25
「本当はな」
顔の火照りを沈む赤の根源のせいにして、深く呼吸を繰り返す私に、ジェイデン様は私の手を取ったまま立ち上がり苦笑して見せた。
「俺はリーコが、俺が大切だと言ってくれて……うれしかった」
「ジェイデン、様」
そっと距離が近づく。それはもう、互いの吐息すら聞こえてしまうかもしれないほど近くに。じっと私の瞳を見つめる彼に、私は呼吸すら忘れて青空のような双眸を見つめ返す。
「リーコ、君を愛している」
「……えっ」
「君のひたむきなところも、冷静であろうと努めているところも、全てが愛おしい」
「ジェイデン様、あの……わ、たしは、使用人ですよ……?」
「誰かに焦がれることを、そんなものでは阻めはしない。いや、させない」
「そんな、だって! あなたは王宮魔術師で、貴族です! 私は何の後ろ盾もないどころか、どこで生まれたかも証明できない落ち人です……釣り合うはずない……!」
「そんな建前など聞きたくない」
「でも……」
「君の気持ちを聞きたい。聞かせてくれるか?」
それは懇願のようで命令のような、有無を言わせない強さを孕んだ言葉だった。
「……あなたを愛してもいいのですか?」
「俺はそう願っている」
「私は、裁縫ができるだけのただのメイドですよ?」
「地位など関係ない。俺はリーコに惚れている。どうしようもないくらい、君のことが愛おしいのだ」
慈しむようにほほ笑むジェイデン様の手が、私の髪に触れる。それはまるで壊れ物を扱うような優しさに満ちた仕草だった。
好きです。たった4文字の短い言葉が口から出てこない。私はこれを口にしてもいいのだろうか、そんな考えが脳裏をよぎる。立場だとか、元の世界のことだとか。そんなことを引き合いにして、私の心は揺らいだ。だけど――。
「私も、好きです。ジェイデン様のことを愛しています。もし元の世界へと帰れるとしても、あなたと離れたくない」
本心が口から零れ落ちた。
私の言葉を聞くや否や、ジェイデン様に強く引き寄せられる。私よりも随分背の高い彼の胸に顔をうずめると、大きな手が背中に回され、少しの圧迫感を感じた。その苦しささえ、うれしい。おずおずと自分の手を彼の背中に回すが、細いように見えたその背中は私の両腕では収まりそうになかった。
どのくらい彼のぬくもりに浸っていただろうか。気が付くと世界を温かい色で照らしていた赤の根源は姿を消し、空には白の根源が静かに輝いていた。空を見上げる私の顎が、ジェイデン様の長い指に救われる。
そうして私たちは、触れるだけの口づけを交わした。
□
それからの私は使い物にならなかったと思う。
指をわずかに絡めていつもよりゆっくり歩くと、灯りの灯る街並みに見とれることはなく、石畳だけを見つめていた。ジェイデン様の顔を見るのが恥ずかしくて、彼との会話すらしどろもどろで。そんな私を彼は愛らしいとか、可憐だとか、何だか聞いているこっちが面映ゆくなってしまいそうな言葉で褒め称えた。
宿まではのんびりとした歩調ではまだいっぱい時間があり、いつもより近い彼の存在を感じながら指先までしびれてしまいそうな感覚に陥る。幸せで死んでしまいそう。そんな感覚が続いたのは、ジェイデン様が何事もないように言葉を紡ぐまでだった。
「俺が、王城で行われる祝賀会に招待されているのは伝えたか?」
知ってる。
そもそも、王都への滞在が延びた原因でもある。ジェイデン様は面倒臭そうに言っていたが、王城でパーティー、しかも魔術師殺し捕縛の栄誉を讃えて開かれるものなので、彼は主賓だ。何だか物語の中の出来事のようだと、少しだけ憧れた。
「それで、だ。リーコ、俺のパートナーとして同伴してくれ」
「は?」
この人は今、何と言ったか。王城で開かれるパーティーに、出席? しかもジェイデン様のパートナーとして? 意味が分からない。
いや、意味ならわかる。こうして想い通じ合ったのだから、私たちは世間一般でいう恋人同士という間柄なのだろう。恋人をパーティーに誘うのも頷ける。だがしかし、私たちは今日互いの想いを伝えあった。つまりは交際期間0日だ。
そんな女を、王主催のパーティーでお披露目? 冗談じゃない!
