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山南藩物語

霜葉の如く

作者: 史燕

時代小説要素は添えただけ。

特に中身は無いので読み流してください。

 出羽国に位置する山南藩は石高こそ五万二千石の中藩に分類される。しかしその血脈は徳川氏がまだ松平氏として三河の一国人領主に過ぎなかったころからの家臣であるというから、有数の譜代藩である。

 大井玄蕃は山南藩の勘定方に勤める藩士の一人である。齢は二十の中ごろ、両親を早くに亡くしてからずっと、男一人の生活である。

大井家は玄蕃が勘定方を勤めることからわかるように、二百石の立派な上士だ。

さらに言えば、大井の本家は代々家老職を務める大井飛騨守家である。その末流とはいえ家柄としては引く手あまたであってもおかしくない。にもかかわらず元服から十年以上経っても婚儀が調わなかったのは偏に玄蕃自身にあるといえる。といっても、玄蕃の務めぶりは誠実そのもので、酒も付き合う程度にしか嗜まず、女にだらしがないというわけでもない。それどころか、藩校では四書を修め、兵学・算術にも通じ、枯葉流の印可も許された俊英である。


 しかしこの玄蕃という男、とにかく容姿が悪かった。

なにせ藩主左衛門佐が偶々通りかかった時に「あれは何奴じゃ」と誰何し、玄蕃の上役が答えたところ


「大井玄蕃か、覚えたぞ」

「なにか気に障ることでありましたでしょうか」

「いやなに、あの容姿を不憫に思ったのみじゃ。顔形は本人にはどうしようもないものであろうにの」


と言ったほどだという。

 左衛門佐自身には悪気がないどころか、不憫なために「何かあれば目をかけてやろう」くらいにしか思っていなかったのだが、それにいつしか尾鰭胸鰭に背鰭と髭まで生えて「大井玄蕃は殿様の御不興を買ったそうだ」ということになった。それ自体は玄蕃を見たのち江戸へ参勤交代で向かっていた左衛門佐が国許へ戻った時に、玄蕃を呼び出して「孫呉の講釈をせよ」と命じたおかげで表立って言うものはいなくなったのだが、さりとて娘たちから嫁ぎたいとまで思われるわけでもない。さらに言えば、従来通り勘定方の下っ端として帳簿をつける以外に職掌の異動はなく、あくまで左衛門佐の気が向いたときに呼び出されるだけというのもよくなかった。


 口性の無い物は「殿に取り入った不届き者」「容姿とともに性根も醜かろう」とまで言うほどであった。


 しかしこの玄蕃、それでも一切恨み言は言わなかった。

それ故に上役も「気にするな、お前の務めぶりは評価している」と声をかけてくれるし、同僚たちも左衛門佐同様不憫に思いこそすれ、容姿を貶したり嫉妬に駆られたりもしなかった。ある年嵩の上役などは、「殿の相手で忙しかろう」などと言って手の空いた時には溜まっていた帳簿整理を片付けてくれたほどだ。

それ故に玄蕃は


「恨みなどございませぬ、誠心誠意務めさせていただきます」


と言って憚らなかった。

なにせこの男、顔が悪いだけで人はいいのである。


 しかし中々縁談が調わなかったのは、紹介した相手方が玄蕃と一度会ったっきり「この話はなかったことに」と断りを入れてくるためであった。


これには紹介した上役や同僚たちも


「すまん、俺にはどうにもできなかった」


と言い、玄蕃も


「皆様方を恨みに思ってはおりませぬ、原因は偏にこの顔でございますれば」


と返すしかなかった。


(結局は人間、容姿ということか)


恨み言は言わずとも、玄蕃が諦めの境地に達したのはやむを得ないと言える。


 そんな玄蕃のもとに先方から名指しで縁談の申し入れがあったのだから、話を持ってきた上役を玄蕃が訝しんだのも無理はない。


「わしも最初は半信半疑だっただが、とりあえず娘に会わせてみたいとのことでの」

「はあ、左様ですか」

「すまん、不審に思う気持はわかるが、実はわしも断れぬ筋からの申し入れでの。頼むから会うだけ会ってくれ」


玄蕃としても上役に頼まれて否というわけにもいかない。


(まあ会ってみればわかるだろう)


