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《促進能力》の異界獣  作者: やなぎ怜


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(4)

 アムドラルスの家に来てからの鞠理の仕事は家の仕事をすることと、畑の世話の手伝いであった。そこに朝夕の料理の手伝いが挟まる。こちらの世界の人間は昼食は食べないらしい。もとから鞠理は小食であったのでその辺りの文化の違いはあまり苦にならなかった。


 だが当然ながら昼に食事をする習慣がないと言うことは、朝と夕に大量の食事を摂るということを意味していた。


「マリーは食べなさすぎだな」


 大量の食事を前に「こんなに食べられない」と言えば、アムドラルスからはため息まじりにそんなことを言われる。しかし食べられないものは仕方ない。


 すでに鞠理がこちらの世界に来てから一ヶ月半ほどが過ぎようとしていた。そんな中でアムドラルスもそれらの事情は承知しているはずなのだが、彼の小言がやむことはない。


 鞠理はそれを半ばうっとうしく思いつつも、反面うれしいという感情も抱いていた。だれかに気にされたり、気づかわれたりするのが彼女にとっては新鮮で、それでいて心がほっと温かくなるような安心感を覚えるのである。その感覚は不快なものではなかった。


「これでも最初より食べてるよ」


 そうなのだ。畑仕事を手伝うようになって以前より体を動かすようになったせいか、これでも鞠理の胃は以前よりも大きくなった方なのである。


 鞠理にそう言われてしまうとアムドラルスも納得せざるを得ない。だが「でもなあ……」と苦言を呈したがっているのは明らかで、鞠理はそんなアムドラルスから逃げるように朝食を終える。


 席を立った鞠理の背にアムドラルスの声がかかった。


「おっさん、今日は村の方で売り物出して来るからな。留守番頼んだぞー」

「はーい」


 こんなやり取りも一ヶ月半という月日の中ですでに板について来ていた。


 アムドラルスはこうして畑で採れた野菜や、森で狩って来た獣などを売りにパータの村へと降りて行く。これだけで生活がしていけるのかと鞠理はおどろいたが、どうやらこれ以外にもアムドラルスには仕事のあてがあるようであった。


 この世界には「依頼斡旋所」という施設がいたるところにあり、要は日雇いの仕事を請けることができるらしい。アムドラルスはどうも村のはずれにある丸太造りの家で生活するあいまに、そうしたところで仕事を請け負っているようであった。


 ただ、そこには鞠理は連れて行ってもらえない。当り前だ。なんら能力を持たぬ小娘を連れて行ったところで足手まといにしかならないのだから。


 鞠理はそれを頭で理解しつつも、心では暗雲を垂れ込めさせていた。


 衣食住を保証してくれる上に優しいアムドラルスに対し恩義を感じていた鞠理は、しかしそれに報いるには自分があまりにも非力なことに気づいていた。もっとアムドラルスの恩に報いたい。しかし、そんな力は鞠理にはない。


