紺碧の指輪
処刑まで、あと二日になった。
「似合っているね」
そういって笑う人を、わたしは一瞥もしない。
ここは城の、どこかわからないけれどドレスがたくさん置かれた場所。それ以上に布地などがふんだんに用意されていて、わたしは仮縫いまですんだドレスを着ている。
そこにやってきた彼は、王子セシルは、満足そうに笑っていた。
こんな衣装に着られているマネキンみたいなわたしの、どこが似合っているのだろう。
理解に苦しむ。
「着せ替え人形がお好みだとは知りませんでした、殿下」
「そんなことは……!」
「卑しいわたしなど飾ったところで、何の意味もありません」
「ラキ、君は間違っている。どうしてそんな風に自分を卑下する!」
「卑下ではなく、真実です殿下」
考えるまでもないことなのに、どうしてこの人は悲しそうにするのだろう。
わたしは、自分を卑下する趣味は無い。
卑下するようになったのは、間違いなく彼のせい。
なのに責められても、わたしにはどうしようもないことだ。今、わたしを取り囲む世界そのものが、わたしにそうさせるのだから。そしてその世界を作り上げた張本人は、彼なのだ。
「……しばらくしたら戻る。ここで待っていてほしい」
それだけ言うと、彼は部屋を出て行った。
布に囲まれた場所、わたしだけが残された。
薄いレースのカーテンに覆われた窓の外には、少し前までわたしの日常だった世界が広がっている。小さく見えるのはかつての同僚達。楽しそうにしているのが、ここからでもわかる。
帰りたい。
あの世界に。
だけどこんな窮屈なドレスじゃ、あの場所に立つこともできない、と。
自嘲しながら部屋の中に視線を戻したわたしは、それに気づいた。
■ □ ■
かつ、かつ、と小走りにわたしは廊下を進む。
あの部屋にはいろんな衣装もあった。
少しデザインが古いけれど、侍女用の服も。
わたしは偶然見つけてしまったそれに着替えると、髪や顔を隠すように頭に布をかぶった状態でそっと部屋を飛び出した。そのまま人に会わないよう、気をつけながら進む。
この辺りの道を、わたしは知らない。
だけど外の景色をよく見れば、自分がどの辺りにいるのかわかる。
次第に周囲の景色は見慣れたものになり、そして、やっとたどり着いたのは長い廊下。
王さまがいる塔に繋がる、渡り廊下。
扉の前には二人の――見た目からしておそらくは、騎士。カディス様と同じくらいの背格好で身体付きはしっかりとしていて、とてもわたし一人で突破できるようには見えない。
だけど、あの向こう側には王さまがいる。
ここさえ突破すれば、わたしはあの人に会うことができる。
――あってどうするの?
誰かが、そんなことを尋ねてきた。確かにそう、会ったところで何も変わらない。王さまは処刑されてしまうし、わたしはきっと囚われたままになるだろう。多少、わたしの立場に変化があるかもしれないけれど、どっちにしろもう、元の生活に戻ることなどできはしない。
王さまはいなくなる。
わたしは、わたしの世界を失う。
ここで再会せずとも、それは変わらない未来。
「でも……だったら、最後に」
一度だけ、最後に会ってもいいじゃないか。そう思った。
そのためにはあの騎士達を、何とかして排除しなければならない。妙案はなかった。そういうのは基本的にラヴィーナやユイリックの担当で、わたしは機転というものがきかないのだ。
しかしそうも言っていられない。
今、利用できるものは――。
「騎士様!」
わたしは、彼らの前に飛び出した。
そして恭しく礼をして、媚で固められた声色で。
「殿下の、セシル殿下の婚約者様が脱走を企てられて……その、向こうで篭城なさっていらっしゃったのです。秘密裏に説得していたのですが、とうとう窓の外に出られてしまって」
自らをエサにする、という作戦。
騎士といえど、貴族といえど、王族に好かれなければなかなか上にはいけないらしい。ましてや今はいくつかの名門と呼ばれる貴族やその縁者が、幅を利かせている状況だ。もしここで王子の寵愛深い少女――わたしだけど、その少女の危機に参上できれば株を上げられる。
