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 ざらつくシーツをこする手を休めて、白い息を吐く。冷たい水にさらされた両手は赤く染まり今にもギシギシと音を立ててしまいそうだ。きっと、去年の冬みたいにぱっくりと割れてしまうだろう。

 洗濯機が恋しい。ボタンひとつで勝手に乾燥までしてしまう機械があることを、この世界の人たちは知らない。せっかく魔道具とかいう原理のよくわからない物が存在しているのだから、頑張って発明して市民の生活をもっと楽にしてくれればいいのに。

 そんな何の役にも立たない愚痴を心の中でこぼしながらも、私の両手は小慣れた様子でシーツを洗濯していた。だってもうこんな生活を3年続けているのだ。


 私が日本という平和な土地からこの辺鄙なノースと呼ばれる街に移住して、もう3年も経っていた。

 3年前、突然街に現れた私に対してのこの街の人たちの反応は薄かった。こう、異なる世界から人間が来たのならもっと色々な反応があってもいいはずだ。なのに私の話を聞いた屋台のおじさんはこういった。


 また落ち人か。うちの国では保護とかそういったのはやってないから、早めに働き口を探したほうがいいよ。


 なんでもおじさん曰く、私のように異なる世界からやってきた人間――落ち人の数は多く、年に2,3人ほどいるらしい。

 初めは国も異なる技術や知識を取り入れようと落ち人の保護をしていたが、この世界の女神である存在がそれを禁じ、落ち人が携わった世界を揺るがすような代物――銃器や兵器――はこの世界ではまったく動かない、ただの武器の形をしたガラクタになってしまった。そしてそのついでとばかりに、家電製品を模した魔道具も無用の長物になってしまったらしい。


 女神様曰く、文明を保護するためらしいがこの事件のせいでこの世界の文明は100年遅れたと言われている。何故なら、この世界の人たちがいずれ自力でたどり着きそう発明さえ、落ち人が口にしたのなら設計通りにつくっても動かなくなってしまったのだから。


 余談だが女神は確かに存在しており、女神教上層部の人間はそのお姿を拝見した者もいるらしい。

 なのに落ち人が存在し、更に元の世界へと帰れないのは、私が思うに女神の怠慢なのだろう。


 シーツを洗い終わった冷たい手で、次は宿泊者の衣服を洗う。

 私がこの世界に落ちてから数日、先住していた他の落ち人の助力を得て私はノースの街の宿屋に住み込みで働くことになった。

 当時女子高生だった自分に下働きなどとても耐えられそうになかったが、ここを断るともっと条件の悪い仕事か、あるいは身売りしかなかった。渋々とした様子で働く私への女将さんの折檻は辛かったが、今となっては甘ったれた自分を矯正してくれたと感謝さえしている。

 庇護され安穏と暮らしてきた日本人の考え方では、この世界で生きるには難しすぎたのだ。



「おーい、これも洗ってくれ」

「はい!」



 客から追加の衣服とチップを渡される。この宿では衣服の洗濯を表向きは請け負っていない。しかし宿の人間に少しばかりの金を渡せば、大概の者が喜んで汚れた下着すら洗った。

