10
赤の月は草木がよく生い茂る。日本と違って湿気は少ないが、照り付ける太陽は容赦がない。そういえばこの世界では太陽のことを赤の根源と呼ぶらしいな、とキッチンメイドから解放された私は庭の草をむしりながら独り言ちた。
ちなみに月のことを白の根源とも呼ぶらしい。季節の名前になぞらえているのならば、緑と黄の根源も探せばどこかにあるのかもしれない。そんな無為なことを考えて時間を潰すほど、草取りに飽き飽きしていた。これが日本ならば除草剤で一網打尽にするところだが、ここは異世界、そんな訳にもいかない。同じように草取りに辟易しているシンシアに視線を向けると、彼女はどこか虚ろな表情で地面を這う虫を眺めていた。
「大丈夫?」
「……むりかもー?」
庭師や下男がいることはいるのだが、いかんせん何年も放置されていた屋敷だ。主人の部屋や客間から見えるところはきれいに整備されていたが、人目につかないところは雑草が生い茂っている。客人が来るというので目に見えないところにすら気を使わなければならないと張り切ったメイド長によって、数日前から私たち数人のハウスメイドは土いじりに駆り出されていた。
「シンシアさん」
「はーい」
「お疲れのところ申し訳ないのですが、私は旦那様に呼び出されているのでこれで失礼しますね」
「あ、ずるい!」
シンシアのジメッとした視線を無視して自室へと向かう。濡らした布で身を清めて、清潔なメイド服に袖を通す。5日に一度ほどの頻度で、私は旦那様の私室へと呼ばれていた。
すれ違ったエリスから向けられる殺気のような何かを無視しながら、旦那様の私室をノックする。すると旦那様自ら扉を開き、私を招き入れる。失礼します。今日も頼む。こんなやり取りを行うのも、もう何度目だろう。両手の数で足りる程度だが、私は旦那様と二人きりで過ごす時間に順応してしまっていた。
「寒くはないか?」
「最高の温度です」
屋敷の主要な部屋の中は旦那様の魔術によって冷やされているので、快適に過ごせる。本来ならば自室だけで十分なはずなのに、お優しい旦那様は私たち使用人のことを慮って冷却の魔法を屋敷全体に展開していた。いくら微弱ら冷風とはいえ、並みの魔術師なら数日で魔力が枯れ果ててしまう。だがそこは宮廷魔術師、魔道具を用いているとはいえほぼ毎日この魔術を展開している。
といっても、ロバートさんやメイド長が旦那様のお体を案じて進言したため、特に暑くなる日中のみの異世界冷房である。それでも過ごしにくいこの季節、一番暑い時間帯が苦にならないのは幸いだった。ちなみに今もシンシアたちが作業している庭園はその限りではないのだが。
「今日も、冷媒ですか?」
「そうだな、本来ならばリーコたちの部屋にも置きたいところなのだが」
「そんなに自室は使いませんし、不要ですよ」
冷却魔術の魔道具のことを、私たちは冷媒と呼んでいた。これを各部屋に置くことで、旦那様がその場にいなくても魔力を感知して冷却魔術を展開することができる。部屋の大きさによって少しばかりサイズを変えたりするのが手間ではあるが、暑い赤の月を乗り越えるためならば僅かばかりの手間も惜しむつもりはなかった。
「廊下に置いたのならば、付属する部屋が冷えるのではないかと思ってな」
「では、今日のは結構大きいサイズになるんですか?」
「リーコには負担かもしれないが、頼めるか?」
「もちろんです」
一片が1メートルほどの布を渡されて、少しずつ刺繍を施していく。幸い、冷媒の紋様は簡単なものだ。これは魔力と術式を表すものではなく、あくまで座標を指定するものらしい。貴族が衣服や布団に術式を付与するものならばそれ単体で赤の月を快適に過ごせるものもあるのだが、紋様が複雑でどう考えても丸2日はかかりそうだった。
何部屋もの冷媒を刺繍してきたせいで、既にこの紋様がどういったパターンで描き起こされているかを理解していた私は、見本すら見ずにがむしゃらに針を進めていく。こういった大きな紋様はどうあがいても1本の糸をすべてつなぐことはできない。時折コールス様に魔術で糸をつないでもらいながら、1枚を2時間程かけて、2枚の冷媒が完成した。
刺繍が終わると、エリスの入れたお茶を飲みながらしばし旦那様と言葉を交わす。エリスは旦那様が魔術で呼ぶのだが、お茶を入れ終わるとすぐに退室してしまう。これは後からエリスに旦那様への言葉遣いなどをぐちぐちと責められるからだ。一度言われた通りに言葉遣いを改めたのだが、不自然な私の言動に旦那様がすぐに気づき、理由を問われたところ次回からこの時間にエリスの同席はなくなった。
旦那様は「リーコはリーコの言葉で話せばいい。公的な場ならともかく、俺との会話など気を遣う必要はない」と言ってくれて、私の中の旦那様の株が上がった。
旦那様と私の会話は他愛のないことばかりだ。どうやら彼は私をこの屋敷に連れてきたことに責任を感じているらしく、随分と気にかけてくれる。最初の頃は困っていることはないか、食事は口に合っているか、何か必要なものはないか、そんなことばかり聞くので、私は親戚のお兄さんと話している気分になってしまった。そんな親しみを感じてしまっているからだろうか、自然と私の口も軽くなる。
「そういえば、お客様が見えられると耳にしました」
「ああ、学生時代の友人だ。魔術においては実に優秀な男でな。リーコの魔道具を見たいと言っていた」
「わ、私ですか?」
「魔道具の研究をしているから、リーコの話になったのだ。うちにも優秀な裁縫士がいると。リーコに会いたいとも言っていた」
「あの、旦那様のご友人とお会いするのは憚ります……私は、礼儀作法が未だにメイド長から及第点をもらっていないので、お客様の前には出せないと言われておりますし」
「そんなことを気にする狭量な男ではない、安心しろ」
旦那様はそういって笑うが、ただのメイドである私にとっては気が気ではない。旦那様のご友人――更に学校に通うほどの地位ならば、貴族で間違いないのだ。しかも優秀で国に仕えているとも聞く。そんな人間に粗相をすれば、物理的に首が飛ぶのは間違いない。
「えーっと、その、辞退とかは……」
「さて。俺もわざわざ遠方から来る友の願い聞き届けてやれんのは遺憾だが」
「できませんよね、はい」
「まあ取って食われる訳でもない。あいつは話のわかる奴だ、気楽に接すればいい」
「いえ……メイド長に頼んで、マナーのレッスンを増やしてもらいます。口添えをお願いしてもいいですか?」
「リーコの自己研鑽に励む姿勢には頭が下がるな」
「むしろ今までの研磨が足りてなかったので、現在困っているんだと思いますが」
ふふと旦那様が笑みを漏らす。
「しかし、リーコが我が友のために努力を費やすというならば、何か褒美を与えねばな」
「え? いや、コールス家のメイドとして恥じないレベルのマナーを身に着けていなかった私を罰する方が先だと思いますけど」
「何も俺は完璧は求めていない。人には得手不得手というものがあることを、しっかり理解している」
それって暗に私が礼儀作法においては才能がないって言ってませんかね。
「……まあ、できないはできないなりに精進します」
「楽しみにしておく」
旦那様をぎゃふんと言わせれる程度のマナーは身につきそうにないが、取りあえず首が飛ばないように頑張ろう。心の中でそう決意した。