と半ば悟りを開きかけた状態で顔合わせに行ってみたのだった。




 当日顔合わせに行ってみて驚いたのは、相手方に次席家老森長門守の姿があったことだろう。


「大井玄蕃よ、話は聞いておるがこうして話すのは初めてじゃったな」

「はっ」


(なるほど、これでは誰も断れまい)


「実は孫娘がどうしてもと言うておってな。お主には悪いがこうして出向いてもらったのじゃよ」

「いえ、某ごときに滅相もございません」

「そうかしこまるな、これから親類になるのじゃからのう」


(なぜ御家老はもう話が決まった気でいるのだ。そうか、平伏しているために顔をあわせていないからか。まあ、なんにせよ相手の娘と会えばご破算だな)


玄蕃は内心あまりに大物が相手のために冷静でいられなかったが、結局はいつもと同じだと考えことにした。


「御家老、嫁ぐのは御家老ではなく娘御でございまする。これは某と娘御の話、そのように話を先に進められましても困ります故」

「ふむ、そうじゃの。では廉よ、入ってまいれ。あとは若い者同士での」


そう言って廉と呼ばれた娘と入れ違いに、長門守と上役は退室していった。


(これからはいつも通りだな)


「廉殿と申したか、某は大井玄蕃と申しまする」

「存じています」


 自己紹介を行いながら顔を上げてみると、玄蕃はいつもと勝手が違うことに気付いた。

この廉という娘、普通ならば顔を合わせた途端目を背けるところを、じっとこちらを射すくめるように見据えてくる。


(避けられるのもつらいが、これもこれで心に来るな)


 年の頃は十六ほど、容姿は玄蕃と対極に位置するごとく整っている。天はなぜここまで人を分けたのかと嘆きたいところだが今はそうもいかない。なにせ親の仇を見るかのような目で見つめてくるのだ。普段女性から避けられこそすれ直視されたことなどない玄蕃からすれば、どうしたものか戸惑ってしまう。


「あの、廉殿」

「はい」

「某の顔になにかついておりますか?」


言ってしまってから玄蕃は「しまった」と思った。なにせ自分の顔に言及するように自ら話を切り出してしまったのだ。遅かれ早かれとはいえ、ものの数瞬で縁談をぶち壊しにしたいとは思わない。


「いえ、特に何もついておりませんよ」


しかし廉はそう言って流すと、反対に玄蕃に問いかけてきた。これも玄蕃にとっては初めての経験である。


「玄蕃様は、私のことをどう思われますか?」

「その、大変美しき女性(にょしょう)かと思います」

「美しい、ですか?」

「ええ、おそらく某には釣り合わないほどと」

「そうですか」


言ってしまってまた玄蕃は「しまった」と思った。己を引き合いに出せば牛馬さえ美形の部類に入るのだ。これでは褒められた気になるまい。

その証拠に、先程からとっつきにくい――それでも今までのどの縁談よりも話はしているのだが――様子であったのが、さらに表情も態度も固まってしまった。

その後は世間話を一通りしてお開きとなった。


(はあ、今回も御破綻かな。いや、いつも通りか)


玄蕃としてはいつもより長引いたせいで疲れたというのが正直な感想だ。


(あれほどの娘御を間近で見られただけ良しとしよう)


むしろ、そうとでも思わなければやってられないのである。


 ところが数日後、件の上役に呼び出されたかと思うと


「先方が是非にと言って来てな、このまま話を進めたいとのことだ」


と告げられた時には驚きで開いた口が塞がらなかった。


(きっと御家老の勇み足だろう)


そう思った玄蕃は


「廉殿はなんと?」


と一応確認してみた。


「特に聞いておらんから確認してみるが、よもやお主から断るつもりはあるまい?」

「それは無論のことでございます」

「そうか、ではそのように伝えるぞ」


上役としても、家老が乗り気の縁談を断るなどできようはずもない。

それは玄蕃とて同じである。


(ま、そのうち廉殿から待ったが懸るだろう)


相手方から断りが入るなら仕方がないさ、そう高をくくっているうちにあれよあれよと話が進み、気づけば夫婦(めおと)となっていた。


(まるで物の怪とその生贄のような図柄だな)


