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1.問題となった考察を、もう一度振り返る

 基調となる考察は、「1.1.『○○(国名)は魔法大国です』という記述は、設定上危険であること(http://ncode.syosetu.com/n0976bz/6/)」に由来しています。

 問題を明確化するためにも、この章ではもう一度、「『魔法大国』を和製ファンタジーの作中に登場させることが、どうして危険なのか」という問題についておさらいしてみたい。


 この問題を考えてみる際には、魔法使いが魔法を使う場面をイメージする必要がある。読者の頭の中で、魔法使いはどのような行動をとっているだろうか?


 たとえば、「火を起こす魔法」について考えてみよう。大方の読者の頭の中では、魔法使いが何かしらの行為を行って、その行為の結果として木がはぜ、火の手が燃え上がる光景というものがイメージされていることだろう。


 私はここで「何かしらの行為」という言葉を使って状況をややぼかしたが、たとえばあなたの頭の中にいる魔法使いは、タクトをふるって火花を発したかもしれないし、あるいは呪文を唱えて火を起こしたかもしれないし、またあるいは魔法陣をせっせと地面に書いてから、その効力で火をつけたかもしれない。


 要するに「何かしらの行為」は書き手の想像力に委ねられるわけで、タクトを振るおうが、呪文を唱えようが、魔法陣を書きなぐろうが、それらしい行為ならば何だって構わないわけである。


 しかし、ここで見落としてはいけない本質が三つある。すなわち、


 ①魔法使いがいること

 ②何かしらの行為が行われること

 ③火がつくこと


 の三つである。ここでわざわざ①動作の主体と、②行為そのものを区別したところに、やっかいな問題が潜んでいるわけである。


 「火がついた」という③結果そのものについては特に問題としない。大事なのは、火をつけるに至った原因、すなわち「魔力」は①動作の主体と、②行為そのもの、のどちらに潜んでいるのか、という問いである。


 話が抽象的で分かりづらいと思われるので、ここでは具体的な例を上げたいと思う。


 たとえば「料理」を考えてみよう。カレーライスを作るときには、たまねぎや、にんじんや、牛肉や、ジャガイモが必要であり、料理の作り手はそれらを加工してカレーライスを作るわけである。しかしながら、カレーライスを作るのはかならず「料理人」であり、包丁や、まな板や、鍋や、コンロといった道具がカレーライスを作ってくれるわけではない。


 魔力が「動作の主体」に宿るとは、そういうことである。魔法使いが本来持っている魔力のおかげで火の手があがるわけであり、タクトや、呪文や、魔法陣が火をつけてくれるわけではない、とする考え方である。


 一方で、そうではない原理に基づくものもある。「カメラ」について考えてもらいたい。私たちは写真を撮る際にカメラを用いる。人を撮影する場合には、そちらへ照準を合わせ、「ハイ、チィズ!」と叫びながら目をむいてボタンを人差し指でプッシュするのが慣わしとなっている。しかし、写真を撮ってくれるのはあくまで「カメラ」そのものであり、「ハイ、チィズ!」と叫ばなくても、目をむかなくても、人差し指の変わりに中指でボタンをプッシュしようとも、撮影された結果は変わらないはずである。


 魔力が「行為そのもの」に宿るとは、つまりこういうことであって、タクトや、呪文や、魔法陣が火をつけてくれるわけだが、人間がどんな奴でも、場合によっては人間でなくても大丈夫、という意味合いである。


 さて、ここで改めて、魔力は「魔法使い」に宿るのか、「魔法のアイテムや呪文」に宿るのか、それぞれの場合を考えて可否を検証したい。


 まず、「魔力は魔法使いに宿る」という仮定の下、「魔法大国」はどうなるのかという問題を考えてみよう。


 「魔法大国」という言葉から一般的にイメージされるのは、「魔法の盛んな国」というイメージだろう。「魔力は魔法使いに宿る」とき、とうぜん「魔法大国」は「魔法使いがたくさん存在する国」ということになる。


