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 自分の数か月分の給料を抱えた私は、翌日10番の部屋の前に来ていた。

 10番台は長期宿泊用の部屋だ。リビング、寝室、キッチン、トイレがすべてついていて一泊銀貨3枚ほどの値段がする。冒険者向けの長期宿泊用の部屋は同じような施設がついてはいるが広さが雲泥の差で値段も安い。

 一か月滞在しただけで私の十数か月分の給料がなくなるのだ。更に昼食と夕食は追加料金である。

 そんな部屋に、コールス様は滞在していた。


 特別な用がない限り従業員からお客様を訪ねることは禁止されている。つまり私からはこのドアはノックできないので、コールス様が自らこの部屋を出るタイミングが唯一のチャンスだ。

 廊下を掃除しながらそわそわと様子を窺うが、コールス様は出てくる気配がない。一刻も早く多すぎるチップを返して、ここから立ち去りたいのに。苛立ちからバケツに汲んだ水が見たこともないくらい色になってしまうまで木製の床を擦ったが、目的は果たせないまま洗濯の時間になってしまった。


 お値段がそこそこするのでうちの宿を利用する冒険者のほとんどが名が知られていたり、特殊な技能があったり――つまり稼いでいる。しかしながら街の外で魔獣を屠ったり薬草を採取するのがお仕事な彼らの部屋のシーツは、貴族や商人に比べると汚れやすい。あと、命のやり取りをする仕事だからかどうしても男女のあれこれも他の人たちと比べると多い。

 私は土とほんの少しの血で汚れたシーツを、いつものようにごしごしと洗っていた。


 これが終わったら今日は厨房の手伝いではなく裂けたシーツを繕わなければならない。

 ちまちまとした裁縫はマリーが苦手とする行為なので、交代と称して頻繁に私に回ってきたがそれは苦ではなかった。集中して、針を進めるのは楽しい。最近では宿で使うスカーフの刺繍まで任されるようになったので、裁縫はこの世界での私の趣味とも呼べるだろう。


 洗濯を終わらせてそのまま、天気が良かったので中庭の隅にある簡素なテーブルでシーツの補修をすることにした。大抵は部屋でやるのだが、使用人部屋はいかんせん光の入りが悪い。それにここならば、運が良ければコールス様が通りかかるかもしれない。腰さげた精神的に重い革袋を、少しでも早く彼に返したかった。


 どれくらい時間が過ぎただろうか。

 裁縫に熱中していた私にはほんの僅かに感じられたが、日の方角を確かめると随分と時間が経っていたようだ。集中すると周りが見えなくなるのは悪い癖だ。この前だって床にめり込んだ石を取り出すのに気を取られ、客に声をかけられても気付けなかった。