 婚儀の席で二度目に顔を合わせた己の妻となる娘の顔をみて、そう思った。

年も十近く離れているのだ。玄蕃ならずともおかしく思おう。

それでも、「もしやこの娘なら」と淡い期待を玄蕃が抱いたのも無理からぬ事である。


 そんな中で婚儀を終え、いざ初夜となったときに、玄蕃の淡い期待は脆くも崩れ去ることになる。

さあ臥所を共にしようとしたところ


「嫌っ、来ないで」


そう言い据えられて、玄蕃は寝所を追い出されてしまった。


(どうやら御家老の勇み足だったのを、最後まで誰も止められなかったということか)


そう考えると玄蕃こそいい面の皮である。まさか初夜も早々に新妻に追い出される夫など、古の例にも聞いたことがない。


「仕方がないさ」


 そう、諦念の籠った声で呟いた玄蕃は自身の大小を手に庭へと向かった。


「鋭っ」


 裂帛の気合を込めて、無心にひたすら刀を振るう。

刀を振っている間は嫌なことは全て頭から消える。

陰口を叩かれたときもそうだった。

悪い噂が流れたときもそうだった。

そして今回、妻から嫌われたことも刀と共に斬り捨てようと思う。

基本の型から極意剣の型まで全て行い終えるころには、空が明るくなっていた。


 この日から、冷え切った新婚生活が幕を開けた。寝所を別にするのは、初夜の翌日からであった。前日徹夜のうえに出仕してふらふらだった玄蕃が、書斎へ布団を引っ張り込んで寝たのが始まりだが、それがそのまま常態化してしまった。

夫婦の会話というのも、あろうはずもない。


 ある日のことだ。


「お前さま、隣の木村さまが勘定番頭に昇進されたそうですね。たしかお前様は木村様より藩校での成績は上だったとか」

(なるほど、要するになぜ出世しないのかと言いたいのだな)

「それは祝が必要だな、明日にでも用意して渡しておこう」


 別の日のことだ。


「お前さま、先日一刀流の高木様が御前試合で見事な剣技を披露されたと聞きました。お前さまもたしか枯葉流の印可を許されたと聞きましたが」

(つまり試合に出て褒美をもらって来いと)

「試合を行うかどうかは殿がお決めになる。もしお声がかかればいややはないが、果たしてどこまで某ごときの太刀筋が通用するか」


 またある日では。


「お前さま、毎日遅くまで明かりをつけておいでのようですが」

(今度は無駄な費えを出すなと言いたいのか)

「殿に講釈させていただく身が、日夜研鑽を積まずしてどうするというのだ」


 さらに別の日のこと。


「お前さま、お向かいの石田様の奥様が先日見事な簪を見せてくださいましたよ」

(ああ悪かったな、稼ぎが少なくて)

「お前は簪なぞにこだわらなくとも十分美しかろう」

(某の場合は着飾ろうが何しようが変わらぬというにな)


とまあ万事がこの調子であるからして、夫婦の関係が修復できるわけもない。飯の時くらいは顔を合わせるのだが、料理以外の家事は全て玄蕃が自分でやってしまう。このためそもそも夫婦が顔を合わせる時間も少ないのだ。


(もし廉が男と密通していても分かりもしないな。だが別にそれも構わんか)


 大井家を残さなければならないというのはあるが、いざとなれば適当なところから養子でももらえばよいのだ。そう考えると、わざわざ互いに嫌な思いをして顔を合わせようとまで玄蕃は思わなかった。




 そんな大井家に変化が訪れたのは、このような夫婦生活が始まって半年が過ぎたころだった。


「高木殿ご乱心、上役の真鍋殿に斬りつけられたのち出奔」


 その報を玄蕃が聞いたのは、左衛門佐の相手をする時間を終え、そろそろ退出しようとした時だった。そのまま注進に来た相手から左衛門佐は詳しい情報を聞き出していく。


「高木というと、一刀流の高木か」

「ははっ、その通りでございます」

「早く追手を出さねばな」

「それが、直心流の今井殿、一刀流の山口殿、念流の酒井殿それぞれすぐにその場で当たられましたが、返り討ちに遭われました」

「っ、そうか。たしかにみな、先日の試合で高木に敗れておったしな」

「はっ」

「しかし、それでは討手をどうしたものか」


 左衛門佐が困るのはわけがある。ここに名が挙がった三名と高木とが、先日藩内有数の遣い手として推挙され目の前で試合をさせたものたちなのだ。逆を言えば、この他に高木に対抗しうる剣士が藩内にいないということになる。