 せめて、《異界獣》の《能力》がわかればいいのに。


 鞠理は何度もそう思うのだが、あの神官が言ったような「導き」とやらは未だ彼女に訪れてはいなかった。


 この一ヶ月半で農耕具の使用に伴う豆ができはじめた手のひらを見やる。そうしても《能力》のことなどさっぱりわからなかった。


 鞠理はあきらめて畑の作物へ水をやるために井戸へと向かう。


 事件はアムドラルスが出かけて行ったその日に起こった。


 鞠理はいつものように畑に入ってしゃがみ込むと雑草を抜き、苗の間引きを行う。そうしてからハーブを入れたジョウロに井戸水を満たすと、虫除けの薬を作物にまく。


 それが終われば隣り合った、昨日収穫が終わった畑へと向かい、土をかきまぜるためにクワを手にする。


「よいしょっ……と」


 収穫時に寄り分けた茎や葉を肥を土の上に放り投げると、クワでそれらを耕すように丹念にまぜていく。そんな単純作業が鞠理は嫌いではなかった。


 たしかに手には豆ができて痛いし、まだ慣れないせいもあって肩や腰は痛むけれど、目的があるというのは楽しいものだ。たとえそれがどんなささいなものであったとしても。


 そうして作業に熱中していた鞠理は気づくのに遅れてしまった。


「ん……?」


 ふいに森の方から草をかきわけるような音がして鞠理が降り返る。小動物のたぐいだろうかと思ったが、どうにも様子がおかしい。


 その音は鞠理の腰よりも上の方から聞こえて来ていたのだ。


 鞠理はアムドラルスの言葉を思い出し体をこわばらせた。


「森にはたまーに魔物ってのが現れる。だからぜったいにひとりで入ったりするんじゃねえぞ。それから魔物が出たらすぐにおっさんに知らせろよ」

「魔物って具体的にはどんな姿をしてるの?」

「ここらに出る魔物の毛の色はだいたい黒に紫のつやがある。それで牙と爪がよく発達してる。なによりも凶暴だ。獲物が目の前にあればところかまわず襲いかかって来る」


 畑を挟み、森の茂みから音の主が姿を現す。その姿を見た瞬間、鞠理ののどをひゅっと空気が通り過ぎていた。


 四足歩行のその獣はかがめた姿にもかかわらず、鞠理のあごの高さほどまでの巨大な体躯であった。密集した黒毛は光を反射し紫の色を放っている。大きく開いた口からは黄ばんだ巨大な牙が顔をのぞかせ、地面をひっかくその脚には鋭い爪が備わっていた。


 そしてそのふたつの黒目は迷いなく鞠理の姿を捉えている。


 鞠理はその場にぬいつけられてしまったかのように、体をこわばらせてしまう。手にしたクワの柄を強く握りしめるが、理性の部分がそれではいけないと強く警告を発する。


 しかし鞠理の本能はすっかりすくみ上がってしまっていた。足の先から腰まで震えが来て、止まらない。そしてその脚を動かすこともできない。


 鞠理はその人生で初めて圧倒的な生命の危機というものに直面していた。たしかに、鞠理は一度は死ぬことを決意した身である。しかしそれは能動的なもので、死の瞬間を自ら決定できるという状況にあった。


 しかし今は違う。死というものが間近にありながら、それがいつ襲いかかって来るのか、鞠理にはわからないのだ。それは圧倒的な恐怖である。


 魔物は鞠理は動かないと見るや、舌舐めずりをしながらゆっくりとその身を寄せて来る。被捕食者をいたぶる捕食者の顔つきに、鞠理はおびえた。その姿は鞠理をいじめていた同級生たちよりもずっと醜悪で、残忍であった。


 単なる狩りではない明確な悪意を感じ取った鞠理は、ただひたすらに身をすくませるしかない。


 逃げなければと思っても、まったく体が動かないのだ。体は芯から奇妙にしびれ切っていて、鞠理の言うことを聞かず筋肉をぎゅっとこわばらせるばかりである。


 魔物の吐息が聞こえるまでふたつの生物は接近していた。


 鞠理の脳裏によぎったのは申し訳ないという気持ちである。アムドラルスの言いつけを守れないという悔しさ。もしこれで自分が死んでしまったとき、心優しい彼がどう思うのか。


 それにまだ鞠理はアムドラルスに恩を返せていない。それが心残りで仕方なかった。


 だが、それよりも強い欲求が鞠理の中に芽生え始めていた。


 死にたくない。


 強い、強い感情だった。


 それは生物の根源的な欲求。


 鞠理が己の意識を鈍化させることで封じ込めて来た本能。


 それが今、殻を破り頭をもたげようとしていた。


 その瞬間、それは唐突に訪れた。


 ――さあ、言葉を力に換えるのです。


 温かな潮流が全身へと流れ込み、冷え切った鞠理の肉体を解して行く。それと同時になにか大きな力が腹の底からわき上がって来るのを鞠理は感じた。


 ――《促進》。


 その単語が鞠理の頭の中に突如として現れた。


 そして鞠理は直感的に理解する。これが、女神リュケネの「導き」なのだと。


 魔物は鞠理に飛びかからんと身をかがめる。そしてするどい爪を携えた脚で地を蹴り、小柄な鞠理へと飛びかかった。


 鞠理はとっさに腕を前に突き出す。そして力を込めてその言葉を放った。


「――《促進》っ」


 その言葉が口から漏れ出た瞬間、体からなにかが抜け出て行くのを鞠理は感じた。それと同時に今眼前で襲いかからんとしていた魔物に変化が訪れる。それらは鞠理の目にはゆっくりと映ったが、実際にはほんの一瞬のことであった。