 何枚目かのスカーフの刺繍を終え、糸を切ろうとはさみに手を伸ばすために視線を上げると、私の向かい側にコールス様が座っていた。



「えっ」

「やっと気付いたか」

「……いつから、いらっしゃったのですか?」

「さて、君が飾り枠の刺繍を始めた頃だろうか。それにしても手際がいいな、思わず見惚れてしまった」

「いえ、それほどでもありません。それより、何かご用がありましたでしょうか。すみません、集中すると他に目が行かないもので……」



 故意ではないが無視する形になってしまったのだが、彼は機嫌を損ねてはいないようだった。それよりむしろ、昨日魔法書店で見たような好奇心に疼くような表情をしている。



「特に用はなかったのだが……うん、そうだな。用ができた。リーコ、少し時間はあるか?」

「え? ええ、私で良ければご対応させていただきます」

「では、少しここで待っていてくれ」



 そう言い残してコールス様は立ち去ったが、ものの5分もしないうちに何かを手にして戻ってきた。

 一枚の紙と、蒼銀の針に青い糸、それに小さめのハンカチサイズの黒い布。それをひとつずつ、コールス様は机の上に並べる。



「この針で、この紋様を刺繍してくれないか? チップは弾む」

「はい、もちろん大丈夫でが……あ、チップ!」



 思わずそう叫んで腰元の革袋に手を伸ばす。



「コールス様! 昨日のチップですが、こんなに受け取れませんのでお返しします!」

「……そんなことを言われたのは初めてだ」

「コールス様は今まで金の宿をご利用されていらっしゃったのですか?」

「ああ、そうだな。王都では確か金だった」

「ご存知ではないかもしれませんが、銀の宿では高くても銀貨1枚程度です。たった半日のご案内で、こんなにいただけません」

「さすがに、ちょっとした用件では俺も何十枚も渡したりしないが……リーコは昨日休日だったんだろう?」

「えっと……確かにそうですが、そうであってもこんなにはいただけません」

「そうか」



 コールス様が何かを考え込むように口元を手で覆う。伏し目がちなお顔をされると、長い睫毛が頬に影を落とした。



「では、こういうのはどうだろう。刺繍のチップの前渡だ」

「それにしても多すぎます。こんな簡単な刺繍なら、今からでもすぐに終わらせてしまいます」

「王都では自分の魔力を込めた糸の刺繍となると、お抱えにする必要があるからな。銀貨20程度では雇えんぞ」

「…………そんな専門職、私に務まるでしょうか?」



 そんな高給取りの仕事、ただの下働きである私に務まるとは思えない。不安げな視線を向けると、コールス様はふふと表情を崩した。



「そんなに心配しなくてもいい。ただ、刺繍を始めたら終わりまで糸を切る事ができず、私がそばで魔力を込め続けなければならないのだ。拘束時間だったりと、お抱えにした方が都合がいいだけだ」

「あの、私に魔力はまったくありませんが問題はありませんか?」

「魔力がない? リーコは落ち人なのか?」

「はい」

「それは逆に都合がいい。他人の魔力は極力混ぜ込まない方がいいのだ」

「そういう、ものですか」



 コールス様曰く、オーソドックスな紋様は既に刺繍した状態のものが売ってあるが、既製品と糸の状態から魔力を込めたものでは雲泥の差があるらしい。なんでも、紋様自体が魔法を形作るものなのだが、既製品はどうしても糸以外の部分にも魔力が散ってしまうのだと。

 しかし裁縫師を雇ってもその者の魔力が混ざってしまいどうしても純粋な威力を発揮できない。本来ならば魔術師自身が刺繍をするのが一番だが、コールス様には刺繍の素質がなかったようだ。

 私の刺繍の腕と、スピードを褒めながら彼は饒舌に話を続ける。



「落ち人は魔力を持たない。盲点だった、こんなにも素晴らしい裁縫師が存在するなんて」

「わ、わかりました。引き受けます」

「感謝する。では、早速やってくれ」



 頷き、図案に沿って一針一針縫い進めていく。縫う手順が記入してあるため、長糸の絡みさえ気にすれば私は何も考えずに指示に従い針を進めればいいので気楽だ。蔦のような植物の紋様は、うちの宿の紋章に比べたら随分と簡単で、毛の質感だって表現する必要はないしものの10分程度縫い終えてしまう。

 すべての糸をぐるりと繋いだ瞬間、紋様が淡く光を放つ。すると青かった筈の糸は、銀に色を変えていた。



「成功だ。しかもこんなに早く終わるなんて。やはり君に頼んで正解だった」

「お役に立てたのなら良かったです」

「魔力の揺らぎもないし散りもしない。それに以前作った時よりも魔力のロスも少ない」



 新しいおもちゃを与えられた子供のように、コールス様は刺繍された布を光に透かす。



「あの、お聞きしてもよろしいですか?」

「何だ?」

「これはどんな効力があるのでしょうか?」

「ああ、これは簡単な守りの紋様だ。身につけていれば大半の刃なら一太刀、魔法なら中位から下位のものなら一度は防いでくれる。街で売るなら銀貨30枚くらいにはなるな」

「そんなに……」

「それにこの出来なら……おそらく2度、3度は防げるかもしれないな。すると価値は倍以上になる」



 最低でも銀貨60枚。私の一年分の給料をものの数分で作ってしまったのだ。彼がぽんぽんと大金をチップにできるのも頷ける。



「高価なものなのですね」

「ああ、作れる人間が限られているからな。未熟な者、あるいは魔力の少ない者がこうしたものに魔力を込めるとすぐに拡散してしまう。するとすぐに効力がなくなってしまうのだ」

「はあ……」

「君もこうしたものを買うときは糸をよく観察してみるといい。魔力の拡散した糸は劣化が激しく、すぐに切れる」

「私には無縁なものかと思います」

「知られていないが、日常生活で役立つようなものもある。……そうだな」



 また頼む、それだけ言い残して何かを思いついたようなコールス様は、中庭を去る。

 残された私はなんだかいつも以上に疲れた気がして、重い体を引きずって後始末を済ませた。

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