 このとき「和製ファンタジー世界で魔法が使える人間は全員か、一部か」という別の問題が発生するのだが、ここでは大きな障壁にならない。魔法を使える人間が全員であれ一部であれ、いずれの場合でも「魔法大国」は大勢の人口を維持する必要に迫られるからである。


 さてそうなると、「魔法大国」とは「多数の人口を維持するだけの資源・人材・組織・制度を有する国」ということになってしまう。ところでこの「多数の人口を維持するだけの資源・人材・組織・制度を有する国」というものは、別にわざわざ「“魔法”大国」という但し書きをしなくとも「大国」として通用してしまうはずである。三億人の人口を抱えるアメリカ合衆国を、世間の人がわざわざ「人口大国」と呼ばないのと同じである。


 このままだと行き詰まりをみせることは明白である。だから、はじめの仮説設定が誤りだったと見なして、別の仮説を工夫する必要がある。


 そもそも人口を単純な「大国」の定義としたところに、この議論の膠着した原因が存在する。アメリカが大国と呼ばれるゆえんは、その人口規模ではなくて経済規模のはずである。人口以外の基軸を「魔法大国」に規定すれば、この問題は解決するかもしれない。


 では、「魔法」というものを価値資源と見なした場合はどうなるだろうか。つまり「魔法大国」を、「魔法の体系・理論・指導などが充実し、それに関わる人材や技術が高度に発達した国」として説明するのである。


 しかしながら、ここでも人口、いや人材の問題が立ちはだかってくる。たとえば日本は水泳アスリートの層が厚く、設備だけでなく指導も充実している。しかしながら、水泳に関するあらゆる文献を知識として吸収したところで、その人が水泳の国際大会で優良な成績をおさめることは不可能だろう。なぜなら「水泳」というものは単純な知識ではなく、更なる発達のためにはその「実践」を重視する必要があるからである。


 この点で「魔法」も、似たような性格を帯びている。「知識」と「実践」が過不足なく定着させるメソッドというものが、魔法大国には必須なのである。この点で「魔法」は、“学術”というよりも“伝統工芸”などに近い。知識だけでなく、その経験までもが重視されるからである。


 このような考え方に立脚すると、「魔法大国」にとってもっとも恐るべきことなのは、人材流出と人材不足である。どちらの問題もさまざまな要因に影響されやすく、また解決には非常に手を焼く問題である。特に人材の流出が進んでしまった場合は、「魔法大国」が「魔法大国」たる意義が消滅してしまう事態にもなりかねないのである。


 以上のようなことを総合的に勘案すると、どうやら「魔力は魔法使いに宿る」という設定を作ってしまうと、「魔法大国」を設定するのはなかなか手におえない問題になってしまいそうである。したがってどうしても作中に「魔法大国」を作りこみたいのならば、「魔力は魔法のアイテムや呪文に宿る」としたほうが賢明である。


 「魔力は魔法のアイテムや呪文に宿る」とした場合、「魔法大国」はどのような様相を呈するだろうか。一番よい考え方としては「魔法大国」を「技術大国」と同一視することである。前述の通り、「魔力がアイテムや呪文」に宿るのならば、そうしたアイテムや呪文を創意工夫することで「魔法大国」を「魔法大国」たらしめることができるからである。


 しかしながら、このような考え方に基づいて和製ファンタジーを規定している作品は、絶無にひとしいのではないかと私は考えている。個々人をフォーカスしたストーリーを展開する以上、やはり魔力を有した魔法使い達が、派手な魔法を行使したりするところにファンタジーの醍醐味があるはずである。くわえてわざわざ「魔法」という非日常的な存在を持ち出すぐらいなのだから、読み手は日常に飽き飽きしているはずなのだ。


 それにもかかわらず、馬鹿でもちょんと押せば火がつくような魔法に溢れているファンタジーを、いったい誰が好きこのんで読みたいというのだろうか。無理に「魔法大国」を作中に登場させるよりかは、より非日常的な設定を構築するほうが重要であると私は考えるしだいである。


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