「な、何言ってるんですか……! そもそも私、平民ですし! そんな場に出席したら、もう、何か……っ」
「何だ、不都合があるのか?」
「不都合ならいっぱいあります! そもそもパーティーなんて行ったことないし、貴族らしい貴族とだってまともに話したことないし、マナーなんてただの接客用のものだし」
「そこは……まあ、エリスがいる。何とかなるだろう。それにリーコの作法は、俺から見たら完ぺきとは言い難いが、及第点はやれる程度だぞ」
「そう、じゃなくて……そんな、公の場に私なんか連れだしたら…………あの、わ、私が婚約者みたいなものだって、皆に勘違いされてしまいますっ!」
思わず張り上げた声に、周囲の人がいぶかし気な視線を向ける。既にゆでだこみたいに真っ赤になった顔を伏せると、ジェイデン様は私の手を強く握りなおして、他人の視線などまるでないかのように堂々と歩き出した。
「……すみません」
「何がだ」
「大きな声を出してしまって」
「別に構わない。それよりも俺は、己の愚かさを呪った」
そういって、ジェイデン様に手を引かれ道の脇へと逸れる。立ち止まって私を見下ろす彼の顔にはいつもの微笑はなく、視線で射貫かれる。私はただぼうっとジェイデン様を見上げるだけで、何も言えなかった。
「……っ」
何かをためらうように、彼から吐息が漏れる。前髪をかきあげ視線を彷徨わせる彼の意図が読めない。
たっぷり時間をかけて、ジェイデン様の視線が再び私に定まった。
「……俺は、言葉が足りないといつも言われる。それに、その日にこんなことを言い出すなんて、君を戸惑わせてしまうだろうと思っていた。だが……」
「……」
「己の想いに嘘は吐けない。だから、リーコ……俺の婚約者として祝賀会に出席してくれ」
そういってはにかむよむようにほほ笑んだジェイデン様が、懐から銀の腕輪を取り出す。
この世界に婚約指輪の風習はない。だが、男から女に女神の祝福が込められた腕輪を渡すという、幼子ですら知っている婚姻の誓いがあった。金、銀、銅、鉄。材質は様々だが、デザインは統一されている。女神の息吹を表す風の意匠が刻まれた腕輪を、彼は私に差し出していた。
「俺は皆に、君を紹介したい。…………本来ならば時間や場所など、もっと選びようがあった。女性はそういったものを気にするだろう? 俺の手落ちだな」
ジェイデン様が苦笑を漏らす。
「リーコ、受け取ってくれるか?」
「……受け取っても、いいのですか?」
結婚願望というものがないと言ったら嘘になる。だけど、想いが通じた今でさえ、彼との結婚は難しいのではないか、そう考える自分がいた。恋人ごっこならばただの火遊びで済ませることができよう。彼ほどの地位や名声を持つ人間ならば、平民とのお遊びも黙認される。
だけどそれが、婚約とまでなると――きっと、反対される。貴族が平民を娶っただなんて、私だけでなく彼も批判されてしまうかもしれない。
「俺はリーコに受け取ってほしい。いや違うな、リーコにしか渡したくない」
「私は……受け取りたい。あなたの妻になりたいです。だけど不安もあります。私たちは、許されるのでしょうか?」
「まだそんなことを言っているのか」
ジェイデン様がふっと息をこぼしほほ笑む。
「俺の身分では反対する者がいない、とは断言はできない。だがな、周囲に決められた人間ではなく、俺は君と歩んでいきたいのだ。未来を」
「私も、そう思います」
「それに実はな、手は色々と打ってあるのだ。うるさい者を黙らせることなど、左程手間でもない」
そういって彼はへたくそなウインクをした。
私はそれが何だかとてもおかしくて、こらえようとした笑い声が唇から零れ落ちてしまう。
「ええ、ええ。私も、ジェイデン様と共にありたいです」
私は顔いっぱいに満面の笑みを浮かべながら、左手を差し出す。カチリ、と腕輪の留め具がかみ合う音が、小さくあたりに響いた。




