望まぬ婚姻関係
どうしても好きになれない場所、好きになれない家族。
兄はどこかの貴族の令嬢――婚約者らしい女と、楽しそうに談笑していた。これから家を継ぐ男の未来は順風満帆。妻となる女の実家が裕福なこともあり、この家はずいぶん助かる。
だが、それだけでは足りぬと、強欲な夫婦はもう一人の息子をいけにえにした。
跡取り娘であるにもかかわらず、見た目も申し分ないにもかかわらず、その内面からすっかり行き遅れている令嬢を。女の身でありながら、数人の愛人を抱えるという女に捧げられた。
彼女に足りないのは立派な伴侶であり、そして彼女の代わりに領地などを管理する優秀な秘書だった。そこに、王子の補佐として勤めてきたカディスは、まさにもってこいだったのだ。
そして逃げ出した彼は囚われ、これから祝いの席に立たされる。
関係者以外祝福もしない、おぞましい宴に。
今から思えば、駆け落ちのために済ませておいた仕事の引継ぎが、ある程度できていたことだけが幸いといえるかもしれない。クリアといい、有能な若い人材が育っている。彼らならきっと大丈夫だ。自分がいなくてもセシルを支え、彼が王となっても国を守る柱となる。
それを、自分は見ることはあるのだろうか。
彼女はその穏やかであろう治世で、幸せになれるだろうか。
――下賎な娘など手を下すまでもありませんから、その場に捨て置きましたわ。
くすくすと笑ったあの令嬢の、言葉の真意はわからない。だが、今はもうそれを真実と捉えるしか心の支えがなかった。彼女が生きて、どこかにいることだけがよりどころだった。
与えたかったものはたくさんある。
笑顔、幸福。
そして奪ってしまうのだろう、家族。
それらを返せないことが、今はただ悲しく苦しい。これは自分が一線を踏み越えて結んだ関係だというのに、何もできない我が身がこの上なく疎ましく、おぞましく。
いっそ、宴の場で死んでやろうかとすら、思い。
そうすればもしかすると、彼女に害が及ぶかもしれないと怯え。
「カディス、出番だ」
父の声に彼は、言葉もなく歩き出した。
■ □ ■
まさか、ここで出逢うとは思わなかった。
涼しげに微笑を浮かべる、着飾った二人の少女。金色の長い髪をゆったりと下ろした、彼女の名前はシエラリーゼ。聖女の座を辞し、王子の婚約者の座も放棄した少女だ。
ずっと屋敷で引きこもるように暮らしていたはずの彼女は、いかなる夜会の誘いも断り続けたと聞いている。それがどうして、この場所に――彼女を連れて現れたのか。
「失礼だが、そちらの方は」
名も知らぬ招待客の一人が、やや引きつった笑顔でシエラリーゼに声をかける。
その視線は、シエラリーゼに隠れるように立つ少女に向いていた。
「彼女はミィ・ミュエル・ミリアン。ご存知でしょうけれどあのミリアン様の一人娘です。そしてわたくしの友人でもあります。彼とも知り合いのようなので、無理に連れてきましたの」
にこやかな笑顔で舌を巻くような嘘を並べ立てる彼女は、まさに宰相を筆頭とした高官を務めてきた家柄の娘だと思わせる。頭の回転だけは、兄のクリアに勝るかもしれない。
まぁ、踏んだ場数も違いすぎるだろう。
彼女は聖女として、尋常ではないものを背負って生きてきた。
そんな彼女が口にしたミリアンというのは、たしかこの国でも有数の富豪だ。他国との取引を中心に手広く商いをしている商人で、王族主催の夜会で時折姿を見かけることもある。
とはいえしっかり見ていたわけではないので、彼とミィに共通点があるかはわからない。
一瞬で周囲の視線を集めたミィは、小さくなるようにシエラリーゼに隠れる。大丈夫、怖くないから、と振り返って声をかけたシエラリーゼは、何も言えないカディスを見た。
「あなたは何をしていらっしゃるのです?」
睨むような視線に、怯みそうになる。
笑っているが、笑っていない目は――どこかセシルを、王子を思わせた。
