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あーちょんと世界。

作者: 枕木きのこ

 あーちょんは、いつもひとりです。

 学校が終わると、家には帰らず、夕暮れに豆腐屋さんの奏でるメロディが聴こえ始めるまで、公園のブランコに揺られ、呼応するようにお腹がぐうと鳴ると、ようやく家路につくのです。

 あーちょんを迎えてくれる家族はいません。薄暗い玄関を抜けて、リビングではお父さんがニュース番組を映すテレビに照らされて、目を閉じ、眠っています。台所に立つお母さんは、閉まっていない各所のカーテンも気にせず、まな板の上の包丁を一心に見つめています。それはまるで儀式のようで、二人はいつか魔法を使えるようになるのだろうと、あーちょんは考えていました。

 檻の中から抜け出して、鎖のない世界へと連れ出してくれる。それが、あーちょんが両親に望むことでした。

 階段を静かに上り、自分の部屋で着替えを済ませると、あーちょんは布団に入ります。頭の天辺まですっぽりと毛布を被って、ぎゅっと、強く目を閉じます。あーちょんの瞳の裏側は空のずっとずっと上の方、宇宙に繋がっています。精一杯輝く星ぼしに少しでも近付けるよう、必死になって、習ったばかりのクロールを駆使し、抵抗のない空間を泳ぐのです。見下ろす地球の人工的な明かりは、あーちょんを少しも照らしてはくれません。

 泳ぎ続けて、疲れ果てると、あーちょんはお風呂に入っていないことも忘れて、静かに、眠りの中に落ちていきます。

 あーちょんは、いつもひとりです。昨日も、今日も、明日も、一週間後も、その事実はずっと変わらずに、あーちょんにまとわりつくのです。

 

 ある日の公園で、あーちょんはおじさんに声を掛けられました。知らない人と話してはいけないと学校で教えてもらっていましたが、おじさんの方はそうではなかったのか、柔和な笑みを浮かべ敵意がないことを知らせながら、お嬢ちゃんは神様っていると思うかい、そう聞きました。

 あーちょんにはわかりません。首を左右にフルフル振ると、おじさんは、同じだね、と続けました。

 僕には神様なんてわからない。でもこう思うんだ。想像力こそが神様なんじゃないかってね。人間が想像し、創造したものなのだから、人間自体が神様だと言ってもいいのではないかと。僕も、お嬢ちゃんも、神様なんだよ。

 言い終えてから、お嬢ちゃんには難しい話だったかな、とおじさんはあーちょんから視線を逸らしました。

 あーちょんは、焼きすぎて硬くて硬くて飲み込めないカルビを口の中で転がすように、何度も何度もおじさんの言ったことを咀嚼し続け、何とか胃の腑に落としましたが、結局それは消化されず、ごろごろと居心地が悪そうにあーちょんの中で動き回るのです。何かを吐き出せればよかったのに、あーちょんは何をもうまく吐くことができずに、口をすぼめて、眉根を寄せて、おじさんを見つめました。視線に気付いて、おじさんもあーちょんにそれをくれましたが、お互いに黙ったまま、しばらく、日が傾くのを待つように、境界のはっきりしない時間を過ごしたのです。

 ごめんね。忘れておくれ。

 おじさんは言い置いて、腰を上げると、それを反らし、またねと手を振って公園を出て行きました。

 置いてけぼりを食ったあーちょんは、いつもどおりひとりになって、お腹が鳴ると帰るのでした。


 お母さんが台所に居ませんでした。お父さんも姿が見えません。

 あーちょんは寂しくなって家の中を駆け回って、最後に、お父さんの部屋の前に立ちました。ノブを捻って押そうとしましたが、何かが引っかかっているように、強い抵抗を掌に感じます。それでも小さな身体で体当たりをするように押し込むと、まず、あーちょんの視界にお母さんの姿が見えました。薄く開いたドアの隙間から、床に寝転がっているお母さんの姿をしっかりと視認したのです。それから、亀のように首をにょきりと伸ばすと、ドアを塞いでいたお父さんの姿もわかりました。

 二人とも、顔の色がいつもと違います。

 あーちょんはおずおずと部屋の中に入っていき、お父さんの握った紙片に気が向き、それを無理やりひったくって中を読みました。

 ごめんね。忘れておくれ。

 シャープペンシルで書いたように薄くて、グネグネと曲がりくねった文字には、あーちょんがまだ学校で習っていない漢字が含まれていて、よく内容がわかりませんでした。でも、何でお父さんは謝っているんだろうと、また、カルビが口の中に、じゅっと存在を示すのです。