そのとき側で控えていた玄蕃の胸の裡に、ふと思うものがあった。


『お前さまもたしか枯葉流の印可を許されたと聞きましたが』


(ふむ、ここらであやつを解放してやるのも悪くないやも知れぬな)


思えば冷え込んだとはいえ、よくもここまで出ていかずに一緒に暮らしてくれたものだ、と苦笑した。


「殿、僭越ながら、申し上げたき儀がございまする」


 玄蕃の提言を、左衛門佐は聞き入れた。




「廉、いるか」


 その日、いつもより少し遅くに帰宅した玄蕃はすぐに妻の名を呼んだ。


「なんですか、いきなり呼びつけたりして」

「まあまあ、そう言うな。ほれ、土産じゃ」


そう言って玄蕃は懐から一つの木箱を取り出した。


「いったい、どういう風の吹き回しですか」


そう言った廉の手にある箱の中には、一本の簪が入っていた。


「なに、偶々見かけただけだ。それよりも、つけて見せてくれないか」

「ええ」


 いつもと違う夫の様子に戸惑いながらも、やはり廉も年頃の女なのである。簪一本とはいえ、綺麗なものを貰って嫌な気がするはずはない。


「ふむ、よく似合っているじゃないか」

「ありがとうございます、それで、どうなさったんですか」


 心なしか、廉は玄蕃の口調が柔らかいことに気付いたが、別に悪いことではないと気にしないことにした。


「気にするな、結婚してこの方、何も夫らしいことはしてやってないことを思いだしただけだ」

「それは、その……」


私もです、そう言おうとした廉の言葉を、玄蕃は遮った。


「ただ、今日は疲れたのでな。早く夕餉にして寝ようと思う」

「そうですか、そう言えば今日は上様のお相手をなさる日でしたものね」

「ああ、殿は聡明であらせられるだけに、講釈する側も大変疲れる」


その日は珍しく、大井家の時間が温かく過ぎ去っていった。




 時刻が九ツ(午前0時)を迎えるころ、玄蕃は仕度を終え、家を出ようとしていた。


「お前さま、どうなさったのですか」

「なに、少しばかり所用でな」


玄関を出ようとした玄蕃に、廉が声をかけた。


「もう夜も遅い、お前は休め」

「お前さまこそ、このような夜中にどこに行かれるのですか。私もついてまいりますよ」

「すまん、付き合いでな。木村のやつと女子(おなご)と行けぬようなところに行くことになっておるのだ。すまぬ、許してくれ」


玄蕃は大人しく頭を下げた。木村が待っているのも、廉を連れていくわけにはいかないのも本当だが、もちろんそのような用事ではない。恐らくこのまま二度と顔を見たくないなどと言われるだろうが、兎にも角にも外に出るのが先決なのだ。


「なるほど、私よりも売女(ばいた)のほうがよろしいというわけですね」

「いや、あくまで付き合いであってだな」


ここで口論して時間をかけるわけにはいかないのだ。大人しく平謝りしてなあなあのうちに済ませてしまおう。


「いい加減にしてください」

(そういえば、廉がここまで怒るのは初めてだな)


ふと他人事のように今の状況を見ながら、玄蕃は思った。最期に妻の新しい顔を見られて喜ぶべきか、それが怒りで真っ赤になった顔であることを嘆くべきか、判断がつかないなどとも思っていた。


「箱を開けて驚きましたよ、隠し箱が中にあって、そこに三行半が入っているのですから」


しまったな、久々に玄蕃はそう思った。この後何が起こるかわからないが、自分に何かあっても離縁したことになれば何とでもなると思って行った仕掛けだが、まさか出立前にばれるとは。


「いや、なにさな。身請けして妻にしようと思っておってな」

「私よりその人の方がいいなんて、よほどの美人なんですね」

「はははっ、まあ、その、な」

「ではこの簪は、手切れ金代わりとでも?」

「いやいや、それはそれ。ちゃんと手切れ金は別に用意するので、な」

「お金の問題じゃありません」


さらに廉は激昂しはじめた。

一方の玄蕃としては、何が何だか分からなくなっていた。


この女は自分の事が嫌いじゃなかったのか。

だからこそ寝所も別にし、毎日のように嫌味を垂れてきたのではないのか。

それがどうしたことか。

これではまるで惚れた男に棄てられるのを嫌がる小娘のようではないか。

いやいや、自分は何を考えている。

こやつが誰に惚れているって? 自分に?