「今も逃げ続けているわたくしが言えたことではありませんが、本当に大事なものがあるのならば逃げるのではなく戦いなさい。戦い、抗い、その手を取りなさい――彼女のように」
「……っ」
「ミィは戦うために、わたくしの誘いを受けたのですよ」
慣れもしない場所に出てきたのですよ、と言われ、改めてミィを見た。
シエラリーゼが見立てたのだろう、彼女に似合う清楚なドレスを着ている。
「カディス様、私」
言い終わるのを待てない身体が、焦るように華奢な少女を腕に抱く。ほとんど無意識の高堂だったのだが、逆にそれが本心であったのだろうと思う。自分がほしいのは、一つだと。
ミィは覚悟を決めて、ここまで来たのだ。
男で、年上の自分が腑抜けていては嫌われてしまう。
周囲は静けさに包まれ、かすかなささやき声がするのみだ。カディスとミィの駆け落ち騒動はそれなりに噂になっていて、あれが例の侍女なのか、と値踏みするような声もする。
こんなところで、この騒ぎだ。
もはや自分の縁談など、破壊されたに等しいだろうが。
「父上」
こちらをわなわなと震えながら見る父に、言う。
「縁談は断ってください。俺は彼女と行きます」
「カディス……っ!」
「勘当したければどうぞ。だが俺は、俺自身を必要としてくれる人がいるなら、これまでのような恵まれた生活がなくとも、この国にすらいられなくなったとしても、生きていける」
だから一度は逃げた、手を取り合って逃げたのだ。
カディス様、と小さく聞こえる声。
大丈夫だ、この声がそばにあるならなんだってできる。震えるこの声を、笑い声にするためだったらなんだってできる。ミィを強く腕に抱き、こちらを凝視する父を真っ直ぐに見た。
父は、顔を真っ赤にして呻き。
「この疫病神が……っ」
ミィに向かって振り上げられた手を払いのける。座り込んで怯えきった彼女を支え、父を睨みつけた。初めて息子から受けた反抗に、父はわなわなと震え、母は顔を手で覆う。
わざとらしい演技、見慣れた怒り。
次に出てくる言葉は、もうわかっている。
「貴様などもはや当家の息子ではない! 今すぐこの屋敷からでていけっ」
親子の情よりもメンツを大事にする男だから、そう言うのはわかっていた。一介の侍女風情に狂った息子に振り回された、かわいそうな両親と家族と元縁談相手を演じるのだろう。
家族だった彼らと、縁談相手だった彼女らは、それぞれ嘆き、怒り。
もしシエラリーゼがいなければ、切って捨てられていたかもしれない。
その彼女は、行きましょう、と退出を促す。長居する意味もない。
カディスは震えたままのミィを、守り、支えるように立ち上がろうとした。
「勘当――であるならば、もしや彼は要らないということかな?」
そこへ、声がした。
ざわめきを切り裂くようでいて、しかし柔らかい声。カディスの腕の中で、かすかに震えていたミィの身体が、反応するようにぴくりとはねる。そして――震えが止まっていた。
「あ……」
その目が向いた先を、カディスも見た。
少し癖のある薄茶色の髪。笑みの形に細められた目。
そのやわらかい視線の先にいるのは、カディスの両親だった夫婦ではなく、カディスの腕の中にいるミィだ。かつん、かつん、と彼は二人に向かって歩いてくる。
彼は二人のそばを通り過ぎ、カディスの父の前に立った。
「お久しぶりですね、リーヴィリクム家のご当主。招待状を受け取りましたので、久しぶりに夜会というものに参加してみたのはいいのですが……いやはや、何やら面白いことに」
「貴様は……」
「以前、お嬢様の婚礼衣装の布地をご提供した、ミリアンですよ」
「あ、あぁ……ミリアン殿か」
視線が、夜会の主催者に向いた。そこには笑みが浮かんでいるが、カディスが見る限りあのやわらかさはない。形ばかりの笑みを貼り付けた、震えていた少女と同じ姓の男がいる。
同じ姓、よく似た髪色。
確かめるように彼がミィを見ると、彼女はこくりと頷く。
