21
あの事件の後から、どうもジェイデン様が私に対して過干渉になった気がする。
確かに数日はうなされて夜中に目覚めたこともあるが、シンシアやニコレッタに添い寝してもらうことで何とかやり過ごすことができている。
私自身は、あの時のことは必死過ぎてあまり覚えていない。もちろん、細い首に手をかける感触だとか、自分が怖くなるような衝動だとか――嫌なことは覚えている。激情にかられ動く自分を知った。今回はことが良い方向へと転んだが、次は自分が加害者になるかもしれない。それが恐ろしかった。
「リーコ?」
「あ、はい。大丈夫です」
おかしな顔でずっとティーカップを見つめていたのか、ジェイデン様が眉をひそめる。最近私は、考え込むことが多くなったらしい。自分の中にある苛烈な感情と、うまく向き合えるか不安だった。
「君はいつもそういう」
「本当のことですから」
少し拗ねたような顔で私を見つめるジェイデン様の顔が、いつもより輝いて見えた。いや、いつも通りの美しい顔なのだ。変わったのは、私の内面の方だったりする。
どうやら、私は彼のことが好きらしい。
といっても、今更見つめ合うと素直におしゃべりできないなんていうつもりはない。ただ、彼が私を呼ぶ声だとか、ふとした拍子に見せるやわらかい笑顔だったりとか。些細なことで胸が跳ねるような気持ちになれた。
何度も繰り返した魔道具を制作する時間や、その合間の休憩ですら、何だか特別なものに思えるのだ。そんな小さな喜びが、私を激情へと駆り立てる。もし彼が結婚して子供が生まれたりしたら、私はいつもの自分を保てるのだろうか。それが不安で、この屋敷を去った方がよいのではないかとさえ思うほどだった。だけど、この人の傍を離れたくない自分もいる。
「……リーコ、悩みがあるのなら言ってくれ」
「悩みというか、ちょっと考えているだけです」
「それは俺には言えないことなのか?」
「……そうですね、ことさら、ジェイデン様には言いたくないかもしれません」
「そんなに俺は頼りないか。いや…………そうだな」
勝手に何か思いを巡らせて勝手に落ち込む姿すらかわいらしい。私はこの人にぞっこんなのだろうな、と心の中で独り言ちた。
□
さて、私が自分の気持ちを把握したところで一つ問題がある。
正直言うと、私は今まで誰かを好きになるという気持ちが、こんなにも大きなものだとは知らなかった。この短くはない人生の中で、もちろん誰かに恋慕の気持ちを抱いたことはある。初恋だって済ませているし、恋人関係――とはいっても、子供のおままごとのようなレベルだ――だって日本で経験していた。
一生に一度の恋だなんていうつもりはない。だけど、自分の中で誰かの存在がこんなにも大きくなったのは初めてだった。彼の言葉に一喜一憂したり、優しい気持ちになれたり。恋愛が、こんなにも人間を翻弄するものだなんて知らなかった。だから、それを知った今――――この関係を、曖昧なままにしておきたくはなかった。
「久しぶり」
「おう」
ぶっきらぼうに返事をして、私の隣に腰を下ろすリトと会うのは随分と久しぶりのことだった。魔術師殺しの事件で町は慌ただしかったし、それが終わってもコールス家の屋敷は長い間ごたごたしていたし、彼と私の空き時間も頻繁に重なるものではない。
町の中心部から僅かに外れた通りは、がらんとしていた。そこにぽつんと置かれたベンチは昼こそ格好の井戸端会議の場所だったが、民家に灯りが灯る頃には誰もいない。私と、リトだけだ。
「大変だったみたいだな」
「あー、まあね」
コールス家の襲撃事件は最早ノースの町では公然の秘密となっていた。もちろん町民の話題に私の名が挙がることはないが、ジェイデン様とその他の人間の活躍により事件が終息したことになっている。
「リトは……今日、仕事だったの?」
「ああ、ついさっきまで親方にどつかれてた」
「相変わらずみたいだね」
「……最近、スープの調理を任されるようになった。俺だって成長してねぇわけじゃねぇよ」
「そうなんだ、おめでとう」
どちらからともなく、会話が途切れる。それからぽつりぽつりと、まるで手探りで話題を探すように、私たちは他愛もない話をつづけた。
マリーがお客様相手にへまをしただとか、屋敷で出る鶏肉の料理がおいしいだとか、長期で泊まっている冒険者がうるさいだとか。私は確信に触れられず、作り笑いに失敗したような顔で心のこもっていない言葉を並べる。
