楽園の畔に佇む少女
その少女は、ルシアという名だった。
長い金色の髪が自慢の、気立てのいい娘だった。幼い頃に森に置き去りにされ、それからずっと彼のところで暮らしている。彼――とは、この森の中にある湖の近くに住んでいる青い髪の青年だ。老いることも朽ちることも無い、人間ではない存在のことだ。
彼女は彼を『王さま』と呼んだ。
国を治めたことはない、彼のことをなぜかそう呼んだ。
おそらく、幼い頃に持ち帰った絵本に、青い髪の国王が出てきたからだ。
彼は孤児院や教会に連れて行こうと思ったが、彼女はけっして離れようとしない。自分の居場所はここなのだと、幼いながらも必死に訴えてきた。最終的に、彼が根負けした形だ。
親子とも兄妹とも言いがたい二人の生活は、実に穏やかなものだった。
彼が持ち帰った植物の種を、ルシアが植えて育てたり。
森の恵みを共に分け合ったり。
その姿を他者が見たなら、きっと親子とも兄妹とも言わないだろう。
きっと、夫婦――あるいはそれに近いものと、思っただろう。
実際、二人の関係は次第に移ろった。親愛しかないと、少なくとも彼は思っていたが、ルシアはそれと似て異なる別の関係を求め望んだ。……このときも、またもや彼は根負けする。
「王さまは押しに弱いですね」
くすくす、と笑うルシアは――無邪気な子供のように見えたが、同時に立派な女性になろうとする少女でもあった。いつか寿命と時間が引き裂くとわかっていながら、二人は互いを伴侶とすることをやめられなかった。どうせなら最後まで共に。それが二人の願いだった。
しかし人ならざる存在だった彼を、世界は決して許さなかった。
世界――いや、その外側にいる神々が、許さなかった。
彼が離れているその隙を狙うかのように、人々は楽園の畔に攻め込んだ。そして抵抗もできないルシアを引きずるように、ある町へと連行した。そこはこの近隣ではもっとも規模の大きい町で、領主を名乗る赤毛の青年がこの一件の首謀者だった。
彼は日課としている祈りの時、『神』に言われたという。
楽園の畔、そう呼ばれる場所にいる魔女を殺せと。すべての災厄はその魔女が、おぞましい下法で世界を呪っているからだ。このままではお前の家族、数多の人命が失われるであろう。
迷うことは無かった。現に天候が悪く実りも少なく、人々は迫る餓えの苦しみにおびえていたのだ。それが『魔女』のせいならば、何をためらう必要があるというのか。
「おぞましい魔女め。貴様は見せしめだ。愚かしい行為をするものが、二度と出ぬようにな」
男はそういうとルシアを処刑台につるし、四方八方から刃をつきたてた。何十人もの騎士や兵士や市民が、それぞれの身に起こったすべてはこの『魔女』のせいだとわめきながら。
そうして彼女が瞬く間に絶命し、人々は晴れやかな表情で去っていく。
「もう大丈夫だ、何も怖くない……お前とこの子を脅かす魔女は、もういない」
赤い男がそういって抱き寄せるのは、金髪の女性。ゆったりとした衣服に身を包む彼女の腹部は大きく、そこに新たな命が宿っていることは明らかだった。それが後にこの辺り一体を納めることになる王族の始祖となるなどと、この時はきっと誰も知らなかっただろう。
ぐるり、と世界が暗転する。
違う光景が広がった。
■ □ ■
その少女は、ラウシアといった。
実り豊かな国に生まれた、美しい王女。誰からも愛される彼女は、女神ラウシアの生まれ変わりだった。世界を滅ぼしかけた暴食王を封じた女神と、同じ名を持つ聖女だった。
親兄弟に愛され、人々に愛され。
彼女は己の立場に慢心せず、誰かに尽くすために日々を過ごした。孤児院への援助を行うのはもちろんのこと、貧しくとも読み書きと計算ができるように無償の学校も作った。すでにある学校にも補助をだして、少しでも多くの子供らが学べるようにと考えて。
生き急ぐようだ、と彼女はよく言われていた。
主に、後に王位を継ぐ兄に。
その言葉に、後悔するのがいやなだけです、とラウシアは答えたが、実際は違う。
急がなければいけない理由があった。
自分は結婚などをする間もなく、聖女として生き、そして死ぬのだから。
歴代の聖女だけが読むことができる書物に記されていた、聖女という存在の予定表。
もうじき、彼女は暴食王の封印をとかなければならなかった。それから一年もしないうちに死ななければならなかった。病死に見えるように、ひっそりと……穏やかに。
縁談は雨のように持ち込まれたけれど、彼女はただ一人を選んだ。
それは彼女を、聖女ではなくラウシアという少女を愛したある騎士ではなく。
