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ノースの街には小川が何本も流れている。白の月には凍結してしまうが、赤の月には子供たちの恰好の遊び場にもなっていた。
ここ数日仕事にマナーのレッスンにと忙しい生活を送っていた私にも、ようやく休日がやってきた。コールス家のメイドは7日に1度の休みが与えられているが、最近は密度の濃い日々だったため休みまでの数日がとても長く感じた。
靴を脱ぎ捨て、小川に足をつけるとひんやりとして気持ちがいい。旦那様の冷却魔術も中々だが、こうした涼の取り方も悪くはない。日々の疲れを取るために、そして灼熱の赤の根源から僅かでも逃れようと、スカートをたくし上げて小川の奥に進んだ。
「リ、リーコ! お前何やってんだよ」
どれくらい経っただろうか。背後から聞こえたリトの怒声にふと意識を現実へと引き戻された。そういえば自分は、リトとの待ち合わせをしていたことを思い出す。早く着き過ぎたために時間を潰していたのだが、心地よい空気に本来の目的をすっかりと忘れてしまっていた。
「ああ、リト。早かったね」
「そんなことどうでもいいから、早く上がれよ!」
靴を脱ぎ捨てて下ばきを塗れることを厭わずに私を岸へと引き戻そうとするリトに、首をかしげる。
「お、女がそんな足を見せるな!」
彼の言葉に、そういえばこの世界は女が足を晒すことをはしたなく思う風潮があったことを思い出す。女性の衣服は大抵ふくらはぎから足首程度の長さのスカートである。足を大きく露出しているのは、路地裏の娼婦くらいだった。
「ああ、ごめんごめん。見苦しいものを見せたね」
「そういうことじゃねぇよ!」
「じゃあ、いいもの見たね?」
「はっ!? バカかよ!」
リトの口やかましいお説教を聞き流しながら岸辺で足を拭いて、靴を履く。少しまだ湿っている気もするがこの天気だ、そのうち乾くだろう。
濡れた下ばきの裾を絞るリトを急かして、アメリアさんのお店へと足を運ぶ。開きっぱなしの扉をくぐると、アメリアさんが退屈そうにカウンターに頬杖をついている姿が見えた。
「こんにちは」
「あら、いらっしゃい」
振り返ったアメリアさんが手を振ると、カウンターの奥に置いてあった四角い箱がぱかりと開き、おしぼりが飛んでくる。それを危なげなくキャッチすると、ひやりとした冷たさを感じた。
「あれ、冷却の魔道具ですか?」
「そうなのよ、思い切って買っちゃったわ」
おしぼりを顔で受け止めたリトが騒いでいたが、それを無視してアメリアさんの隣に腰かける。
「ちょっと、見せてもらってもいいですか?」
「いいけど……何? リーコったら魔道具に興味があるの?」
「最近布製の魔道具を作るお手伝いをよくしているので……わぁ、これは直接魔鉱石に紋様が彫刻してあるんですね!」
魔鉱石とはこの国で僅かに産出する、魔力の伝達がしやすい鉱物だ。貴重なものなので値は張るが、鉱物自体が魔力を帯びているため持続時間はは布物と比較すると数倍も保つ。しかしながら、お値段も数倍するものだ。
「高かったでしょう?」
「小型のものだけど、とっても高級品なのよ。私もようやく買ったの」
「効力が落ちたら魔鉱石を交換するんですか?」
「そう、でもその交換用バッテリーも随分お高いのよ」
「私のいた世界でも、こういうものは新品を買うのと同じくらいの値段がする場合もありましたよ」
「どの世界の商人も儲け方は同じなのね」
アメリアさんが長い髪を一つにまとめながらため息を吐く。
「夏になると、元の世界が恋しくなるわ。氷なんて、向こうでは安く手に入ったしここはクーラーもないもの」
「アメリアさんのいた世界は、私がいたところと結構似てますよね」
「そうね、俗にいうパラレルワールドなのかも。日本もあったわよ、行ったことはないけれど」
「超能力が存在する日本……何だか想像できませんね。漫画みたい」
「漫画……ジャパニーズカルチャーね。私からしてみれば、この世界も漫画のように感じるわ」
二人でクスクス笑っている間に、放っておかれたリトはすっかり拗ねてしまっていた。アメリアさんの夫であるマスターになだめすかされながら、じっとりとした視線でこちらを見ている。
「何よ、リト」
「別に」
「まあまあ、リトくん。女性とはそんなものですから」
マスターは長身で、アメリアさんよりもだいぶ年上の男性だ。物静かでいつも穏やかな笑みを浮かべていて、私はこの人が怒っている姿を一度も見たことがない。私がそういうとマスターは決まって「アメリアが僕の代わりに怒ってくれますから」と優しい顔をするのだった。