「……なぁ、リーコ。こっち見ろよ」
リトの言葉にあらぬ方向へと向けていた視線を戻すと、彼の紫水晶色の瞳が私を射貫いていた。お互いの視線が絡む。
「ど、どうしたの?」
「お前、心ここにあらずっつーか……なんか別のこと考えてんだろ」
「そんなこと」
「中身のねぇ話ばっか続けやがって。お前と何年一緒にいたと思ってんだ、バレバレなんだよ」
「………………ごめん。リトには、言っておこうと思って」
「ああ」
「私さ、好きな人ができた」
「…………あいつか?」
「うん」
「よ……かったじゃねぇか。オレはこのまま、リーコが死ぬまで独り身かと思ってたわ」
リトは、へたくそな笑顔を作った。
「これで、リーコも安泰だな。うまく行ったら、玉の輿だ」
「別に、ジェイデン様とどうこうなりたいわけじゃないよ」
「ジェイデン様、ねぇ。前会った時は旦那様って呼んでたのに……脈ありなんじゃねぇか?」
「そんなこと……そもそも相手は宮廷魔術師様だし」
「男と女の話じゃ、地位がどうとかあったとしてもどう転ぶかわかんねぇよ。リーコが嫁いだら、オレも雇ってもらおうかねぇ」
「茶化さないでよ」
軽口を叩く彼に対し、思った以上にきつい口調で自分の口から言葉が漏れる。はっとしてリトを見上げると、彼は顔から表情を消し去り、こちらを見つめる。
その瞳はどこか、揺らいでいるようにも見えた。
「…………じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
「リ、ト?」
「お前だっていい加減気づいてんだろ、オレがお前を好きなことくらいっ!」
リトの怒声が、辺りに響く。民家から漏れる家族団欒の声が、どこか別の世界のものみたいに遠い。
「オレは……ずっと一緒にいた、これからもそうだと思ってた! だけど! ……お前ばっか見てたせいかな、リーコが何考えてるだとか、すぐわかるんだよ……っ」
「……」
「お前が誰が嫌いだとか、誰に惹かれてるとか……オレをどう思ってるかだって、ずっと知ってた」
「リト……」
「なぁリーコ、俺の気持ちは……迷惑だったか?」
哀願するような彼の言葉に、小さく首を振る。
「リトは……私にとって家族だった。誰も知らない世界にひとり落とされて、はじめてできた家族。リトがいたから、つらい仕事だって耐えられた。リトが、一緒に泣いてくれたから……私は、この世界で立ち上がれたんだよ」
「……家族、か」
「でも、リトの言う好きと、私のリトに対する好きは違う。ごめんね、私ズルかった。リトとこれからも家族でいたかったから、リトの気持ちを無視した」
「いや……オレだって、望みがないのはわかってたさ。それなのにいざとなるとリーコに当たり散らして……かっこわりぃな、オレ」
リトが、自嘲するように吐き捨てる。
「ううん、ありがとうリト。こんな私を、好きになってくれて」
「お前に……礼を言われるようなことじゃねぇよ」
「言わせてよ。リトが私のことを考えていてくれたから、今、私はここにいる」
リトが傍にいなかったら、私はどうなっていただろうか。慣れない仕事に手を貸してくれた。日本へ帰りたいと、彼の背中を借りて泣いた。悩み事があると、すぐに吐き出させてくれた。喜びも悲しみも、たくさん共有してきた。この世界でひとりぼっちだった私は、リトによって救い上げられた。
「考えてみれば、私、リトに助けられてばっかり。何も返せてない」
「別にオレは、見返りが欲しくてお前の傍にいたんじゃねぇ。見損なうな」
「うん」
「……でもオレは、本当は期待してたのかもな。見返りって奴を」
へへっと、リトがいつもの悪戯っ子のような顔で、頬をかきながら笑う。
「オレはさ……」
「うん」
「結構単純に生きてると思ってたけど、実際そうなってみると簡単にはいかねぇみたいだわ。頭の中のごちゃごちゃがなくなるまで、リーコとは会わない」
「……うん」
「それが終わったら……またいつもみたいに、会いに来てもいいか? 家族として」
「うん」
「そんな顔すんなよ。お前があのいけすかねぇ貴族野郎に嫁ぐ頃には、でっかい花束でも持って祝福してやるさ!」
そういって走り去ったリトの背中を、私はいつまでもいつまでも見つめていた。




