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《促進能力》の異界獣  作者: やなぎ怜


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1/12

(1)

 天井の高い丸太造りの家に男の野太い声が響き渡った。


「なんじゃこりゃあっ」


 そう言いながら仮面で顔の上半分を覆い隠した中年の男は喉に手をやってせき込む。男のすぐ腰の位置にある机の上には水薬(ポーション)の瓶が転がっていた。そしてでこぼことしたガラス製の瓶の口からは、毒々しい風情の紫色をした液体がこぼれ出ている。


 男の脇に立つ鞠理(まりり)はその姿を見て「さもありなん」といった顔をしていた。


「おっさん、たぶんこれ《促進》させすぎたんだと思うよ」


 あごの先あたりまで伸びた黒髪をいじりながら、鞠理は机に両肘をついて言う。「おっさん」と呼ばれた男は口から舌を出していまだに苦しんでいる。しばらくせき込んでいたかと思えば、ようやっと落ち着いたのか、ぼうっと行く末を見守っていた鞠理へと向き直った。


「おっさんが苦しんでるのにずいぶん冷静だね?!」


 恨みがましげな視線を鞠理に投げる男であったが、仮面をつけているせいでその鋭さは残念ながら半減してしまっている。また、その言葉がさほど本気でないことも鞠理にはよく理解できたから、彼女は呆れた目を男に寄越すばかりである。


「途中まではよかったのに、欲をかいてもっと《促進》させろなんて言うからそうなるんだよ」

「ぐぬぬ……」


 鞠理の言葉に言い返せない男の名はアムドラルス。当年三十九歳と中年に片足を突っ込んでいる男である。


 しかし鞠理はこの男の名を呼ばない。仲間内では気やすく「ラル」と呼ばれていることもしっているが、鞠理はかたくなに「おっさん」と呼んでいた。


 一方のアムドラルスも自らを「おっさん」と呼んでいることもあってか、鞠理のそんな態度を気にした様子はない。


 そういうわけで彼は今日も鞠理から変わらず「おっさん」と呼ばれている。


「安物の水薬を《促進》させるのは良い案だと思ったんだがなあ……」

「ちょっとそれは無理なんじゃない? 《促進》させたやつ、全部色バラバラだし、きっとこれ全部効果違うよ」


 鞠理とアムドラルスは机の上に並べられた水薬の瓶たちを見る。色とりどりに、そしていずれも濁った水薬たちはどうひいき目に見ても毒薬としか言いようがなかった。仮に効能が確かであろうとこの見た目はだめだろう。


 鞠理とアムドラルスはそろってため息をつく。しかしそこにこめられた意味はそれぞれ違っていた。


 アムドラルスは目論見が外れたことへの落胆から、鞠理は能力を使用したことによる疲労から、それぞれ息を吐いたのである。


「おっさん。わたし休むね」

「疲れたか?」

「まあ、ちょっとだけ」


 鞠理はアムドラルスに背を向けると天井の高い家の中に設けられた、中二階への階段を上る。その先にある布で区切られた空間が鞠理に与えられたプライベートな場所なのであった。


 やけに女の子らしい草花の刺繍が施された布を引いて鞠理は床に敷いてある布団へともぐり込んだ。


《促進》の能力に目覚めてから一週間が経った。そのあいだにアムドラルスと共に能力の真価を見極めようと、あれやこれやとああして実験を繰り返しているがやはり能力を使ったあとはどうしても体が疲れてしまう。


 肩に鉛を仕込まれたような重みを感じながら鞠理は薄い敷布団に体を横たえる。そうして少し眠ろうと目をつむった。


「おっさん畑に出てるぞー」


 アムドラルスの声に鞠理は布の隙間から手を出して答える。ややあってから扉の閉まる音が聞こえ、あとには遠く鳥の鳴き声が聞こえるのみであった。


 鞠理とアムドラルスはこの丸太造りの家にふたりで暮らしている。ふたりのあいだに血縁関係もなければ、いずれの縁もなかった。――一ヶ月半ほど前までは。


 鞠理はこの世界の人間ではない。もっと言えばこの世界において厳密には鞠理は人間ではない。《異界獣(いかいじゅう)》と呼ばれる、この世界で信仰される女神の一柱が人に与えたもうた生物なのである。