「お願いします、あのままでは飛び降りてしまわれます。どうかお力を!」
祈るようにそういうと、彼らはしばし顔を見合わせたが――わたしが指差した方向へと向かっていった。元々、わたしが王子との関係に難色を示しているという噂があったから、それくらいやりかねないかもしれない、という具合に思ってもらったらしい。
ラヴィーナからもらっていた鍵を使い、わたしは当の中に入る。最初頼んだとき、彼女は最後まで難色を示していたけど、昨日になってそれとなく届けてくれた。
後悔しないならあんたの好きにやってみなさい、といい。
でもお願いだから無茶だけはしないでね、と笑って。
わたしは、いい友人を持ったと思う。鍵を渡す時に部屋にいた女官――サリーシャという人の意識をそらすため、ユイリックはなんと彼女を口説き始めた。彼女はカディス様より少し年下といった感じに見える年齢で、間違いなくわたし達の誰よりも年上だったのに。
まぁ、おかげでうまい具合に鍵ももらえたのだけど、ユイリックのあれはとっさの演技とでまかせだったのか。……わたしには、どこか本気で言ってるようにも、聞こえたけど。
それはともかく中に入れた。
わたしは少し息を吸い、内側の扉を開く。
「……」
王さまが、驚いた表情を隠さずに、わたしを見ている姿が飛び込んできた。
無理も無いこと。わたしがここにくることは、きっと二度とないと思っていたはずだ。もしかするとわたしと王子のことを、彼も聞かされているかもしれない。
そんな存在が、自分の前に現れるなんて……考えたことも、なかったのだろう。
「なぜ、お前がここに」
「会いに着たんです、王さまに。処刑されるって、聞いて……それで」
「そのようなことで……お前は得られた未来を、投げ捨てかねないというのに」
「でも王さまっ、わたしはあんなもの望んでなんか!」
「今はそう思えるだけだ。我が消えれば、消えて少しすれば、あの者の傍にあることが最良であるとわかるだろう。どの道我といたところで、誰も幸せになどなれない定めなのだからな」
「でも、だけど! それでもわたしは……それに、王さまは!」
「もうよいのだ。これですべてが終わる。ずっと覚悟してきたことだ、未練もない」
だが、と王さまは言葉を濁すように続けて。
「お前のせいで、少しばかりの名残が……できてしまったな」
苦笑するような、それでいて自嘲するような。そんな声でつぶやく。王さまは自分の懐をしばしまさぐって、何かを取り出した。小さな、握り締められるほどの大きさしかないもの。
一度、それを手のひらに載せて見つめる。
長いようで短い時間を置いて、それをわたしにそっと握らせた。
「これを、お前に渡そう」
「あ、の……これは?」
「もう我には不要のものだ。……お前が持っていてほしい」
王さまがわたしに握らせたのは、指輪だった。
その形状を確認するより早く、背後から騒がしい音が近づく。どうやらわたしがここに入り込んだことが、すでに向こうに知られてしまったらしい。時期に彼らは、ここに来るだろう。
「……お前は幸せになるがいい。あるべき場所で、あるがままに」
「お、王さま……っ」
「選択肢を見誤るなよ、選ぶべき最善は――」
す、と王さまがゆっくりと腕を挙げ、わたしの背後の方を指差し。
「あちら側だ」
そして、わたしを軽く突き飛ばすようにして。
――笑みを、小さく浮かべた。
一瞬だけ見えたそれに、わたしの意識が奪われる。
でもそれはもしかすると、王さまの計算だったのかもしれない。
なぜならその隙に、二人の間を隔てる扉はゆっくりと閉ざされてしまったから。
「お、王さま、王さまっ」
がちゃり、という音と共に閉じられた扉に、わたしはすがりつく。力任せに叩こうとした腕をつかんだのは、今は一番会いたくない人だった。焦った表情に怒りを滲ませ、彼は、王子セシルはぐいぐいと引っ張った。ゆっくりと、確実に、わたしは扉から引き剥がされていく。
いつの間に、この人はここに来たのだろう。
どうしていつも、わたしの邪魔ばかりするのだろう。
「離して、まだ王さまが」
「これ以上自分の立場を悪くするのか! いいからこっちにくるんだ!」
立場?
