眠りの底
ずっと、夢を見ていた。
どんな夢かは、忘れている。忘れてしまう。けれど、夢を見ていた。間違いなく、夢と呼べる何かを見ていたし、その世界にいた。指で触れた感触も、確かにあったような気がした。
『眠りなさい』
厳かな声がする。
女の声だ。知らない声。いや、知っている気がする。
けれど、それ以上が彼にはわからなかった。真綿か羽毛でくるむような温もりとまどろみの中に浮き沈むたびに、本のわずか、思い出しかけた何かがこぼれて落ちていく。
何も残らない。
彼の中に、何も残ろうとしない。
『眠りなさい』
子守唄のような女性の声が、彼を包み込んでいる。
それが、彼をもっと深いところへといざなう。抗う力はなかった。だから、彼はただ沈んでいくことしかできない。それを不快とは、思わなかったが。
『ねぇ、■■■■■さま。庭の隅に、すごく綺麗な花が咲いたんです』
優しい声がした。
この声は、時々よみがえってくる声だ。
沈むとにごって聞こえない、だから少しだけ上へ移動する。その声が、彼を呼ぶノイズ交じりの声をもっと、はっきりと聞くために。例え、どれほど近づこうと一部が聞こえなくても。
近づくほどに暖かく、やわらかいものを感じた。
金色の……陽だまりのような、暖かい日の光が見える。夢の中、気づけば彼は懐かしい場所に佇んでいた。声の主はいない。ここには自分だけが、かつてそうだったように、一人。
『■■■■■さまは、どんなお料理が好きなんですか?』
声だけが響く。
懐かしい声が響き続ける。それはとりとめもない内容で、いくつかのパズルのピースを適当に拾い上げるかのように、何の脈略もない。意味もない。けれど、それでもよかった。
この声は、ずっと聞いていたい声だから……それでもよかったのだ。
『この前、■■■■■さまが持ち帰ってくださった、あの花の種がやっと芽吹いて、咲いてくれたんですよ。もっとたくさん咲いてくれたら、そこの傍でお茶でもしましょうね』
『もぅ、■■■■■さまったら! そこは掃除したばっかりなんですよ! なのにどうして汚すんですか信じられませんっ。バツとして、これとこれ、向こうに運んでくださいねっ』
『わたし、いつか死んでしまう……のですよね。■■■■■さまをおいて』
『やだなぁ……ずっと、■■■■■さまと一緒にいたいなぁ』
『神様って意地悪ですよね。どうして、叶わないんだろう』
『大きな流れに飲み込まれて、小さな願いは叶いもしない。わたしはただ、■■■■■さまのお傍にいたいだけなのに。どうして誰も、そんな些細な願い一つ見逃してくれないの……?』
『ねぇ、■■■■■さま』
『■■■■■さま』
『■■■■■さま――』
声がにごる。離れていく。
最後に聞こえたのは。
『眠りなさい』
彼の意識を底へと沈める、あの声だった。
――ルシア。
聖都と呼ばれる、すでに亡き女神の名を冠する都の底。
鳥篭のような牢獄の中で眠れる彼の唇から、かすかに漏れた名を。
聞いたものは誰もいない。