黄の王子、藍の侍女
第二王子ルシアン・エクリュネイルは、庭の隅にうずくまって咳き込んでいた。胸の辺りの服を強く掴んで、ひたすら襲い掛かる震えに、必死に耐えていた。
彼の母で、かつては聖女と呼ばれた王妃シエラリーゼ。彼女の母――つまりルシアンにとっての祖母に当たる女性は、あまり身体が強い女性ではなかった。といっても命に関わるほどではないのだが、何かあるとこうしてせきがでてしまい、なかなか止まらなくなる体質だ。
母や、その兄である伯父にはそれが出なかった。
一代飛ばして、孫であるルシアンだけが持ってしまっているのだ。母すらうらやむ、きらめくような金髪と共に。実際彼の髪は長いが、それは母からの嘆願というなの命令だった。
息子からすると、母のほうがよっぽど綺麗な髪をしているのだが……。
「……っく」
息は、せきとして吐き出され続ける。
偶然にも周りに人がおらず、彼を助けてくれる存在はいない。日ごろから一人がいいと供もつけなかったのだが、こういう時は毎回その考えを改めたくなる。けれど、監視されるように周囲を人で囲まれていて、身内すらすぐには逢えない兄を見ていると――やはり、無理だ。
人に囲まれるなど、夜会の時だけでいい。
むしろ、あの時は我慢するのだから、せめて城の中ぐらいは。
けれどいつになく長引く発作に、次第に意識すら。
「大丈夫……です、か?」
遠ざかりかけたものを、引き止める声がする。
背中を、母のように撫でてくれる手がある。
視線だけでそちらをみると、侍女服を身に着けた少女がいた。もっとも、姿は足のあたりしか見えなくて、年齢も声の若さでそう思っただけ。実際のところはわからないが。
ただ、その手が優しかった。
「ありがとう……もう、大丈夫だ」
ゆっくりと身体を起こして、相手に感謝を述べる。
「いえ……大丈夫なら、いいです」
抑揚がない、ぼそぼそとした口調。だが、とても落ち着いた綺麗な声だ。背中に置かれたままの手。そこに繋がる腕を肩へと視線を滑らせていった先にあったのは、青だった。
息を呑むほど深く、美しい。
紺碧の髪の少女がいた。
「……君、は?」
「姫様の侍女を、しています」
アリアと申します、と告げる彼女は、恭しく礼をする。
姫様――それはルシアンの妹のことだ。妹は女官以外にも気立てのいい侍女を、その身分を気にせずに傍においている。中身がよければ付属物などどうでもいいのよ、とは彼女の弁だ。
その一人なのだろう。
見覚えがないので、ごく最近上に来たらしい。
「あの、ところであなたの、お名前は?」
「え?」
「ここに来たばかりで……まだ、皆様の名前も、わからなくて」
申し訳なさそうに目を伏せるアリア。
どうやら、彼女はルシアンが王子だと気づいていないらしい。年齢と性別の違いはあるが妹を含む家族と、そう顔かたちは違っていないはずだが。いや、逆に似ているからこそよくわからないのかもしれない。今までにない新鮮な感覚に、ルシアンは思わず笑みを浮かべた。
二番目とはいえ、ルシアンは王子だ。
うんざりするほどに、彼には人が集まってくる。
自分を知らない相手がいるなんて、想像もできない程度には。
彼に実兄である第一王子には、仲睦まじい婚約者がいて太刀打ちできない。その代わりにと自分のところにくるわけだ。いい迷惑だが、兄が幸せそうなので甘んじて受け入れている。
「僕はルシアン。……一応は、君の主人の兄、かな」
「そ……う、です、か。申し訳ありません、でした。ご無礼を」
「いい。助かったから」
立ち上がって、その手を握った。
握手のつもりだったのだが。
「……っ」
色が白く、むしろ青ざめているのではと思うほどの肌に、ぱっと朱が燈る。綺麗だ、という第一印象が一瞬で、かわいいに、変化した。困ったような表情も、実に愛らしいといえた。
なぜか、もっと困らせてみたい、近づきたい。
そんな願いが浮かぶ。
「そうだな……申し訳ないと思うなら、僕を名前で呼んでくれないか?」
「でも、殿下。わたし」
「ルシアン」
何度か訂正を繰り返すうち、アリアは諦めた。
「では……ルシアンさま、とお呼び、させていただきます」
よろしくお願いします――と、アリアはぺこりと頭を下げる。
うっすらと浮かぶ微笑に、ルシアンは目も、そして心も奪われた。
彼は後に、この少女を妻にする。
まずはほとんど関わりがなかった、名ばかりの許婚との縁を断った。元々、夜会で何度か顔をあわせた程度の接点しかなく、ルシアンが彼女について知っているのは彼女の名前と、とにかく王族に名を連ねて贅沢をしたそうにしている、という程度。