 まず魔物の毛が急速に艶をなくして行く。脚はしなびたようにしおれて行き、まるで古木のように屈折してしまう。堂々たる牙は急速に縮んで行く体について行けなくなったのか、根本からごく自然に抜け落ちた。


 それらがすべて同時に進行し、魔物はついにはその場に立っていられないほど老いさらばえてしまったのである。


 これが、《能力》?


 鞠理はその場に尻もちをつき、肩で荒く呼吸をする。体に力が入らず、動けない。そのそばでは一瞬にして老いた魔物が苦しげなうめき声を上げていた。


「マリー!」


 ふいに身知った声が耳朶を打ち、鞠理は反射的に振り返っていた。そこには顔の上半分を仮面で隠したアムドラルスが息を切らせて丘をかけのぼって来る最中であった。


「マリー……これは」


 その場に座り込んでいた鞠理を心配して駆け寄って来たらしいアムドラルスは、そのかたわらに倒れる魔物へと鋭い視線をやる。


「おっさん、わたし、やったよ」


 鞠理は喘嗚するようにそう誇らしげに言った。


 その頃には倒れていた魔物は息を引き取ったらしく、苦しげに上下していた胸は動かなくなっていた。


「これがマリーの《能力》……」


 感嘆した様子のアムドラルスは、しかしすぐに我に返って鞠理を抱き上げる。その動作におどろいた鞠理だったが、完全に腰が抜けてしまっているせいで暴れるというようなことはなかった。


「マリー! 怪我はないか?!」

「だいじょうぶだよ、おっさん」

「と、とりあえず家に入るぞ!」


 あわてているアムドラルスが物珍しくて鞠理はつい笑ってしまう。そんな鞠理にアムドラルスは怖い顔をして「笑いごとじゃねえぞ」と言うのだが、顔の半分は仮面に隠れているのだから恐ろしさは半減である。


「ぜんぜん怖くないよ、おっさん」

「うるせー」


 そう乱雑な物言いをしつつも、アムドラルスの手つきは優しい。家に入ると自らのベッドまで運び、力の抜けた鞠理を下ろすと体のあちこちを見やって怪我がないかたしかめる。


「本当に怪我はないんだな? 痛いところは?」

「ないってば。……ただ、すごく疲れた。たぶん、これは《能力》ってやつを使ったせいだと思うけど」

「本当に《能力》に目覚めたんだな」

「うん。神官の人が言ってた『導き』っていまいちぴんと来なかったけど、今ならわかるよ」


 アムドラルスは感じ入ったように鞠理を見る。その視線が少しだけ恥ずかしくて鞠理は目を伏せた。


「それにしても、よくやったなマリー」


 そんな鞠理の頭にアムドラルスの大きな手のひらが乗せられる。


「わ、ちょっと髪が乱れるからやめてよ」

「わはは。褒めてるんだからおとなしくしてろ」

「おっさんのそれって犬猫にするみたいで……」


 鞠理はそこまで言いかけて言葉を切った。整えた髪が崩れるのはいやだが、アムドラルスに頭をなでられること自体はいやではなかったからだ。


「怖かっただろうに、がんばったな」


 こんな風にだれかにほめてもらった記憶の薄い鞠理にとって、アムドラルスの言葉は媚薬のようであった。心のうちに温かいものが現れて、鞠理を体の芯から温めてくれる。


 けれども素直になれない鞠理はちょっと気取ってこう言うので精一杯であった。


「うん。だからもっとほめてよ」

「わかったわかった」


 アムドラルスが屈託のない笑みを浮かべる。それにつられて鞠理も笑った。

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