まもなく塔に閉じ込められた、暴食王だった。
一目見た瞬間、彼女は彼に心のすべてを奪われた。抗うことなど考えることもできず、引きずられるように溺れていった。意味もなく彼の元を訪れることは、彼女にとって至福だった。
けれど、同時に苦しいほどの怨嗟もまた、抱え込むことになってしまう。
慕う心をつぶさんばかりに、王への憎しみもこみ上げたのだ。
彼女は後に、誰もが褒め称える『聖女』となった。
だが、彼女自身は自分を『魔女』と呼んで、蔑んだ。
「お兄様、わたくしはおぞましい魔女なのです」
「ラウシア……」
「浅ましく、愚かなのです。誰よりも恵まれた世界にいるのに、わたくしは背負わされた対価が苦痛で仕方がない。それなのに、その苦痛を苦ともしない誰かに渡したいとも思わない。この役目はわたくしだけのもの、わたくし以外の誰にも譲りたくないと思っているのです」
ある日、彼女は兄にそんなことを告げる。
それは暴食王の封印が間近となった日。
人目を忍んで兄の部屋に現れた彼女は泣きながら、己の苦しみを打ち明けた。
苦しみと――それすらも欲する貪欲さと。
背負う痛みがあることへの喜びを。
「ねぇ、お兄様。わたくしは幸せなのです。あの人だけの『聖女』になれることが。あの人だけのものでいられることが。わたくしは幸せなのですわ、誰よりも、幸せなのです」
だから、と彼女は泣き笑いの顔で。
「あの方の申し出を、どうか断ってください……わたくしは、彼の『花嫁』にはなれません」
自分だけをずっと慕ってくれた騎士の求婚を、断った。
逃げ道にはしたくなかったのだ。自分のことを想ってくれているからこそ、彼には同じ思いを返せる別の誰かがふさわしい。聖女の定めを考えて、自分は彼に何も残すことはできないだろう。ただ『聖女の夫』という重荷だけを、押し付けて消えることしかできないだろう。
そうなったら、彼はずっと一人身だ。
間違ってもそれだけは、それだけは避けたかったのだ。
そして、聖女ラウシアが没して数年。彼は王となった聖女の兄から縁談を進められ、とある令嬢と結婚する。聖女が願ったとおりの幸福を得られたかどうかは定かではないが、彼の一族は今も王家に忠実な臣下として、国の中枢で働いている。
その一族の名は、フランベルといった。
■ □ ■
夢を見ていた。
長い夢。
ただただ長くて、悲しいだけの夢。
夢はたくさんあった。いろんな名前の少女らの、たくさんの話があった。
同じ運命を背負って生まれ、同じような葛藤を抱いて死んでいった少女らの話。
どうして、わたしはそれを見たのだろう。
わたしは、同じ運命も葛藤も、何も背負っていないのに。
彼女らが背負った運命、それは暴食王の眠りを覚まし、再び眠らせるという役目。そのためだけに生きていく、という運命。だけど今それを背負っているのは、わたしじゃない。
聖女はシエラリーゼ・フランベル。
じゃあ、彼女も同じように葛藤しているのだろうか。
暴食王を封じることへの、その運命の憐憫ではなく行為への躊躇いを。だけど、だったら彼女も眠らせるだけにするはずなのに、彼女はいきなり王を殺すと言い出した。何かきっかけがあったのかもしれない。今までにはなかった、だけど今起きてしまった何かが……。
じゃあ、わたしは何なのだろう。
あの夢のようなものは、何の意味があるのだろう。
夢の中に『わたし』はいない。わたしの役割はなかった。すべての舞台の配役に、わたしが入る余地はなくて、見るためのチケットなども持っていないはずなのに。
どうしてわたしは、見ていたのだろう。
幾人もの少女らが苦しみ、悩み、涙を隠してやり遂げた一連の出来事を。
どうして、黙ってみていることしかできなかったのだろう。
彼女らはわたしじゃない、だけど痛みは何故かわたしに帰ってきた。悲しい気持ち、苦しい気持ち、それから最初の――ルシアという少女の、痛みと絶望と、最後に抱いた願いの強さ。
彼女は王さまを失いたくなかった。何より、彼に幸せになって欲しかった。復讐なんてしてほしくもなくて、いっそ自分のことを忘れて別のところで平穏を得ていてほしかった。
ずっとずっと幸せでいてほしくて、それだけを願って。
あぁ、だけどわたしは。
次に会う時に、今度こそすべてを失ってしまうのだ。
悲しまないで泣かないで、なんてよくも彼女は思えたものだ。
ルシアという少女もラウシアという王女も、とても残酷な願いを口にした。
残酷で、できもしないことを願った。
無理だ。
そんなもの、無理に決まっていた。
愛する人を失って、悲しまないことなどできるわけがないのだから。