 ノースの街一番の宿屋を営む女将は太っ腹だ。自分の仕事をきちんとやるのなら時間外の労働も黙認してくれるし、チップを取り上げることもなかった。


 手早く洗濯を終わらせ夕食の仕込みへと入る。毎日50人程が利用するこの宿屋は、仕込みすら戦場のように忙しい。

 厨房の裏手で大量の芋を向く同僚のマリーの横に腰掛け、私も包丁を持った。



「今日の客、かなり羽振りのいいのがいるよー」



 赤褐色の髪を一つにまとめたマリーがにやりと笑う。



「まじで? どこの客?」

「1番」

「離れに客入るの久々だねー」

「なんてったって伯爵様らしいからね。そりゃあチップも銀貨じゃらじゃらですよ」



 この世界における銀貨は日本円でいう一万円札ほどの値打ちがある。ちなみに私たち住み込みの下働きの一か月の稼ぎは、チップを除けば銀貨は5枚ほどだ。



「1番の部屋誰がついてんの?」

「ミザリー」

「あーまあうちの店では一番のお貴族様受けするよね」

「ミザリーは今夜一晩で何か月分の給料稼ぐんだろ」

「廊下でうろうろしてたら用事を言いつけてくれたりしないかな?」

「同じ考えの人間が既にわんさかいて、既に担当以外1番の部屋への接近禁止命令が出たよ」

「ミザリー一人勝ちか……」



 せわしなく口を動かしながらも私たちの手は素早く芋の皮を剥いていた。ミザリーのことを羨んでも仕方ない。美貌と教養のある彼女に代わって私が1番の部屋に赴いたら、お貴族様相手にどんな失態をしてしまうかわからない。そうなったら、打ち首になってもおかしくない世界なのだ。

 芋をむき終わった私たちは座っていた木箱を机がわりに、膝立ちでキャベツに似た葉野菜を千切りにし始める。



「そういやこの街の魔術師変わるって知ってた?」

「え、あのじいさんどうしたの?」

「死んだって」

「へー」



 魔術師は各街に一人必ず常駐している。数日に一度、街を守るための結界を張り巡らすのだ。その結界のおかげで、街には魔獣と呼ばれる化け物が近づくことができないらしい。

 魔術師は街を覆うほどの魔力と高い知識が必要な仕事だが、それ以外は自由にしていいし、王都から派遣されるので給料もべらぼうに高いらしい。毎日せっせと床を磨いたり芋を剥いている身としては羨ましい限りだ。



「ぺちゃくちゃくっちゃべってる暇あったらこれ剥いてくれ!」

「うるさいなーちゃんとやってるよ」

「お前らの声こっちまで筒抜けなんだよ。あんましゃべってると親方から怒られるぞ」

「はいはーい、気をつけまーす」



 料理人見習いのリトが私たちの横に木箱をどんと置いて呆れたようにため息を吐く。



「そういやリーコ、今日の廊下の掃除お前?」

「私とアンナだよ」



 理依子(りいこ)、私の名前をこの世界の人はリーコとしか発音しない。アクセントが日本にいた頃と違って、最初の頃はまるで他人の名前のような気がしていたが、今となってはすっかり馴染んでしまっている。



「ほうき置きっぱなしだったってエディが怒ってたぞ」

「え、女将さんにバレてない?」

「多分な。あとでエディにお礼言っとけよ」

「エディ様々です。足を向けて寝られないよ」

「隣の部屋なのにどうやって足を向けるんだ? お前の寝相はそんなにアクロバティックなのか?」

「ものの例えよ」

「冗談の通じない男ってやーね」



 マリーと囃し立てるようにくすくすと笑うと、リトは面倒臭そうに眉をひそめる。女たちにからかわれるのも、リトは慣れっこになってしまったようだ。



「とにかく、これ頼んだからな」



 それだけ言い残してリトは剥かれた芋を持って厨房へと姿を消す。



「何の話してたっけ?」

「リトのせいで忘れた」



 追加された野菜を剥きながら、私たちはまた毒にも薬にもならない話に花を咲かせるのだった。



 ◻︎



 昼過ぎに目がさめた。今日は休みのため寝過ごしてしまったから、同室の3人は誰も姿が見えない。従業員用の宿舎の裏手にある井戸で顔を洗い身支度を整えると、宿舎内にある食堂へと向かった。

 今日の朝食――といっても既に昼食の時間だが――くず野菜のスープに、すこし焼き色が付きすぎたパン、ささやかなハムだ。うちの宿には大きなオーブンがあるが、どうしても焼きムラが出てしまう。そんなものは全て私たちの食事へと回されるのだ。少しばかりこんがりしすぎていても、ここのパンは日本で食べるのと変わらないくらいにおいしかった。