 鞠理は漠然と死を望んでいた。その世界において鞠理に居場所というものはなかったし、それを作るための力も彼女にはなかった。


 学校に行けば親しい人もなく陰口を叩かれ、物を隠され、なにかするごとに嘲笑を受けた。残酷な同級生に、事なかれ主義の教師。


 家に帰れば両親は仕事をする自分が一番大好きで、鞠理はその「好きなもの」の中には入っていない。無関心な親とのあいだには当然ながら会話らしい会話はなく、鞠理はまるで仕方なく預かっている知人のペットのような扱いを受けていた。


 だから鞠理はこの世から消えてしまいたいと思った。生きている意味を見いだせず、その先に希望も見つけられない。


 中学に上がればなにかが変わるかもしれない。変えられるかもしれない。そんな希望はすぐに打ち砕かれ、鞠理は気がつけばホームセンターでナイロンロープを買っていた。


 学校から家へと帰るその道で、鞠理は明確に死への欲求を覚えたのだ。


 学校から家へ、家から学校へ。その毎日は泥の中を行くようなもので、意味をひとつも見いだせなかった。


 大人になれば変わるかもしれない。変えられるかもしれない。そんな希望を抱かないわけではなかったが、鞠理はそこに光を見いだせなかった。


 きっと、大人になっても同じだろう。職場から家へ、家から職場へ。生物としての最低限の、無意味な日々を送るに違いない。


 だれも自分を気にかけてはくれない。そんな、半ば八つ当たりめいた感情から鞠理は歩を進める。


 死ぬのならばどこで死んでやろうか。家のリビングルームがいいだろうか。いや、どうせなら学校で死んでやろう。あの教室の電灯を吊るしている柱にロープをかけて、そこで首を吊ってやろう。


 そんな算段をしていると頭の中が芯から熱くなっていった。久しく覚えなかった高揚感、それと同時に悔しさが込み上げて来て、鞠理の目からぽろりと涙がこぼれ落ちた。


 ひとつ流れ出るとあとはもう止まらなくなって、鞠理は人通りのなくなった教室前の廊下で泣き出していた。


 拳でぐいと涙をぬぐい、そして腕を下ろす。それからぱちりとまぶたを開けたその些細な動作が、鞠理の世界を一変させた。


「ようこそいらっしゃいました。生命と旅の女神リュケネの贈り物」


 白い布を身にまとった禿頭の老齢の男が一歩前へ出てそう告げる。


 夕日の差しこむ校舎の姿はどこにもなく、あるのは歴史の教科書で見たギリシャの神殿のような白亜の建造物。しかしなかば朽ちかけた記憶の中にある写真の姿とは異なり、その場所は綺麗に掃き清められ、石造りの柱に欠けは認められない。


 巨大な柱と柱の隙間から覗くのは、うっそうと生い茂る森の姿。日は中天に差しかかった頃らしく、燃えるような赤はいずこかへと消えてしまっていた。


「お前、名前はなんて言うんだ?」


 老齢の男の後ろに控えていた顔の上半分を仮面で隠した男が出やると、気安げな調子で鞠理に問う。状況の飲み込めない鞠理はぼうっと二人の男をその双眸に映すのみであった。


「おっさんの名前はアムドラルスって言うんだけど……言葉、通じてるよな?」


 艶のない黒髪に赤銅色の健康的な肌をした男は、わずかに唇の端を引きつらせて言う。その言葉に鞠理は反射的に「あ、はい」と答えていた。


 その答えに満足したのか、アムドラルスと名乗った男は満足そうに腕を組んで何度も頷いた。


「それで、あんたの名前は?」

「……鞠理」

「マリリ……それじゃあ今日からお前は『マリー』だ」


 アムドラルスは屈託のない笑みを浮かべると、彼よりもずいぶんと小さい鞠理に近づく。鞠理は反射的に身をこわばらせたが、頭の上に乗せられたアムドラルスの大きな手は存外に優しかった。


「今日からお前はおっさんと暮らすんだ。よろしくな」


 これがふたりの出会いであった。

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