狂い始めた世界
あと数日で、たった数日ですべてが終わる。
始まることなんてない。
聖女が聖女を止める日はつまり、王さまが封じられてしまう日だ。わたしが、もしかすると王さまを見ることができる最後の日。覚悟していた日だけど、状況は想像をはるかに超えた。
どうして、こんなことになったのかな。
あの衝動を抱えたまま、何も知らずに故郷にいればよかったのかな。
そうしていれば少なくとも不自由を強いられるのはわたしだけ、ミィやラヴィーナやユイリックを巻き込むことも無かった。こんな大騒動になることは、絶対になかった。
無関係な人々を巻き込むくらいなら、わたし一人が苦しめば。
「……失礼します」
そこに、控えめなノックの音が響く。
声をかけてきたのは、ずっとわたしについている女性だ。おそらく女官で、たしか前に一度見かけたことがある。名前は忘れてしまったけれど、聖女シエラリーゼについていた人だ。
彼女はつややかな黒髪を揺らし、部屋の中に入ってきた。
そして恭しく頭を垂れると。
「お友達の皆様が、祝福のお言葉を述べにいらっしゃいました」
「とも、だち……ミィやラヴィーナ、ですか?」
「お名前は存じません」
「えっと……じゃあ、通してください」
淡々としたやり取りにやりにくさを感じつつ、わたしは来客を待った。
しばらくして部屋に入ってきたのは、実に騒がしそうな双子。
「ラキ! 無事だったのね!」
「いきなり連れて行かれて、退職扱いで、挙句に王子の花嫁……もうわけわかんねぇよ」
どたばたと、少し視界がゆがんでしまうほどの騒がしさ。
それがわたしの前に並び、手を伸ばしてくる。
「ラヴィ、ナ、ユイリ……」
安心して、わたしの身体から力が抜けた。言葉が続かない。何か、言わなきゃいけないことがたくさんあったはずなのに、喉が消えたように震えようとしてくれない。
「よしよし、怖かったわよね……」
隣に座ったラヴィーナが、わたしの背中を撫でた。
しばらくそうしていると身体も落ち着き、わたしはふと気になった。
この場にいない、彼女のこと。
「ねぇ、ミィは……?」
「あ、大丈夫! ミィはちょっと他所の仕事がね。……離れ離れになっちゃって。食事の時間もずらされちゃってさぁ、なかなかね。実はあたしらも持ち場とか別れちゃったのよね」
「そうなんだ……」
「偶然オレとラヴィーナが一緒に休憩取れそうで、だからこうして来たってわけだ。ミィもすごく心配してたぞ。なんせいきなりお前が王子の花嫁……だもんなぁ。急展開すぎるっての」
「そうそう。あたし達みたいな下っ端にまで、貴族のザワザワが聞こえるのよ。公の場では結構仲睦まじい姿を見せてたみたいでさ、王子と聖女様。まさにせーてんのへきれきって感じ」
「胸糞悪い話ばっかり流れやがって……これだから貴族ってのは」
ぶつぶつ、と交互にグチをこぼす双子。
その様子はとても懐かしいもので、次第に心がほぐれていくのがわかる。
同時に、今の『外』がどういう状態なのかを、わたしは知ることができた。
やっぱり、この状況への否の声はとても多いらしい。当たり前だ。この国唯一の王子の伴侶にわたしのような、元平民が選ばれるなんて尋常じゃない。彼の花嫁を狙っていた層は、聖女だからこそ黙って指をくわえていた人も多いはずだ。相手が聖女だからこそ、ある意味『仕方が無い』と諦められたに違いない。そこへ、わたしという存在が取って代わったならば。
まさか、閉じ込められていることにほっとする日が来るなんて。
でも少しでも自由があったら、わたしは今ごろどうなっていただろうか。
感謝はしないけど、何とも複雑な気持ちだ。
「っていうか、今回は処刑らしいわよ」
ごくごく、と用意されたお茶を一気に飲み干し、ラヴィーナが言う。
その言葉が一瞬理解できず、わたしはぽかんと聞き返した。
「……しょ、けい?」
「そう! いきなりよ! 今まで封印するしかできないって言ってたのに!」
「じゃあ……じゃあ、あの一週間後のって」
「暴食王に魅入られたかわいそうな乙女――ラキを救う王子様ってとこじゃない? そして二人はいつしか互いに思いあうようになり、聖女が己の役目に殉ずる形で身を引いて二人の前途を祝福するっていう。反吐が出るくらいよくできたお涙頂戴のらぶすとーりぃってやつ」
最悪だわ、とラヴィーナが吐き捨てる。
それは、わたしが閉じ込められてすぐの話だったらしい。
突然、城と大聖堂の連名で――いや、王子セシルと聖女シエラリーゼの連名で、一つの決定が告知されたという。それが、暴食王の処刑。この土地を永遠に恐怖から切り離す大仕事。
なぜ今まで成されなかったのか、とは誰も言わなかったそうだ。
ただただ、ひたすらに暴食王という異物が取り除かれることに人々は狂喜した。
ここには届かないけれど、町は今はもう上へ下へのお祭り騒ぎ。もしこんなことになっていなかったなら、わたし達もそこに混じって喜んでいたかもしれないほどに。
一方、王さまはというと厳重な警備の元、今もあの塔にいるという。世話をする相手も話し相手もいない中、きっとあの人はいつもどおり窓辺で読書をしているのだろう。
知っているのだろうか。
彼は、自分が処刑されてしまうこと。
……きっと、気づいているのだろうと思う。
気づかないほどあの人は、王さまは、愚かではないから。
「王さま……」
いっそ、わたしも一緒に処刑してくれればいい。ほら、あの騎士が言っていたように、暴食王の情人だとか理由をつけて。いっそそうしてくれたらいいのに、その方がずっと楽なのに。
「ラキ、元気だして。今ね、カディス様が国王に掛け合ってるの」
「カディス様が?」
「そう。どうやら国王様と王妃様は、あんたと王子が相思相愛だからってことで、聖女との縁談とか全部無かったことにしたらしいの。だけどあんたはそんなことないでしょ? だから王子が無理強いして一人の少女を、権力を使って閉じ込めているって訴え出たの」
「そのうち偉い人が話を聞きにくるだろうからさ、その時にいろいろ、罵詈雑言でも何でも言いたいことぶちまけちまえ。自分勝手な王子なんて、この国にはいらねーっつーの」
ははっ、と笑うユイリック。どうやらわたしは、わたしだけはこの狂ったとしか言いようの無い世界から解放されるらしい。その後、彼がどうなるかは知らないけど、興味も無い。
だけど、すべてが元通りということではなかった。
わたしがどうなろうと、王さまはもういないことだけはわかっている。
――王さま、王さま。
頭がズキズキするほどに、その名前を呼ぶ。知らない名前を、知らない声で、聞こえない音で綴る。青い面影が、閉じた暗闇の隅をゆらりと漂う。ラキ、と名前を呼ばれた気がして。
「……会いたい、な」
自然と、そんな願いが口から零れていた。
理由なんてわからない、方法なんて知らない。だけどどうしても、わたしはあの人に会わなきゃいけないと、そう感じた。迫る処刑の日、狭まっていくわたしの自由と世界。
王さまに会いたい。
今が解決し終わってしまうその前に。
なぜならこの狂った世界が終わることは、つまり王さまとの別離の証なのだから。
最後の瞬間の、その前に。
もう一度あの人に、触れたいと、わたしは願った。




