兄でしかなかった
閉じ込められて数日。
夕食の準備が整う頃にようやく彼が、わたしの前に現れた。
誰かが来るのだろうな、ということは知っている。なぜなら用意された食事が、明らかに二人分あったからだ。そしてこのタイミングでくる人といえば、一人しかいないなとも思った。
いつもは食事の後にする入浴も、今日はその前に行った。いつもは一人で入っているのに数人の女性が一緒に入ってきて、いいと言ったのに問答無用で身体をしっかりと洗われて。あんな思いをするのは、もうこの一回だけでいいと思いつつ、わたしは諦めてされるまま。
そもそも、わたしのここ数日の生活は無駄だらけだったと思う。
誰に会うでもないのに、なぜか上等な――そう見慣れていないわたしでも、どちらかというと余所行き用のものなんだろうなと思うほど、装飾がしっかりしたドレスを着用して。髪も丁寧に整えられて、爪なんてガラスのようにつやつやに磨かれて。
なぜ、こんなことをされるのか、わたしがされなければいけないのか。
それに答えられる人が、やっとわたしの前に現れた。
今の彼は少しだけ、わたしが見ていた姿と違っているように思える。それはさらに豪華さを増した衣装のせいかもしれないし、知ってしまった彼の素性のせいかもしれない。
だけど、一つだけわかっていることは。
もう、何も知らずにいた頃には、二度と戻れないことだ。
「……イオ様、とお呼びすればいいですか。それともセシル殿下ですか」
立派な身なりで現れた彼を、わたしはどう呼べばいいのかわからない。本音としては嘘つきと呼んでしまいたいのだが、回りは『敵』だから我慢する。そう、周囲に控えている兵士も騎士も侍女も女官も、誰でもいいけれど、わたし自身以外はすべて『敵』と言っていい。
少なくとも味方じゃない。
一方的に個人の自由を踏みにじる人は、基本的に悪い人だ。
「呼び捨てでもかまわない」
「わたしは平民の子ですから、そのようなものは恐れ多いです、殿下」
呼び方を尋ねつつ、でも結局わたしは彼を殿下以外で呼ぶ気はなかった。これは嘘をつかれていたことへの怒りのようなものもあるし、わたしを閉じ込めることへの憤りでもある。
殿下、と最後にとってつけたようにすると、彼の表情が曇った。
ほんの少しだけ、罪悪感が生まれる。
でもそれは、これからは邪魔になるからと一度封じた。その上で、わたしは。
「それで、いつまでわたしはここにいなければならないのでしょうか」
責めるように、言葉を続けた。
ように、というよりも完全に責めているかもしれない。
だけどここで怒りに任せ、彼に掴み掛かったり叫び散らしても、自分の首を絞めるだけだとわかっている。ここではわたしの価値は、今、髪に飾られている髪留めよりも軽い。どれだけいらだっても冷静に、穏やかに話を進めなければいけない。
わたしは、死体になってここをでたいわけじゃないのだから。
まだ――死ぬことはできない。
「訊きたいことがあります」
「……だろうと、思っていた」
「どうして『わたし』だったんですか。なぜ、わたしなのですか」
接点なんて無かった、あの日、イオ様として彼がわたしの前に現れるまで。仮にあったとしてもそれは、彼からの一方的なものに違いない。わたしは、彼の――王子セシルの姿すら、おぼろげにしか知らなかったのだから。知っていれば、そもそも最初の時に気づく。
そんなか細い接点で、どうしてこの未来が導かれたのか。
――まさかの、一目惚れ?
まさか、王子がそんなこと許されるわけが無い。
それがわからない人ではないはずだ。
彼女も……聖女も、それがわからない人じゃないはずなのに。
どうして二人は、周囲を説得してまでわたしをこの場所に祭り上げたのだろう。わざわざフランベル家の養女にして、その上にこの人の、王子セシルの婚約者にまで仕立て上げて。
わたしは、どこにでもいる普通の庶民。
まさか父が噂の王弟なのか、とも思ったけれど、父は生まれも育ちもあの町だ。父が幼い頃の話をしてくれたご近所さんが全員そろって嘘をついていない限り、この可能性は無い。
じゃあ、なぜ。
どうしてわたしは、こんな場所に閉じ込められているの。
「言ったはずだ。僕は君が好きだと」
「好きなら、わたしの意志は無視しても?」
「……」
彼は沈黙する。
罪悪感――のようなものは、さすがに感じているらしい。だけどここから出すという結論だけは出さないのだろう。わたしに責められた程度で諦めるなら、最初からこんなことしない。
カディス様や、あるいは国王や、そういう人に諭され止められ、そこで終わるはずだ。
だって、この状況で得をする人はほとんどいない。
ううん……彼だけ、セシル様だけといっていい。
わたしは望んでいないし、もちろん王妃になっても幸せだとは思わないだろう。
もしわたしが生粋の貴族だったら、また違ったことを考えるかもしれない。だけど庶民にとってこの場所は、不相応を通り越してもはや劇薬だ。とても生きられる場所じゃない。
何より、これまで王妃になることを定められていたシエラリーゼ様。
彼女がどうしてこの一件に加担したのか、わからない。
「そもそも、シエラリーゼ様は」
「あれは何も関係ない。あいつは今までどおり、聖女のままだ」
そこでセシル様は、何故か視線をすっとはずした。
まるで、シエラリーゼ様の話題を出されることを嫌がるように。どこか子供のように見えなくも無い態度に、わたしは少しの疑問と違和感を同時に抱くことになった。
疑問は、なぜ彼女の話題を出されることを嫌がるのか。
違和感は、関係ないと言い切った、その姿。
関係ないわけが無い。彼女も首謀者の一人なのに。
王子一人のわがままで、聖女との縁談が破棄されることなんてあるはずもなく、もしそれを叶えるならクリア様の言うとおり、シエラリーゼ様の助力も必要だ。
彼女は王子との結婚を得て、聖女の任を解かれて城に入ることになっているといわれているけれど、それができない場合はどうなるのだろう。可能性としては任をとかれ、そのままフランベル家の令嬢に戻ること。だけどクリア様は確か、大聖堂でずっと暮らすことになる、といっていた。それはつまり、ほとんど聖女だったころと変わらない日々が続くこと。
「かわいそうじゃ、ないですか」
いくら聖女として過ごしてきても、彼女はわたしより年下の女の子だ。
これまで重い荷物を背負った彼女は、その荷物を降ろしても自由になれないなんて。
「わたしは、この状況に納得なんかしません。できません」
「なぜだ」
「だってシエラリーゼ様が」
「だからっ、シエラは関係ないんだ!」
ばぁん、とテーブルが震える。真向かいにいるセシル様が、叩いたからだ。
不安そうに室内の人々がかすかにざわめき、こちらの様子を伺う。
「あいつにとって僕は兄だ。年の離れたもう一人の兄だ」
そんな中、セシル様が小さくつぶやいた。
「兄と結婚しても不毛だ。意味がない。僕にはそれ以外になることができない。彼女がそれを望まないからだ。なのに大昔の約束で結ばれたって、誰も幸せになどなれるものか」
「セシル様……」
「僕は君を愛しているんだ。シエラリーゼは、僕にとっても妹でしかない」
うつむいたまま紡がれる言葉。
泣くような震える声のそれはまるで、言い聞かせるような響きだった。




