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赤の下月が終わり、黄の上月に入った。過ごしやすい気候が続いている。
あれからエリスは私に突っかからなくなった。といっても、すれ違うときににこやかに挨拶を交わしたりはしない。以前までは視線が交わるたびに嫌味が飛んできたことを思えば、平和なものである。しかし逆にエリスの取り巻きたちの方がうるさい。今までは私への当たりを一手にエリスが引き受けていたようだったが、それがなくなれば小さな嫌味のオンパレードである。イノシシが体当たりしてくるよりも、羽虫が何匹も顔の周りを飛ぶ方が鬱陶しいものなのだな、と実感する。
「エリス様と和解したの?」
シンシアが生クリームみたいに濃厚な、何かの乳を入れた瓶を振りながら口を開く。この世界に乳牛の生クリームといったものは存在しないが、魔物で補えるらしく飲食物のクオリティは日本と大差ない。落ち人の失敗効果も食べ物には影響しないらしく、どこかで見たような料理も多数存在していた。
「和解というか……何だろうね、まあ嫌味はなくなったよ」
「ふーん、よかったねぇ」
「まあその分取り巻きたちがうるさいけど」
「取り巻きって過激派でしょ? 最近あんまりエリス様と一緒にいないらしいよ」
自称情報通のシンシア曰く、エリスはすっかり貴族穏健派になってしまったらしい。元々彼女は私に文句を言うくらいで、仕事は真面目にこなしていたそうだ。そのかわり、苛烈さのなくなったエリスでは過激派の統制は行えず、過激派がエリス派から分離しつつあるそうだ。
「過激派はちょっと目に余るよねぇ。仕事全然しないしー」
「そうなの?」
「この前ニコに迫ってたらしいよ、パーラーメイドこそ私に相応しい! って感じで」
「え、ニコに?」
「そうだよー、怖いもの知らずだよね」
ニコレッタは平民派に属してはいるが、実はどこぞのお偉いさんの庶子である。父に溺愛されている彼女が行使できる力は、庶子ながら存外にも大きい。平民派では公然の秘密であったが、貴族派にはその情報がまったく伝わっていないようだ。
ちなみにニコレッタ本人の性格も、穏やかに見えて怒らせると怖いと評判だ。そもそも、ニコレッタの笑顔以外の表情を見たことがあるメイドがいないので、真偽は不明だが。でもそれが、逆に恐ろしい。
「ニコはお母さんもその道では力のある人だからさぁ、メイド減っちゃうかもね。物理的に」
「……お母さん、何者なの?」
「えーっとね……詮索しない方がいいと思うよ?」
「あー、うん。聞かなかったことにする」
取りあえず、コールス家のメイドが物理的に消えないことを祈った。
□
ジェイデン様の私室はいくつかある。大きな机とソファーが置いてある執務室、ベッドとクローゼットのある寝室、大量の本が立ち並んでいる書庫だ。よくよく考えてみると、この屋敷はジェイデン様の持ち物なのだからすべてがジェイデン様の部屋と――は言えないな、私たち使用人の部屋もあるのだし。まあ彼がよく出没するのはその3部屋くらいだ。食事も執務室でとることが多いので、屋敷で働いていても彼と遭遇することは少ない。
少ないはずなのだが――。
「何やってるんですか、ジェイデン様」
私は思わず持っていた竹ほうきを取り落としそうになった。
コールス家の屋敷には、それはもう立派な庭がある。季節の花々が咲き誇り、人々の目を和ますまでになったのはひとえに庭師とその他使用人の努力の結晶であった。暑い赤の月に、何度も駆り出され熱中症寸前になりながらも手入れを行った庭は、今では荒れ果てていたことが嘘のような美しさを誇っている。
そんな庭の銀杏の木の下にぽつんと置いてある石でできたベンチの上に、我らが旦那様は足を投げ出し眠りこけていた。
確かに黄の月になり気候は穏やかで、そよぐ風は転寝してしまいそうになるほど気持ちがいい。だからといって、屋敷の主人が外で転寝とはどういうことだろうか。白いシャツに黒いボトムスだけの比較的ラフな格好をしているジェイデン様に、黄色に色づいた銀杏の葉が降り注ぐ光景はまるで一枚の絵画にでもなりそうな美しさだ。ジェイデン様とは頻繁に顔を合わせていたのですっかり慣れてしまっていたが、ふとした拍子でそういえばこの人イケメンだったと思い出させられる。
