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それが彼女の矜持

 大聖堂には、聖女にしか立ち入ることを許されていない部屋がある。そして、そこには彼女達のためだけに用意されたものが、彼女達の来訪だけを待ちわびながらおかれている。

 この部屋には鍵はない。

 暴食王の封印と同じように、聖女が有する女神の力でのみ開閉する。まるで時間が止まってしまったかのように、部屋の中は塵ひとつなく、蔵書などに痛みも発生しない。

 そんな部屋の中に、シエラリーゼはいた。

 一冊の本を、抱きかかえて。

 歴代の聖女しか知らない、聖女しか読むことができない書物。分厚く、豪華な装丁で目も楽しませてくれるそれの存在を、おそらく知っているのは歴代の聖女のみだろう。

 これは初代か、その近辺の聖女が記し残したもの。

 自分より後の聖女のため、必要な知識などを書きとめたものだ。

 そういえば、とても重要なことが書かれているように聞こえるのだが、実際のところは歴代聖女が何かあるごとにしたためた、手記――日記のようなものに近いかもしれない。シエラリーゼもいくつかのことを、自分が理解するために書き留めている。なのでこの本、ページの大半はまだ白紙だった。王の封印がずっとずっと、長く続くはずだったということなのだろう。

 だが、シエラリーゼの次は無い。

 積み重ねられた言葉を、次の世代が見ることは無い。それを大聖堂の関係者は、さぞかし嘆くことだろう。この本、手記の存在を知ったなら、ぜひ翻訳してほしいと願うだろう。

 だがこれを表に出すことは、きっと許されはしない。

 この世界の、この国の秩序が大きく崩れてしまうことが目に見えているからだ。

 なぜならばこれには、聖女がたどる未来が、幾重にも綴られてきているからである。


 聖女の運命。宿命。

 逃れることできない、すでに決められた未来。


 初めてこの部屋に入り、導かれるように本を開いたシエラリーゼ。まだ五つか六つほどだった彼女は、その幼さでみずからの未来を知らされた。こうなるだろう、という予言めいたものではなく――こうしなければならない、という定められた聖女の予定表を。

 だからこそ、シエラリーゼは持ちうるすべてを使って、王子の婚約者の椅子に座った。その先はないのだから、ひと時でも彼を自分のものに、それ以上に彼のものになりたくて。

 世界はバランスを求める。

 安定こそを、欲する。

 すべては表裏だ。

 生には死が。朝には夜が。始まりには終わりが。男には女が。数多のものに対があり、それは神々にすら及ぶ。世界には十二の神がいるが、それらは男神と女神が六人ずつだ。

 ――ここで一つの疑問が出てくる。

 女神ラウシアは、最後に生れ落ちた『十三番目』の女神だ。ならば、彼女の対はどこにいるのだろうか。答えは実に簡単なこと。暴食王を屠るための存在に、屠る相手が対となった。

 相対する暴食王は、零番目の神と呼ばれる存在だった。

 ラウシアが再生と創造を、彼が滅びと消滅を司る。

 二つは常に、世界に存在しなければならない。

 けれど、暴食王を眠らせてしまうと、ラウシアの対がいなくなる。世界のバランスが乱れてしまうことになり、しかしそう神がぽこぽこと生れ落ちることなどあるはずもない。そんなラウシアと同一の存在である聖女もまた、この世界のバランスを乱してしまう『異物』だった。

 異物は、消えなければならない。

 聖女が短命なのは、女神の力に耐えられないからではなかった。


 実に単純な答え。

 ――自害だ。


 世界のために死ぬ。

 世界が求める『帳尻あわせ』のための、犠牲となる。

 それが彼女らが最後にしなければならない仕事で、役目。王の封印をはずし、女神として目覚めた瞬間から、世界を蝕む自分を消さなければならなかった。なぜなら暴食王の、神としての力はほとんどが消えうせていて、もはや彼は人の子となんら変わりない存在だからだ。

 世界にとって『邪魔』なのは女神であり、聖女。

 対が世界に存在しない『女神』。

 シエラリーゼも、暴食王の処刑から数日以内に死ななければならない。

 だが、少しだけその日数を延ばすつもりだった。すぐに死ねば目立ってしまう。できれば彼らが結婚して幸せになったころに、ひっそりと逝こうと計画していた。

 いつどのタイミングで死んだとしても、きっと彼は、セシルは悲しむだろうけれど。

 兄として、妹の死を悲しんでくれるだろうけど。

「だけどこれは、決して『悲しい結末』ではないわ」

 最初から、わかっていた。自分が王妃になることなどありえない。その前に、自分は聖女の宿命に基づいて死ななければならないのだ。それは、婚約する前からもう知っている未来だ。

 何も怖くはない。

 悲しいと、思う時期は十年も前に過ぎた。

 この身とこの心、魂、時間。すべては最愛の王子、誰より愛する彼のために使う。彼が守り続けるこの国と世界のため、彼が守ろうと思う数多のための犠牲になれる。

 そしていつか、こういわれるのだ。聖女シエラリーゼ・フランベルの存在が、かの王の治世を支えたと。聖女が暴食王を滅したおかげで永久の平穏が訪れ、国はようやく解放されたと。

 それは――どれほど甘美な未来だろう。

 彼が王になることを、見れないことだけだ。悲しいのは、それだけだ。最初から諦めることを前提に望んでいた結婚も、それで彼が幸せになれるなら何の問題もないと思う。

「セシル様。……わたくし立派に、立派にあなたの『聖女』になれますかしら」

 知らない世界の知らない誰かのためではなく、愛する人のために聖女は今日も祈る。誰かに言うこともなければ知られることもない、たった一つの願いの成就を。


 彼が、誰より幸せになる未来の。

 その礎になれますように。


 これは些細な嘘だ。

 彼が幸せになるために必要な嘘。

 嘘の結果が何であれ、その未来のためだけに生きてきた彼女には何も関係なかった。結果的に一人の無関係な少女を、彼女が望まぬ場所に縛り付けることになっても。

 彼が幸せで、彼の願いが叶うなら。

 それでよかった。

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