 部屋に戻りわずかばかりの自分のスペースを掃除して、布団を干すと時間を持て余してしまった。おしゃべりの相手もいないことだし、買い物にでもいこうと財布代わりの小さな皮袋を持って街へと出た。


 外出の際は、この宿の人間である証の角を生やしたうさぎ――これはこの国で信仰されている聖獣のひとつらしい――のような動物が銀糸で刺繍された赤いスカーフを身につける必要がある。

 これは敷地内で仕事をしている時も客への目印のために巻くものだが、新規顧客獲得のために外でも宿をアピールしろと女将さんからいいつけられているのだ。それに客が街で迷ったり困ったりした時にもわかりやすい目印になる。

 他の宿もやっている行為なので、街に出ると銀糸の紋章の入ったスカーフを見て案内を頼まれることもあった。宿はランクごとに金、銀、赤、黒と色分けされているので旅人も自分の泊まれるクラスの宿が探しやすい仕組みだ。ちなみにノースの街には金の宿がないため、貴族やお金持ちは唯一の銀の宿であるうちを利用することがほとんどだった。

 休日に客の対応することも多々ある。もちろんチップはもらえるが、つまるところ休日も完全なる休みではない。世知辛い世界だ。



「あ、リーコ! ちょうど良かった!」



 のんびりと露店を眺めていると買い出しに来ていたらしいリトに呼び止められる。彼の隣にはローブを纏った長身の青年が立っていた。



「こちら、コールス様。しばらくうちに滞在されるらしい」

「ご利用ありがとうございます。コールス様が快く滞在されますようお勤めいたします。なんなりとお申し付けください」

「それで、コールス様はこの街にきたばかりらしい。主要施設を案内してくれないか?」

「私が?」

「俺は裏方だから接客については最低限しか指導されてないし、コールス様のお荷物を宿にお届けするんだ」

「……かしこまりました。恐縮ながら、この理依子がご案内させて頂きます」

「ああ、すまないな。頼む」



 リトと会話しながら横目でコールスという人物を観察する。服装はかなり上等なものだ。おそらく大商人か貴族。稼いでる冒険者というわけではないだろう。お上品すぎる。つまりかなりの地位、失礼をしたら首が飛ぶレベルの人間だろう。

 しかしながらそんな地位の人間が供もつけずに荷物を持って出歩くのもおかしい。そういう金と権力を持て余している人間は、ドア・トゥ・ドアの生活が基本だからだ。

 細い体躯から見るに、騎士の線は薄い。明るい金髪に碧眼、目がさめるような美丈夫だがその瞳は鋭い。もしかしたら魔法騎士かも、とそこまで考えてマリーとの会話を思い出した。

 この人、多分新しい魔術師だ。



「どこかご覧になりたい場所はありますか?」

「取り敢えず主要施設と、あとは魔法関連の店を知りたい」

「かしこまりました」



 頭の中でこの街の図書館、お役所のような施設数カ所、神殿、そして魔法書店、魔法具店、薬草店などの最短ルートを弾き出す。

 既にこの街のありとあらゆる道は頭の中に叩き込んである。通る時に注意が必要な場所や、後ろ暗いところだって今は案内できる。いや、しないけど。



「では、まずは近場のお店からご案内いたしますね」



 コールス様の希望を聞きながら、全ての目的地の案内が終わる頃には日が随分と傾いていた。

 本来ならばそのまで大きくない街、二時間もあれば終わるはずだったがコールス様はどうも魔法関連には目がないらしく、途中で寄った穴場の魔法書店に長時間引っかかったりと目的を忘れてしまいがちなお人らしい。

 小腹が空いたと屋台で軽食を買う際には私の分まで買ってくれたりと悪い人ではないのだが、興味を惹かれたことにはのめり込んでしまう、とご本人が恥ずかしそうに言っていた。



「随分と君を連れ回してしまった。取っておいてくれ」



 宿の前でコールス様から受け取った皮袋の中には、銀貨が20枚ほど入っていた。てっきり銅貨だと思い込んでいた私はそれを目の前に、自室でひっくり返りそうになった。


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