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呼吸を奪う白昼夢

 人の時間は有限だと、王さまは前に言っていた。

 医学の進歩で人は長く生きられるようになったというけど、それでも百年もすればたいていの人が死んでしまう。わたしの故郷でも、最年長は七十そこそこのおじいさんで、そのおじいさんもこちらに来る数年前に無くなってしまった。あのおじいさんより下は、確か十歳以上離れていたはずだから……まだ、彼の年齢に達した人はいないだろう。

 王さまは、それよりずっと古い時代から生きてきた。

 その王さまにとって、百年や二百年はあっという間なのだろう。どれだけ親しくなった相手がいたとしても、目が覚めればすでに存在しなくなっている。見知った光景も、消えていく。

 まるで、生地をぐいっと、薄く薄く引き延ばしたみたい。

 だから王さまは、突き放すように言う。

 わかっている。

 わたしだったら、わたしだったとしてもきっと、同じことをするだろう。もしわたしが王さまの立場だったなら、親しい人なんて作らず、誰も彼もを突き放して一人でいようとする。

 悲しいのは自分だけでいい、なんて気取った言葉で自分を震わせて。

 ひとりぼっちに、身を沈めると思う。

 わたしの時間は有限。あと五十年そこそこで、わたしの時間は終わる。このくすぶるような衝動も消えて、生まれ変わって何もかも無かったことになる。この魂が次に王さまに会うことがあったとしても、わたしは『わたし』を思い出すことはないのだろう。大勢の人と同じように暴食王におびえるばかりで、そして違う誰かの腕にすがって震えているのだろう。

 ……だったら、今はどうすればいいのか。

 この衝動は『わたし』のモノ。

 わたしだけの、モノ。

 今度はちゃんと目を見よう。もう逃げないようにしよう。

「王さま」

 部屋の清掃の間、移動することもこちらを見ることもしなかった王さま。わたしは、その前に立って声をかけた。震えない声で、射抜くように。聞き逃すことを決して許さないように。

 何のようだ、と問いかけるような目をして、王さまがわたしを眺める。

 久しぶりにちゃんと、王さまのきれいな青い瞳を見た。

 あの日からわたし達は、こうして向かい合ったことが無かった。わたしは逃げて、王さまは拒絶していた。それが最善ではないと、きっとわかっていたけれど、それしかできなくて。

 でも、それはただの逃げだ。

 何もしないで背中を向けることは、逃走するのと何も変わらない。

 たとえ何をしても至る結果が同じでも、何もしないで後から悔いるのはいやだ。これから先の時間が有限であるならば、なおさらわたしは後悔の味は知りたくない。

「王さまは嫌がると思いますけど、ちゃんと言っておきます」

 本を読んでいた王さまが、それを閉じて近くのテーブルに置く。

 待ち構えるように、青い瞳がわたしをじっと見ている。

 数回、わたしは息を吸って吐いて。

「わたしは、王さまを好きでいることをやめません」

 ずっとずっと好きでいると、言った。

 わたしを避けることは、王さまの勝手。

 でも、王さまを好きでいることも、わたしの勝手。

 答えろなんていわない、許して欲しいとも思わない。だけど、たとえ誰にも許されなかったとしてもわたしは、この気持ちを捨てたりすることは絶対にしないと決めた。これまで、この思いを頼りに自分の時間を前へ転がし続けてきて、これからも同じことをする。

 この思いは私の一部。

 もう、切り捨てることなんてできない。

「どんな出会いをしても、わたしは『わたし』である限り、王さまが好きです」

 もしもわたしが聖女だったとしても、出会えばきっと王さまを好きになった。この衝動が心の内側にある限り、わたしは、彼以外を自分の内側に招き入れるようなことはしないだろう。

 そう、どんな出会いであったとしても。

「……お前は」

 王さまが、驚きを隠さない声を発する。驚きつつも、飽きれたような目。

 拒絶の色が無いことに、少しだけほっとできた。

 自然と手を伸ばして、触れようとして。


『いつか、もっと違う出会いを……■■■■■さまと、したかった』


 直後、痛みが身体に突き刺さる。

 どうして、こんなに痛いんだろう。全身を引き裂かれるような、掻き毟っているような。ジンジンと響く痛みが、あちこちからしている。痛い、痛い。身体が痛い。心も痛い。

 息すらすえなかった。

 どうしてか、とても息苦しい。

 おなかがいたい。あしがいたい。ぜんぶいたい。

 わたしのぜんぶがいたい。あぁ……ぜんぶいたいいたい。いたいよ。

 視界が崩れるように熔けていく。ゆがんで、違う光景が広がる。

 赤い男が、わたしを見ていた。わたしじゃない『わたし』を見ていた。見下していた。心の底から蔑んで、嫌悪と憎悪の色を浮かべた目をしていた。どうして、そんな怖い目をして彼女をみているのかわからない。ただ、彼女は、そういう目を向けられる意味を知っていた。

