第一話 ③
どこへとも行かず、電車の中に戻ってしまった自分の行動力に情けなさすら感じる一瞬だったがそんなことを考える暇はなかった。
「あんたまさかこの電車で過ごすつもりなの?」
呆れたように話しかけてきたのは電車で右側に座っていた、小柄な少女。いきなりのことに驚いた自分は、焦りながらもああ、と情けない返事をする。
「これまたいつ発車するか分からないみたいだから止めといたら?」
彼女はそう言いつつ向かい側の席に座った。第一印象は話しかけずらそうな人、というものだったが電車に乗ってから、一番最初に話す相手がこの人だとは思わなかった。
「ちなみにね、駅員もいなかったわ。電車の時刻表も無し。とんだド田舎ね」
電車に乗っていた時はちらりとしか見ていなかったが、彼女の服装には何かこだわりを感じる。しかしファッションに疎い自分には理解できるものではない。身長こそ低いが、表情や立ち振る舞いを見ていると、どうやら自分と同じ程度の年と見ていいだろう。余談になるが、彼女が首にかけているヘッドホンは前にどこかの店で見たことがあるような気がする。音質が良いとかで評判だが、恐ろしく値段が高かったはずだ。
「私だけ喋ってても変だからあんたも何か話しなさいよ、これからどうするのかとか名前とか」
ずっと黙っていたことが少し気に食わなかったらしい。足をぶらぶらさせながら、その大きな目を少し細めながら自分を見てくる。
「ああ悪い、自分は翔。これからどうするのかは何も考えてない」
翔と書いてかけると読む。最も、空へと飛翔するどころか地面を這いつくばっているのが最近の自分の人生だ。
「へぇ、私は夕海。改札を出るとトンネルがあったわ。どうせあんたも暇なんでしょ?行ってみない?」
ゆあ、と読んで夕海と書くのか。珍しい名前だ。そして彼女の誘い、いやどちらかと言うと道連れにするような彼女の問いに自分はまた、ああと生返事をする。
「じゃあ行きましょ。結構綺麗じゃない、ここ」
ぱっと立ち上がり開きっぱなしのドアから外へ出た彼女は提灯の列を見ながら呟いた。確かに提灯がホームを照らし出すその光景は、不気味ながらもどこか幻想的であり、その柔らかい光はどこか心に響いてくるような気さえした。
彼女の言った通り、改札口の傍にある駅員専用の窓口に、本来そこにいるべきである駅員の姿はなかった。そして改札口も自動のものではなく、本当ならチケットを駅員に見せなければならない手動のものなのだが、やはり駅員はいない。夕海は、「別にいいんじゃない?チケットも鞄の中でどっか行ったし探す手間が省けるわ」とか言いいながらその改札口を先に抜けていった。そして自分も多少の罪悪感を感じながらも彼女に続く。さて、駅のホームにはところどころに水溜りがあったが、今自分達が立っている改札口の出口、トンネルへの入り口付近は地面の表面を完全に水が覆っている。完全に覆っているとはいってもさほどの深さはないのだが、数歩歩いただけで靴下は濡れてしまったので自分はそれを脱ぎ、乱雑にバッグの中に詰め込み、ズボンの裾をあげた。夕海も嫌そうな顔をしながら赤と黒のボーダー柄の長いソックスをリュックの中に押し込んでいた。
そして、改札口を抜けると彼女の言った通り小さなトンネルがあった。暗かったので気づかなかったが、自分達の降りた駅は大きな山の前にあったのだ。トンネルの先は見えず、ただ等間隔にここにも提灯が吊るされているのは見える。入り口の両脇には海にあったように標識が4、5本ほど乱立しているが、一時停止とか駐車禁止を示しているものなので特に意味はないらしい。そして改札から出て周りを見ても、トンネルの他に道はない。
「どこに繋がってるのかは知らないのか?」
「さぁねぇ、私も知らないわ」
お手上げ、というポーズを取りながら首を横に振る夕海。トンネルは、高速道路等にあるような大きいものでなく、車一台が辛うじて通れるか通れないかぐらいの小さなものだ。山の中にあれば、幽霊トンネルだなどと噂されそうなみすぼらしいトンネルである。しかし怖さは感じなかった。提灯の光がぼんやりと照らすそのトンネルはどこか魅力的にすら見えてしまう。そしてその光は水面に反射してゆらゆら揺れていて綺麗だった。
「行ってみるか」
自分が進むと彼女も黙ってついてきた。トンネルの中にはただ二人の足音だけが反響していた。振り向けば入り口は見えるのだが、出口は見えない。そして壁には苔が貼り付いている程度で落書きなどはない。等間隔に吊るされている提灯にも傷は見当たらなかった。しばらく何も考えずに歩いていたが、唐突に夕海が話しかけてきた。
「ねぇ、あんた何でここにきたの」
今まではとは少し違う低いトーンだった。何で、という漠然とした彼女の疑問に答えようと考えていると、ずっと自分の後ろを歩いていた彼女が隣に来た。彼女の視線を感じ目を合わせるが、気まずくなりすぐに視線を離してしまう。
「そんなもん忘れたさ。いや、思い出せないというか…」
それは自分の素直な答えだった。本当になぜここに自分がいるのか、気になるようで気にならない。
「あっそ、まぁ私もそんなもんよ。気づけばチケット買ってあの電車に乗ってたわ」
ぽつりと彼女が言った。服装こそ派手に見えるが、実は内面は違うのかもしれない。もっと何か繊細に入り組んでいるような…、まぁ今は何も分からない。
「んじゃまぁ同じだな」
「かもね」
再び沈黙。しかしなぜか、心地の良い沈黙だった。
そしてもう数分歩いたところでトンネルの出口はあっさりと見つかった。