城にルシアンを訪ねてくることはなく、また彼をお茶などに誘うこともなく。彼女やその親族を嫌う貴族からは、許婚というものに油断をしていた報いだ、と影で笑われた。ほとんど決まりかけていた婚約が白紙になったことと、物笑いの種になったことが、よほどプライドを傷つけられたのだろう。彼らは何が何でも元に戻すと意気込み、ルシアンに掛け合った。
――結婚すれば王族から離れ、兄の臣下になる。
アリアを傷つけることも厭わない雰囲気を持ち始めた彼らに、ルシアンは当初から考えていたが家族に止められていた『奥の手』を宣言した。王族から離れてしまえば、彼は元王子になってしまうし、子供にも孫にも王位を継承する権限は回らない。
王族に連なり贅沢をしたかったらしい元許婚は、ルシアンの宣言が本気だと知るや否やさっさと別の男のところに嫁ぎ、それをきっかけに他の反対者も手を引いていった。
「では、ここに二人の婚姻を認めよう」
反対するものがいなくなった、そのタイミングを見計らい王は宣言する。
こうして、二人は晴れの日を迎えることができたのだった。
■ □ ■
――こちらの苦労も知らないで。
国王は騒がしい集団に、ため息と苦笑をこぼした。
今日は息子の晴れの舞台。兄弟や親戚にもみくちゃにされる息子を、国王は黄金色の瞳を細めて眺めている。特に、執拗にもみくちゃにしようとするのは、第一王女――妹姫だ。
「よくもわたくしからアリアを! 許しませんわっ」
「いたっ、やめ、痛いっ」
お気に入りの侍女を取られて、妹姫はとてもご立腹だった。怒りをぶつける相手は花婿であり実兄なのだが、容赦なく攻撃を、主に髪を引っ張ることで与えている。
姫様、と何とかしようと花嫁だが、まったくもって効果はない。
そこにあったのは、紛れもない『幸福』だった。
ルシアンはこれから王族から席を抜き、跡取りがおらず断絶していた国王の母の実家を継ぐことになっている。花嫁は王妃の親戚筋の養女となって、そこから嫁ぐという流れだ。
だから二人はまだ、正式には結婚はしていない。
数日後、大聖堂で誓いの儀式を行うと同時に王族から席を抜く予定だ。
しかしそれにはいろいろ準備しなければならず、何より花嫁はすでに身重だった。
誰に似てしまったのかルシアンは一度こうと決めると突っ走るところがあり、どうやら既成事実を作ってそれを盾にしようとすら思っていたらしい。花嫁がドレスを着られないのはかわいそうだわ、という王妃と王女の言葉で、こうして身内だけの式を先に行ったのだ。
暴力的な祝福にを受けているが、ルシアンは幸せそうだ。
その視線の先には彼の妻となる少女アリアがいて、彼女も目を細め微笑んでいる。
今すぐに、この瞬間を永遠に絵にしたい。
国王はそう思った。
「お前は幸せになるといい、お前だけは」
「……あら、自分は幸せではない、といいたそうな言葉」
わたくしの努力が足りませんでしたかしら、と。
つぶやいた言葉に、返事が投げられる。
普段より華やかな装いをした王妃が、くすくすと笑いながら近づいてきた。国王は、自分達のことではないと否定しようと思ったが、王妃の表情からそれは伝わっていると気づく。
「ねぇ、あの二人はまるで……まるで『お義姉さま』のようです」
「そうだな……」
一度、こうと決めたら我を通す金髪の王子と。
物静かで口数も少なく、しかし自愛に満ちた目で王子を見る青髪の少女。
色だけが逆だが、国王夫妻は若い頃、あんな『二人』を見たことがあった。
決して、幸せになれない関係だっただろう。死を望まれる男と、長い長い時を超えても男だけを望んで待ち続けた娘。最初から、幸せになる未来など、ありえなかった関係。
だが、最後に夫妻が見たのは、息を呑むほどの笑顔。
その先に何があっても、彼女は幸せだった。かつて王子だった国王が恋焦がれ、いやそれに近い感情を抱き。王妃となる婚約者の両親に養女にさせてでも、傍にいたいと望んだ少女。
彼女はよく笑ったが、あれほどの笑顔は見たことがない。
――あれほど幸せそうに笑う顔を、国王はほとんど知らない。
その一つが散々裏切り悲しませひどいことをしたにも関わらず嫁いでくれて、今も傍にいてくれる妻が、生まれて間もない子を抱き浮かべたものならば。
「あの二人は幸せになるのだろう。……あの二人がそうだったなら」
「はい」
同じくらい素敵な笑顔を浮かべている二人も、きっと幸せになれるだろう。
寄り添う息子夫婦を見て、国王はそっと目を閉じて祈った。もうこの世界のどこにもいないことを彼らだけが知っている、けれど人々の心に今も残る《女神ラウシア》に。
あの二人のように、あるいは、あの二人以上に。
お前達は、これから幸せになるといい。




