どうして?」
「だって……約束した。実験に協力するって。俺の力がわからないと、アドニスたちは……困るん、だろ?」
それからアドニスと、アメリアと、他の研究者のおっさんたちといっぱいしゃべって。俺はあと一か月実験に付き合うことになった。
元々、俺が実験に協力的になってから解明はぐんぐんと進み、理論上は俺みたいな人間を作り出せるようになったらしい。と言っても、実際にそんなひじんどうてきな実験をするわけにもいかないので、きじょうのくうろんだとアドニスは言っていた。アドニスは難しい言葉を使うのでよくわからないが、俺みたいな目に遭う奴も、俺みたいなことをする奴もいなくなるならそれでいい。
それに俺みたいな力を持っていても、ずるがしこい奴に利用されるだけだ。俺に膜を壊させて、獣を呼び集めていた奴らは捕まったのだろうか。あいつらも俺と一緒に遊んだ側の奴らだ。変な鎧を着ていたとか、髭が生えていたとかアドニスに伝えたけど、あいつらもちゃんと責任を取ったのだろうか。
俺があの男たちについて尋ねても、アドニスは優しい笑みを浮かべるだけだ。だけどその瞳の奥が、初めて会った時のように凍り付いた色をしている気がした。
□
俺はいつもよりも少しかっちりとした服を着て、大きな建物の中にいた。おばさんの結婚式で見た教会によく似ている気がする。隣にはアメリアとマスター、それにアドニスと研究者たち。皆勢ぞろいというわけにはいかないけど、ここにはいない人たちとはすでに別れを済ませてきた。
アドニスはごてごてとした服を着た、長い髭を持つじいさんと何か言葉を交わしている。アメリアはどこか寂しそうな顔で、俺をぎゅっと抱きしめた。
「コーヘイ、あなたが私たちのことを忘れても、私たちはあなたのことをずっと覚えているから」
「……俺、アメリアのこと忘れるの?」
「それが、コーヘイのためなのよ」
アメリアが悲しそうにほほ笑む。嫌だ。この世界で嫌なことはいっぱいあったけど、アメリアのことは忘れたくなかった。この世界での母さんみたいな存在。マスターは父さんみたいだし、アドニスは……俺には兄ちゃんはいないけど、多分そんな感じ。皆大事な、壊したくない家族。
「俺、忘れたくない……忘れなきゃ、ダメなの? せっかく、この世界のこと好きになれたのに。絶対忘れなきゃダメなのっ?」
ぽろぽろと、子供みたいに涙がこぼれた。かっこわるい。アメリアには、泣き顔なんて見せたくなかったのに。
アメリアも涙を流していて、マスターもアドニスも他の皆も、寂しそうな顔をしていた。
「消えてほしい記憶だってたくさんある、だけど! 皆のことは忘れたくないっ!」
「そうだね……これは僕たちの自己満足だ。コーヘイには嫌かもしれない、だけどこれは、僕たちの大人としての責任なんだ」
「せき、にん?」
アドニスが俺の背中を優しく撫でる。アドニスは穏やかそうに見えて意外に頑固で、こうと決めたら絶対に譲らない男だった。俺は皆と過ごす中で、よぉく知っている。
思わず、笑みが漏れた。
「ははっ、ずるい……アドニスはいつも絶対譲らないんだ……」
「そうかな?」
「そうだよ、いつもそうやって勝手に決めて」
「コーヘイは僕のこと、そんな風に思ってたの? 心外だなあ」
アドニスが大げさに肩をすくめる。周りからくすくすと笑い声が聞こえた。
「だけど、アドニスはいつも俺のためにそうしてくれてるって知ってる」
「コーヘイ……」
「だから俺は、寂しいけど、アドニスの言う通りにするよ」
アメリアの胸から頭を上げて、アドニスへと笑いかける。アドニスもいつも浮かべている穏やかな笑顔を崩して、悪戯っ子のようにはにかんだ。
「じゃあ俺、帰るよ。……皆、今まで迷惑かけてごめんなさい」
頭を下げると、また涙がぼろりとこぼれてくる。
悪いことをした。取り返しのつかないことをした。責任が取れたとは思っていない。だから一生自分に罰を与えながら、過ごそうと思っていた。だけどアメリアたちは、そんな自責の念から俺を救おうとしてくれている。そんなことしてやるだけの価値もないのに。俺をぐちゃぐちゃにしたあいつらと、同じ側の人間なのに。
「俺、自分のやったこと忘れて……元の世界で普通に過ごしていいのかな?」
「コーヘイ、私たちはあなたに幸せになってほしいと思ってるわ」
「幸せ……? だけど俺、いっぱい悪いことした。皆をおもちゃみたいに遊んで、壊した。それでも、いいの?」
「君を憎む人間は山ほどいる」
アドニスの冷たい言葉が、大きな建物の中を反響する。
「だけど君の罪は、僕たちの罪でもある。ごめんね、コーヘイ。君を守れなくて。そんなに歪めてしまって。記憶を消せばすべてがゼロになるとは思わない。君の罪も、僕たちの罪も、消えたりはしない」
「……うん」
「だからその罪は、僕たちが引き継いでいく。君も忘れるかもしれないけれど、きっと心の奥底では覚えているはずだ。だから……覚えていたらでいい、君は君の、責任を取るんだよ」
「責任って、どうやって?」