バカも休み休み言え。

それともなにか、男に自分が捨てられるというのが嫌なのか。

なるほどそれなら納得だ。

棄てるならともかく棄てられるのは嫌ということだな。しかもそれが、普段自分が見下している男にと。そう考えると確かに嫌かもしれん。


「よしわかった、お前の気持ちはよーくわかった」

「ただ、断るにせよ話をつけに行かねばならん。今日はそれで帰ってくるから見逃してくれ。なに、すぐに戻ってくるさ」


 そうだ、これでよいのだこれでよいのだ。

少なくとも話を無かったことにするというのだから文句は無かろう。なに、あとは自分が墓の下まで持って行けばいい話だ。明日には実際に墓の下かもしれんがな。


「お前さま、嘘を仰るのもいい加減にしてくださいませんか」

「嘘とは異なことを言う。たしかに身請けしようと思ったが、お前にそこまで言われれば仕方なかろう。ちゃんと話は付けてくるさ」


 まったく疑り深いことだ、玄蕃としてはその程度にしか思っていなかった。

この場さえ乗り切れば後は知らぬ、なんとでもなる、そういう肚づもりだった。


「高木清左衛門」

「うっ、た、高木がどうかしたのか」


いきなり高木の名が出て玄蕃は焦った。たしかに出奔した話は伝わっていておかしくない。だが討手は極秘にされている。それが普段貶している自分だとはよもや思うまい。

そう考えると、少しばかり冷静になった。


「恍けても無駄です。乱心した高木の討手。お前さまなのでしょう」

「何をバカなことを言っているのか。藩内にはまだまだ高名な剣士はたくさんおる。なにも某とは限るまい」

「討手は基本、夜陰に乗じて向かうのでしょう、そして今は九ツ。討手が出向くには頃合いですわね」

「ほう、そうなのか。お前はよく知っているな。いやさ、そのようなことは初めて知ったとも」

「襷がけにして、いつも差さない大小を揃って差してですか。揚屋ならば脇差だけで十分でしょう?」

「いやはや、木村に先日自慢したら今度見せてくれと言いおったのでな」

「たしかに、銘は国俊と国光ですものね。いつも持ち出さないで大事に仕舞ってある方の」

「良く気付いたな、お前の目利きは並ではないな」


 旗色が先程より遙かに悪くなっている。これ以上は女遊びで誤魔化すのは厳しい。

一歩、また一歩とこちらを見据えながら間合いを詰めてきた。

何より先程までは激昂していたのが今は静かに目が据わり視線が凍っている。

……怖いのだ。


「お前さま」

「おう、なんだ」

「もう、いいでしょう?」

「な、なにがだ? ちゃんと話は付けてくるとだなあ」


 玄蕃も我ながら往生際が悪いと思うが、最初についた嘘は最後までつき通さないとどうしようもないのだ。


「……逃げましょう、二人で」

「はあ? 突然何を言い出すのだ、お前は」

「今までのことは謝ります、だから、逃げましょう」

「何を謝ることがある。商売女に入れ揚げた某が悪かったと言っておろうが」

「追手の届かない田舎へ行って、寺子屋でも開いて生きていきましょう」

「だからなんだというのだ、いきなり」

「二人扶持ぐらい稼げますって、なんなら私が春を売りますから」

「バカを言うでない、というかいきなり何なのだ」

「だって、だって……」


 玄蕃はあまりの話の飛躍に狼狽しきっていた。

廉はいつしか泣き始めている。

自分と距離を置いていた妻が、今は自分に縋りつくようにして泣き始めたのだ。

そのまま廉が身を寄せてきたので、必然的に抱きしめるような形になった。


「廉、この手を」


玄蕃がそう言うと、廉は嫌だという風に顔を横に振る。


「この手を離してくれないか、廉」


再びそう言うが、同じく廉は首を横に振った。


「廉よ、この話はな。某から申し上げたのだ」


そう言うと、廉は信じられないという風に玄蕃の顔を見た。


「なぜですか、どうしてそんな危険なことを……」


 今日は初めて見る表情が多いな、そう玄蕃は思いながら話を続けた。


「実はな、今井も山口も酒井もな、高木に斬り伏せられたのだ」

「そんな」

「そして殿にはな、多大な御恩がある。某の汚名を雪ぐために無高なれど講釈役というお役目を下さった。某はその御恩に報いなければならぬ」

「それでも、死んでしまっては元も子もないではありませんか」

「だがなあ、某以外の者にやらせるのもどうかとも思ってなあ」

「ご自身で仰ったじゃないですか、藩内に剣士はいると」

「だが、某も含めてみな高木には一歩劣る」


 それは紛れもない事実なのだと、有無を言わさぬ体で玄蕃は言い切った。廉の手に入った力が抜けていることを確認すると、彼女の脾腹に当身をして素早くその身を翻すと、そのまま玄関から外に向かった。