このまま見惚れていても埒があかないので、彼を揺り起こそうと近づくが、手を伸ばした瞬間にその手が乱暴にからめとられた。
「わっ」
そのまま引き倒されるようにして銀杏の絨毯に沈む。私を押し倒した張本人はいまだ寝ぼけているようで、目の焦点が合っていない。
「ちょ、ジェイデン様?」
その体勢のまま何度か名前を呼ぶと、ようやく私へと視線を向けた。
「……リーコ?」
「はい」
「こんなところで、どうしたんだ」
「いえ、どうかしているのはジェイデン様の方ですよ」
「そうか」
「そうか、じゃなくって、早く退いていただけませんか?」
「いや、こうしてリーコの顔をまじまじと見るのは、初めてのことだと思ってな」
「そりゃあこれだけ至近距離にいるなんて普通じゃありませんから。早く退いてください」
「そうか、残念だな」
何が残念なのかはわからないが、そういってジェイデン様は静かに私の上から退く。平静を装っていたが、私の心臓は今までにないほど激しく動き回っていた。彼に悟られないように小さく深呼吸をして、息を吐く。
「つまらないな、慌てふためく顔を見れるかと思ったが」
「ジェイデン様は私に何を求めてるんですか……」
「冷静な女がいれば、それを乱したいと思うのが男だろう」
「それが世間一般でいう男ならば、この世界の男は随分と性格が悪いのですね」
「知らなかったのか。私は性格が悪いんだ」
ジェイデン様が、見惚れるくらい美しくほほ笑む。
「そんなことより、どうしてこんなところで寝てらしたんですか」
「魔力を使うとどうしても眠くてな。それに、ここはいい風が吹く」
「疲れたのならお部屋でお休みください」
「俺の屋敷だ。どこで休もうと俺の勝手だろう」
「結界魔術師ともあろうお方が、不用心では?」
「用心はしているさ。それに、その用心にかかった者が目の前にいるしな」
「あーはい、なるほど。ジェイデン様の用心深さはしっかりと理解しました。他のメイドが引きずり倒される前に、お部屋でお休みすることをおすすめします」
ジェイデン様の軽口を流しながら、投げ出されていた竹ほうきを拾う。私が掃き掃除を始めると、ジェイデン様は石造りのベンチの上へと腰かけた。
銀杏の葉は掃いても掃いても次々と上から降ってくる。木にまで馬鹿にされてるみたいで少し腹が立つ。乱暴にほうきを振り上げると、風にめくられて黄色い雪のようにはらはらと舞い上がる。それを見上げてため息を吐くと、ジェイデン様がくすくすと笑いだした。
「……何ですか?」
「いや、随分と子供のような遊びをするものだと思ってな」
「遊んでるんじゃありません、掃除してるんです!」
「そうだったのか。俺はてっきり、リーコが仕事を放棄したのかと思ったぞ」
「掃いても掃いても落ちてくるんじゃ、キリがないですよ」
「どれ、手伝おう」
そういってジェイデン様が何かを小さく呟くと、彼の足下に翡翠色をした光が輝く。
「目を閉じていろ」
光がはじけた瞬間、銀杏の木を中心にゆるやかな風の渦が現れ、黄色の絨毯がふわりと空へと巻き上げられる。そしてジェイデン様の前へとひらひらと舞い降りて、こんもりとした黄色の山ができた。
「……便利ですね、魔法って」
「目を閉じろと言っただろう。砂も一緒に巻き上げるからな。目には入っていないか?」
「えぇ、大丈夫です。ありがとうございます」
「髪が乱れてしまったな」
そういってジェイデン様は私の前髪を手で梳く。私は無言でその手を払いのけた。
「……何故だ」
「いえ、何となく……」
「何となくで君は主人の手を払い落とすのか」
「いえ、あの……」
「ルッツには気安く触らせていたというのに」
「ルッツ様は何か別に、そんな感じなので。それに、こういうことには慣れておりませんので……」
「慣れろ」
「え、何でですか」
「……俺とて、リーコを可愛がりたい」
とうとう耳まで真っ赤にしたまま何も言えずに黙り込んだ私に、ジェイデン様は満足そうな笑みを浮かべて髪に手を伸ばした。