あれは――彼女の身内、おそらくは父だ。見た目だけは兄といってもいいほど若いが、とても自分と同い年かそれより下のようには見えなかった。
「ところでそこで私の娘を抱いている彼は、あなたの息子かな?」
「……いや、たった今勘当したところだが」
「では彼は当家が頂こう。娘婿としてね」
にこにこ、と一見すると穏やかに交わされる会話。
その視線が一瞬ミィに向けられて、それ以外の視線が突き刺さるように迫った。
再び震えた彼女を抱き締め、カディスは一度立ち上がる。ミィは恐怖からか、足に力が入っていないようだ。カディスが支えなければ、床に崩れ落ちて座り込んでしまうだろう。
この現状に、カディスは気が気ではなかった。父――いや父だった男を、嫌と言うほど理解しているゆえの恐怖のような感情が、恋人の父であろう男ののんびりした物言いにあせる。
相手は、腐っても名家の当主。
いくら貴族の夜会に招かれる程度のコネがあるとはいえ、一介の商人がまともにやって勝てる相手などではない。ましてや向こうからすると、ミィの存在は一族への侮辱だ。その身内がひょっこりと出てくれば、しかも相手がそれ相応に潤沢な財力を持っているとすれば。
どんな無理難題を言われるか、わかったものではない。
「……だ、だがな。こちらはせっかく決まっていた縁談を」
「では賠償金を払おうか。それで彼を……こちらに『いただける』のならば」
ミィの父親は、テキパキとカディスを貰い受ける話を進めていく。すぐに身なりのいい男がどこからか現れて、ひそひそと耳打ちを始めた。何やら相談のようなものを、している。
しばらくぼそぼそと会話を交わし、男は再びにっこりと笑った。
「破談になった慰謝料は、彼が婿入りする持参金の二倍でよろしいかな」
「……む」
カディスは、己のことでありながら持参金とやらの額を知らない。だが、二倍にせずともそれなりの大金であることはわかっている。それを二倍にする、というのは魅力的な申し出だ。
さすがに、さらに上乗せしろとはいえないだろう。
これだけの人数の前でそんなことを言えば、失笑と嘲笑のいい標的だ。……あぁ、とカディスは気づく。だから後日にしないで、今ここで話をつけようとしているのだと。
最終的に――相手は折れた。
金で息子を、息子だったカディスを売った。
元々、そのつもりで縁談を組んだのだから当然の流れでもあっただろう。
「どうとでも好きにするがいい、卑しい成金風情が……。だがな、それを婿にしたとしてもリーヴィリクム家と繋がりができたと思うな! 当家に侍女如きに現を抜かす次男はいない!」
「結構だ。こちらとしても、その方が都合がいい。互いに無関係。そう、こちらは娘が偶然見初めてきた青年を、婿に招いただけのこと。たったそれだけだ。……よろしいかな、皆様方」
ぐるり、と周囲に話を振る。
特に異論は出なかった。いや、そうではなく、この話は片付いた、カディス・リーヴィリクムはもうこの家の次男ではないということを、理解していただけたか、という意味だろう。
つまり、証人ということだ。
「では話もまとまったし。帰ろうか」
カディスをちらりと見て、彼はさっさと歩き出す。
歩き出す前に一度だけ、カディスは家族だった人々を見た。父と母はこちらを見ず、兄は見下したような目をむけ、二人の姉はまるで汚いものを見るかのよう。もはや、家族どころか同じ人間を見る目ですらなかった。むしろ見ることすらも、嫌悪しているかもしれない。
それが、彼の足を動かす。
「カディス、様」
「いいんだ……俺は君と生きる。もう決めたことだ」
ずっと、そう決めていた。
ミィを横抱きにし、彼女の父についていく。途中、心配そうにこちらを見るシエラリーゼが見え、カディスは小さくうなづいた。大丈夫だという声が、伝わればいいと願いながら。
表に止まっていた馬車に乗り込む直前、彼は慣れ親しんだはずの屋敷を振り返る。
さようなら、という別れの言葉すら、心には浮かんでこなかった。