「で、どうなんだ」
「何が?」
「仕事に決まってんだろ」
「ああ、仕事ね。順調順調。給料は高いし、そんなに重労働でもないし。人間関係も……順調、かなぁ……?」
「あぁ? なんだぁ、その煮え切らねぇ答えは」
「いびられでもしてるの?」
アメリアさんとリト、二人に挟まれるようにして覗き込まれるので少し腰が引けてしまう。
「いびらいれっていうか、何かメイドに激しい人がいてさ」
「メイドっていうんなら立場は同じだろ?」
「いやいや、貴族のご令嬢らしくてさ。私が旦那様に引き抜かれたのが気に食わないみたい」
「お貴族様か……」
「実害は?」
「ないない。ちょっと文句言われたりとか。それ以上する度胸もないって感じ」
リトがアイスティーのグラスを両手で抱え込む。アメリアさんはテーブルに肘をついて、面白そうにそんなリトを眺めていた。
「まあ、リーコなら大丈夫でしょう」
「あーうん、多分大丈夫」
「どうしても辛くなったら私に言ってね。どうにかしてあげるわよ?」
アメリアさんの言うどうにか、は大抵が物理的などうにかである。さすがに女性相手に物理的行使はやめてあげてほしい。
□
昼からリトには仕事があるため、軽食を済ませてアメリアさんの店を出た。大通りへ向かう途中、リトがぽつりと呟く。
「お前は大丈夫だって言ってたけど……」
これは多分さっきの屋敷での人間関係の話の続きだろうか。そういえばあれからリトは、何かを考えるかのようにむつりと黙り込んでしまっていた。
「リーコがどうしても駄目だってなったなら、俺がどうにかしてやるよ」
そういってやわらかくほほ笑むリトに、不覚にも見とれてしまった。こちらを見つめるリトが不思議そうな顔をしたが、しばらくして自分が何を言ったのかを自覚すると、耳を赤くして視線を逸らす。ばか。言った本人にまでそんなに意識されると、私まで、もっと気恥ずかしくなるじゃないか。
「…………ありがと」
何とか言葉を絞り出して、それから私たちは互いに耳を真っ赤にしたまま、宿屋までの道を黙って歩いた。
「じゃ、仕事頑張って」
「……おう」
最後まで目を合わさなかったリトを見送って、私は商店を見て歩く。元々休みは街で買い物をするつもりだったが、たまたまリトと時間が合ったためランチでも、という話になっただけのことで、本日の目的は買い物が主役である。
リトとのやり取りを思い出すと、まるで自分たちが思春期の子供になったような気分になってしまう。リトの言葉は真っ直ぐすぎて、日本では上っ面だけの人間関係しか築いてこれなかった私には毒だった。
雑念を消すように頭を振り、目の前の商品に集中する。深い赤の色をした組み紐は、シンシアの髪によく合うだろう。
赤の下月はシンシアの誕生日である。この世界の人には誕生日という概念がなく、誕生月にお祝いをする習慣がある。赤の下月に生まれたのなら、その月の一番最初の日にお祝いをするのだ。何だか学校で誕生日の人間をその月にまとめてお祝いするのに似ている気もする。
この世界には魔物から採集できるゴムのようなものがあるが、組み紐と比較すると値が張るし、いつでも手に入れられるようなものでもない。だから私は、シンシアに組み紐とピンで取り付けられる髪飾りをプレゼントするつもりでいた。
幸い旦那様は使用人が着飾ることについては悪く言わない。メイドの中にはカチューシャのようなホワイトブリムをつけてはいるが、髪は毎日きれいに編み込まれていて、真珠のような髪飾りをつけている者だっている。言わずもがな、彼女なのだが。
平民出身のメイドだってホワイトブリムを抑える紐を色鮮やかなものに変えたりと、制服という限られた服装の中で自分なりのおしゃれを楽しんでいた。ちなみに私のホワイトブリムには、暇つぶしに白い糸でコールス家の紋章と蔦飾りを刺繍している。もっとも白い布に白の糸のため、余程近づかないとわからないものなのだがシンシアをはじめとした仲のいいメイドたちには好評で、紋章と本人が希望する蔦飾りを刺繍したものだ。
「これと、これお願いします」
組み紐と数枚の厚い生地を少しだけ買い、屋敷へと戻る。髪飾りはつまみ細工のような花を自作するつもりだった。赤の下月まで時間はないが、小さな細工ならば今日の残った時間を使えば完成するだろう。シンシアの喜ぶ顔を想像しながら、浮かれた足取りで使用人用の扉をくぐった。