「例えば、誰かに優しくするとか、怠けたりしないとか、そうだね……まずは嫌いな野菜を食べるところから始めよう」
「そんなことでいいの?」
「簡単なように見えて、一番難しい事だよ。特に、誰かに優しくすることはね」
「……うん、そうだね」
アドニスを見上げると、彼は穏やかにほほ笑んだ。
「ありがとう。アメリア、アドニス、マスター、ジョットにケイブおじさん……いっぱいいっぱい、お礼を言いたい相手がいる。それって、皆が俺に優しくしてくれたからだよね。だから俺、皆からありがとうをいっぱい言われる人になる!」
このままここにいると、座り込んで駄々をこねてしまいそうだったから、白い光がまとわりつく扉へと駆け込む。不思議とその光に気持ち悪さはなく、どこか温かかった。
「ありがとう、みんな。ばいばいっ!」
手を大きく振りながら、白い光に飲み込まれる。アメリアも、アドニスも、マスターも、皆笑顔で手を振り返してくれた。目の前が真っ白になり、自分が立っているのか、座っているのかもわからない。どこからか小さな、別れの声が聞こえた気がした。
□
いつもの通学路は、もう真っ赤に染まっている。隆の家でゲームに夢中になっていたら、あっという間に門限を過ぎてしまっていた。ぱたぱたと閉まっていないランドセルの蓋がこすれる音を聞きながら、家まで走って帰る。
「ただいまっ!」
「こら、浩平! 何時だと思ってるの!」
「だって……」
「だってじゃありません! 五時までには帰ってきなさいって、お母さんいつも言ってるでしょ!」
「……ごめんなさい」
門限が過ぎたのを気づかなかった、と言い訳しようとしてやめた。ゲームに夢中になったのは確かだけど、隆のおばさんが何度か俺に時間を告げて門限は大丈夫かと尋ねてきたからだ。それを無視してゲームをつづけた俺が悪い。
「……妙に素直ね。まあいいわ、今度門限を過ぎたら、一週間遊びに行っちゃだめだからね!」
「えー!」
不満の声を漏らしながら、ランドセルを居間に置いて、手を洗う。外から帰ったら手洗いうがいをしなさいって、母さんがはうるさい。まるで――――みたいに。
「……あれ?」
「どうかした?」
「ううん、何でもない……そういえば、今日は算数の宿題があったなって」
「ごはん前に済ませなさい」
「はーぁい」
居間のテーブルに座って、ノートを開く。算数のノートの端には藤川のへたくそな絵が描いてある。それを消しゴムの角で消しながら、面倒くさい計算を解く。向かいに座って俺を見つめる母さんの黒髪に、何だか違う色がちらついた気がした。
「……母さん、髪染めた?」
「染めてないけど」
「そっか」
変な違和感を感じながら、えんぴつを動かす。母さんは宿題をしているときに別のことを話すといつも、集中しなさいって怒るから、これ以上口は開かない。
あっという間に宿題を終わらせると、母さんのチェックが入る。全部正解していたらしく、母さんは俺の頭を撫でて褒めてくれた。
「今日は文句も言わずにしっかり集中できてたし……何か学校でいいことあったの?」
「え? 別に。ただ俺ももう、三年生だし。宿題くらいちゃんとやるよ」
「口だけは一人前ね。三年生だったら、門限はちゃんと守りなさいね」
「……はーい」
ばつが悪くて母さんから視線を逸らせていると、玄関の鍵が開く音が聞こえる。父さんだ。
玄関へ駆けていくと、革靴を脱いでネクタイを緩めている父さんがいた。
「おかえり、父さん!」
「お、ただいま浩平。随分と元気だなあ」
「そうかな? 俺は、普通だよ」
「はは、普通か。そうかそうか」
父さんの鞄を預かって、居間へと持って行く。
「母さん、父さん帰ってきたよ! 今日の晩御飯なに?」
「おかえりなさい。今日は、ハンバーグよ。もう少しでできるから、ちょっと待ってね」
「ハンバーグ! やった、俺大好き!」
うれしくてソファーに飛び乗ると、母さんの咎める声が聞こえた。それを笑ってごまかして、スーツをハンガーにかける父さんに話しかける。
「ねぇ父さん、週末さ、じいちゃん家行こうよ!」
「じいさんとこか? 浩平、ゲームもないからもう飽きたって言ってなかったか?」
「そうだけどさ、じいちゃんとばあちゃんと、あとポチに会いたくなって」
ソファーの上でごろごろする俺を抱き上げて、父さんが座る。
「じゃあ週末まで、頑張ってピーマンを食べたらいいぞ」
「えー!」
「なんだ、不満か」
「そうじゃないよ! 俺もう三年生なんだから、ピーマンくらい食べれるよ!」
「昨日トマトを父さんの皿にこっそり入れてたのは、誰だったかな?」
「え、気づいてたの!」
父さんはもりもり食べるから、ちょっとくらい野菜を入れたところでばれないと思っていたのに!
「きょ、今日から! 今日からちゃんと食べるよ」
「よし、男と男の約束だ」
「うん!」
そういって、父さんと指切りを結ぶ。今日は絶対、残さないぞ。俺は高らかに宣言する。
母さんが笑いながら食卓へと運んだハンバーグの皿には、いつもより数を減らしたピーマンが添えられていた。