「喜べ、明日にはお前は晴れて自由の身だぞ」

「待って、待ってくださいお前さま」

「待たぬ、刻限だ」


(玄蕃様、お慕い申しております。だから、どうか)


錯覚だとは思うが、玄蕃には戸が閉まりきる直前に、廉がそう言ったように聞こえた。




「大井、待っていたぞ」


玄蕃が向かった先では、木村が出迎えた。


「すまぬな、少しばかり遅れてしまった」

「大丈夫、みなそちらの事情は分かっている」


 高木は追手の今井らを相手にしながら逃げ、城下の外れにある空家に籠っているのだという。

空家は藩士たちで取り囲んでいるが、高木に斬りぬけられると被害は避けられない。故にこれから討手の玄蕃が単身突入し高木を仕留めるのだ。

玄蕃は空家に向かうと、意を決して足を踏み入れ大声で呼びかけた。


「高木よ、上意である。手向かい致すなよ」

「なるほど、醜男の大井か。相手してくれよう」


 大胆なことに室内から抜身の刀を片手に現れた高木は、玄蕃に向かって不敵にもそう言い放った。


「どうした、上意討ちが防戦一方か」


 蓋を開けてみれば、予想通り玄蕃の劣勢だった。

剣の腕もさることながら、高木は間取りを心得ているのか、梁や柱に当たることなく刀を振るっている。これに対し玄蕃はというと、刀を振るえば何かに引っかかり、思うように動くことができない。幸いにしてまだ刀身に影響は無いが、下手をすれば刀自体が使い物にならなくなる。


 袈裟懸けに斬り降ろされた剣尖を受け流すと、すぐさま逆袈裟に斬り上げが入ってくる。

その後鋭く逆胴を薙いできたのを、寸でのところで間合いを外しなんとか躱した。



(くっ、今は耐えるしかない)


 枯葉流の極意剣の一つに、「霜葉の大刀」というものがある。

霜を身に纏った草葉はじっとその場にいるが、迂闊にそれに触れれば鋭い氷に身を削られることになる、という意味だ。

玄蕃は今ひたすら霜葉の如く耐えていた。高木の大刀筋をじっと見極めながら。


 四半刻(およそ30分)ほど経った頃だろうか、高木の剣尖が少しずつだがにぶり始めた。


 先程はすんでのところで避けた逆胴を、今は余裕を持っていなすことができる。


 動きが大ぶりになってきた、ということだろう。いよいよ来たのだ、霜葉がその牙をむくときが。


(ここだ)


 玄蕃は大刀を左から右に真横に斬りつけた。


「大井、甘いぞ」


 高木は身を大刀が向かう裏へと回し、流れていった玄蕃の小手を左下から跳ね上げるようにして斬りに行く。


(甘いのはそちらさ)


 だが、横に薙いだ大刀を握るのは右腕のみ。高木がその右小手に斬りつけその刀が鈍色にきらめくと、国俊を持つ玄蕃の右手が虚空を舞った。その瞬間、玄蕃が左手で逆手に抜いた脇差が、高木の右わき腹を貫き、そのまま肋骨の内側を抉るようにして心の臓に到達した。


「上意、なり」


 そう言って、玄蕃は高木が事切れていることを確認してからその場をあとにした。


「大井、大丈夫か」


 姿を現した玄蕃を見つけると、木村が駆け寄ってきた。


「この通り、片腕になってしまったがなんとか、な」

「そうか、ちゃんと医者にかかれ、話はついていはずだ」

「ああ、そうし、よう」


そう言いながら、玄蕃は自分の意識が闇に飲まれていくのを感じた。




「ううっ、むっ、なんだお前か」


 玄蕃が意識を取り戻したときに最初に目にしたのは、自分の妻の顔だった。


「良かった、もうこのまま目を覚まさないのかと思いました」

「くっ、お前にとってはその方がよかったやもしれぬぞ」


 実際、利き腕を失った自分には何も残されていないことを、玄蕃は十二分に理解していた。


「利き腕がなければ三行半も書けませんね」

「それはたしかにそうだが」

(最初に気にするのがそれとは、やはり先日のはただ単に棄てられたくなかっただけか)