 お母さんもお父さんも、あーちょんのことに気が付いていないのか、ピクリとも動きません。だるまさんが転んだでもこんなにうまく動かないで居ることはできないのに、やっぱり大人って凄いんだな、あーちょんは思いながら、なんだか楽しくなって、声を立てて笑いました。

 お母さんも、お父さんも、あーちょんと遊んでくれるんだ。

 あーちょんは部屋を出てそれを背にし、手で両目を覆うと、だるまさんが転んだと間延びした声音で唱えます。勢いよく振り向いても、お母さんも、お父さんも、先ほどと全く配置が変わっていません。あーちょんは何度か遊びを繰り返して居ましたが、やがてこれは遊びではないんだと気が付きました。少なくともだるまさんが転んだではなかったのかと、あーちょんは思ったのです。

 ぐるぐるとお腹が鳴きます。あーちょんはお母さんに触れ、揺さぶり、ご飯が食べたいと声を掛けました。お母さんは揺らされるまま、ぐにぐにと身体を変形させますが、応答はしません。

 居ても立っても居られなくなり、あーちょんはいつも挨拶してくれる隣のおばさんを呼びに、家を飛び出しました。おばさんは、あーちょんの姿を見て悲鳴を上げ、わなわなとドモリながら、主人に対し警察を呼ぶよう声を震わせました。電気の点いていない部屋で、あーちょん自身は気付いていませんでしたが、あーちょんの手はお母さんの血で真っ赤に染まっていたのです。

 

 家に押し寄せてきた知らない人たちの中に、公園で声を掛けてきたおじさんの姿がありました。あーちょんは、もうおじさんは知らない人じゃないと認識し、袖を引っ張って、自分の存在を誇示します。

 お嬢ちゃんの家だったのか。神様なんてやっぱり居ないね。

 おじさんはそれだけ言って、ほかのおじさんにあーちょんを押し付けるようにして、お父さんの部屋に入っていきました。若くてにこにことした新しいおじさんは、あーちょんの肩に手を置いて、リビングの方へ連れて行きました。

 あーちょんは新しいおじさんと手遊びをしていました。でも、全然楽しくなんてありませんでした。理由は、あーちょんにはわかりません。頭上を飛び交う言葉を理解するには、あーちょんは幼すぎたのです。

 手遊びをやめ、両手で耳を塞いで、きつく目を閉じると、あーちょんは深遠なる宇宙に飛び込んで、クロールを始めます。全然、星には近付けません。それより、泳げば泳ぐほど遠くに離れていってしまうような感覚こそが、理解できずとも、あーちょんの中にはありました。

 宇宙が水で満たされて、やがてあーちょんは覚束ないクロールで泳ぐことが困難になって、ばしゃばしゃと水しぶきを上げながら、ゆっくり、ゆっくりと、息ができなくなっていきました。自分の頬に誰かの手の感触があたり、あーちょんはパッと目を開いて、新しいおじさんの方を見ました。

 悲しいね。

 新しいおじさんは小さく、それだけを零して、あーちょんの涙を拭ってくれます。

 あーちょんは、悲しいと言うより、わけがわからなくて、もっとクロールの練習をしなくちゃ、なんて考えていました。うまく泳がないと、溺れてしまう。そんな当たり前のことを、ようやく意識したのです。


 あーちょんは、親戚のなんとかさんという家に養子として迎えられることになりました。あーちょんにはそうなった理由も、そのなんとかさん自体も、よくわかりませんでした。

 でもあーちょんはもう、自分をひとりぼっちとは思いませんでした。

 目を閉じると、お父さんとお母さんが、笑って、あーちょんのことを見つめてくれています。

 多分、あーちょんにとってはこの二人が神様だったのです。自分を創り、人生を左右してくれる、偉大なる神様。

 二人の存在はもう、あーちょんだけのものなのです。

 そう思うと嬉しくて、あーちょんは悲しいことがあると、ぎゅっと目を閉じて、二人の笑顔に近付きたいと、へたくそなクロールで、宇宙の中をぐいぐいと進んでいくのです。

 これがお母さんとお父さんの魔法なんだろうなと、微笑みながら。

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