そんなもの、わたしにはどうでもいい。
そもそも、その言葉はあなたにこそふさわしいものだ。庶民を花嫁に向かえ、聖女を切り捨てる愚行を犯したあなたこそが、己の立場を悪くしているとどうして思わないのか。
わたしの立場なんて、どうでもいい。
王さまともっと、もっと!
だけどそれなりに力仕事もこなしてきたとはいえ、わたしの力では叶わない。彼は王子で剣術も嗜んでいる。身長の差もあって、ずるずると引きずられるように移動させられた。
「あ……」
伸ばす。手を。
もう、あの人には届かないのに。
――■■■■■さま。
声が響く。
引っ張らないで、もっとここにいさせて。どうして邪魔をするの。すぐそこに、その扉の向こう側に彼がいるの。もっと、もっと一緒にいたいの。邪魔しないで、邪魔をしないで。
あと少し、あと少しだけでいい。
だけどわたしの抵抗は、簡単に封じられる。数人に抱えられ、わたしは元いた部屋に運ばれてしまった。そのまま一人、部屋の中に閉じ込められる。硬く響くのは、施錠する音だ。
「王さま……」
とっさに服の中に隠したそれを、わたしはそっと取り出した。
青い宝石がついた、シンプルな銀色の指輪。
王さまからの、贈り物。
きっと、見つかったら奪われてしまう、捨てられてしまう。絶対に渡すものか。絶対に渡したりするものか。あの人が、わたしにくれた……きっとたった一つのモノになるのだから。
あの人の髪色を思わせる美しい宝石を見ていると、嗚咽が抑えきれなくなる。指輪を握り締めたまま、わたしはよろよろと寝室に移動し、ベッドに倒れこんだ。
悲しいし、苦しいし、痛い。
なぜこんな思いをしなきゃいけないのか、わからない。いっそ、あのときに抵抗して死んでおけばよかったのかな。あの騎士や兵士にばっさりと切り捨てられていれば、この痛みを知ることもなかったし、知った上で別の誰かと一緒にいなければならないなんて未来も無かった。
嫌だ、嫌だ。
わたしは嘘をつかれても、それでも彼を嫌いにはなれない、憎めない。
だけどこのままだときっとわたしは、彼を嫌い、憎む。
そんな自分が、わたしは何よりも誰よりも恐ろしくてたまらない。
誰かが恨む資格があるといっても、自分でもそうだと思っていても。誰かや何かを呪いながら生きていくなんて、嫌だ。そんな自分になってしまうことが、とてもとても嫌だ。
どうして、こうなったんだろう。
何が悪かったんだろう。
どこで、狂い始めてしまったんだろう。
「――さま」
ぽつり、と零れた音は、聞きなれないものだった。それが何か、自分で違和感に気づくより先に意識が黒く染まっていく。眠るというより、眠りに引きずり込まれるような感覚だ。
閉じていた目を、わたしはゆっくりと開いていく。
そこは、知らない場所になっていた。いつの間にか身体の感覚が、横たわったベッドの感触が消えていて。まるで綿毛のようにふわりふわりと、わたしは宙に浮かんでいる。
視線を向ける先、見えたのは赤。
手首を縛られ、吊るされて物言わぬ躯。
あぁ、彼女は殺された。うつろな目はもう何も見ない。なのに、その視線の先には青い人がうずくまっている。泣いている。低くうめき、震えてただただ泣き続けている。
泣かないで。
お願いだから――。