 玄蕃はそれを残念に思う自分に気付いたが、すぐに必死にみなかったことにした。実際問題として、家老である森長門守が出てくればどうとでもなるのだから、自分の許可などどうでもいいと言えばどうでもいいのだ。


「お医者様によるとしばらく安静にということですから、大人しくじっとしていてくださいね」

「ああ、わかった」


 玄蕃にも右手を斬られた後に血をかなり失ったことは想像がつく。もっとも快復したからと言ってこの体ではどうにもならないのだが。


「剣も振れず、字も書けず、大井玄蕃もこれで仕舞いだな」


 そう自嘲してみるが、そもそもたかだか二百石の家が潰れても大したことでないのだ。少なくとも死ぬまで捨扶持程度なら支給されるだろうから、思えば主命に対して右手一本なら安いものと言える。


「それならしばらく快復してからも出仕しなくて済みますね」

「まあ、勘定方としては不要だからな」

「たしかに字が書けないと帳簿はつけられませんものね」

「ははっ、悠長にしてはおれんぞ。取り潰しになるやもしれんからな。お前は実家に帰れば済む話だが」

「帰りませんよ」

「はあ?」

「ですから、実家に帰らないと言っているのです」

「だが、某は片腕(かたわ)になったのだぞ」

「何を言っているのですか。そもそも片腕になった程度でどうこう言うようならお前さまに嫁いだりしませんって」


 その割には嫁いできてからずっとあれこれ言っていた気がするが、それを今指摘するのはよくないだろう。


「いや、でもな。食い扶持の問題があってな」

「それくらいおじい様に頼んで実家から出してもらいますよ。子供ができて家を継ぐまで」

「そうか、たしかに御家老のところなら二人扶持くらい……」

(待て、今なんか聞き流してはならぬことを聞いたような)


「えっと、子供?」

「はい、だってそれまで藩からはくださらないでしょう?」

「いやたしかにそうだろうが、子供だろう?」

「はい、そうですよ」

「作るのか?」

「はい」

「誰と?」

「何を言っているのですか、お前さまとに決まっているじゃありませんか」

「お、おお。そうだな」

「やっぱり、まだ休んでないといけませんよ」

「ああ、そうしよう」

(そうか、これは夢か。きっと某はあのまま黄泉路を行って、今は仏様が幸せな夢を見せてくださっているに違いない)


 あの冷たい妻が自分との子が欲しいなどと、間違っても言うはずがない。自分で考えていて玄蕃は悲しくなってきたが、それが現実、そう現実は非情なのだ。


「あ、お前さま」

「どうした」

「ずっと以前から言おうと思っていたのに、言えなかったことがあります」

「おう、なんだ」

(もうなんでもこい、どうせ夢、これもまた夢だ)


「玄蕃様、ずっとずっと、お慕い申し上げておりました、初めてお会いしたその日から」


今度こそ玄蕃は、これは夢に違いないと確信した。


 ちなみに廉に対するこの誤解は、左衛門佐が石高をそのままに自身の相談役である御伽衆に玄蕃を正式に任命し、玄蕃が完全に快復したと医師が太鼓判を押したその日の夜に、廉が自分から寝所に忍んでくるそのときまで、玄蕃の中で解かれることはなかったのである。


この小説に登場する人物・団体は全てフィクションです。

というより、山南藩なんて藩は存在しませんし、枯葉流なんて流派も実在しません。


玄蕃の気持ちも良く分かるのですが、この縁談を望んだのは廉自身だったりします。

玄蕃は冷たいと思っていますが、べた惚れの廉にしてみれば自分は普通にしているのです。

端から見ても玄蕃から見ても冷え切った関係なのですが、廉自身は討手として出ていくまで「お勤めが忙しいから仕方ない」としか思っていなかったりします。


玄蕃や、もう少し自分に自信を持ってもいいと思うぞ。


2015年3月8日、加筆・修正。

2016年6月19日、修正。

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[一言] お嫁さん視点と続編を読んでみたいです。どうして主人公との縁談を望んだのか知りたいです。
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