 痛みが襲う。ひゅう、と息がこぼれる。

 そういえばずっと、全身が痛かった。嫌なにおいもしている。

 熱いものが、滲んで。

『おぞましい■■め。貴様は見せしめだ』

 男が言葉を発するごとに、彼女の意識が消えていく。消えちゃダメ、と、わたしが必死に思っても届かない。腕を上にあげたまま、彼女は死んだように意識を手放してしまった。

 ずるずると引きずられる華奢な身体は、わたしとそう変わらない。髪だけが、まるで聖女シエラリーゼのように長かった。血と泥にまみれているけど、月明かりにきらめく金色の髪。

 そして彼女は吊るされた。どこかの、城のような見知らぬ場所に。ぼろぼろの、ごく普通の少女が着ているようなデザインの服を赤く染めながら、か細い呼吸を静かに止めながら。


 ――■■■■■さま、どうか幸せに。


 心の中に住んでいる青い人に、そう語りかけながら。

 ばちん、と頬をはたくような痛みが全身を駆け巡って、景色が変わる。見知らぬことは無い場所で向かい合う、誰かと誰か。ほのかなランプの明かりに浮かぶ、二つの色。

 あぁ、これはこの部屋だ。

 そしてあれは、王さまと――金色の髪の、きれいな女性。

『明日が、そうだと決まりました』

 彼女が淡々と告げる。王さまはいつもどおり、少しの反応もしない。だけど、わたしが知らない王さまがそこにいた。いつもどおりのように見えて、でも王さまはぜんぜん違っていた。

 ほっそりとした、いかにもお姫様といったたたずまいの彼女。

 王さまはゆっくりと抱き寄せて、腕の中に収める。

 すらりとした女性の指が、ぎゅう、と王さまの服をつかんだ。

『この心は、ずっと■■■■■さまのもの。二度とあえなくても、あなた以外に嫁ぐようなことは絶対にしません。わたくしは■■だけれど、だからこそあなただけの■■でいたい』

 愛しています、そういってどこかイオ様に似ている女性は、王さまと唇を重ねた。

 好きな人の、違う人とのそういう光景なのに、どうしてなんだろう。わたしはむしろうれしいとすら思っていた。よかった、この二人はちゃんと結ばれていたんだと、喜んでいた。

 もっと見ていたいと思ったわたしを笑うように、一瞬で世界が黒く変ずる。

『――だからというわけか』

 ぽつり、と吐き出される声。

『このような妄言に、我はずっと惑っていたというわけか』

 ドレスとも甲冑ともいえない豪奢な衣装を召す、金髪の女性が立っていた。わたしをにらみつけるようにして、あの赤い男と同じような表情を浮かべていった。

『このようなものは、我には必要の無いゴミだ』

 彼女はわたしに近づくと、腰の立派な剣を抜いて切りかかった。わたしは庶民で、戦うことなんでできるわけがなく、よけようと思う間もあたえられず。右下から斜め上へと切り上げられて、そのまま背を向けて去る彼女を見つめたまま前のめりに崩れ落ちていく。

 これは要らない記憶じゃない、大事な大事な心の一部なのに。

 子供のように、頭の隅で誰かが嘆いている。


 ――これは■■■■■さまへの大事な贈り物、消すことなんてできない。


 その、どうしても聞こえない最初の音は、間違いなく名前なのに。わたしは、その音をちゃんと知っているはずなのに。どうしても聞こえない、どうしても思い出すことができない。

 腕から力が抜ける。身体から、硬さが消える。

 指先だけが、すがるように彼の服を掴んだ。

 その指先が感覚を失っていく。意識がふわふわと、寝入る直前みたいになって。膝から崩れ落ちそうになったわたしを、ふわりと背中に回された腕が抱き寄せるように支えた。

 ――王さまの腕の中に、わたしがいる。

 まるであの光景のように、しっかりと抱きしめている。

 いけない、と思う。

 これ以上は、わたしによくない。

 あと数秒か数十秒か。あるいは数日か。一日か。数時間か。いずれにせよ、こんな関係を結んだところで、どうせすぐに終わってしまう。終わることがわかっている、だからダメだ。

 わたしは強くなれない、強くない。二度と得られないものを、抱えたまま生きていくなんて恐ろしいことを、できるほどの強さがない。彼女みたいになれない、彼女みたいに。

 ……彼女、とは誰だったのだろう。

 それが誰のことか、わたしにはわからない。

 でも無理だということは、同じことができないということだけは、わかっていた。

 わたしには、あんな生き方できやしない。できないってわかっている。なのに、同じものを求めてしまって、与えられた現実にすがりつくようにおぼれていく。

 わたしは、わがままだ。

 もっとずっと、いつまでも。王さまと一緒にいたい。どこかに幽閉されてしまうなら、そこに一緒についていって傍にいたい。この人と離れたくない、誰が何をどうしようとも……。

 そんな、叶うはずも叶えられるはずもない願いばかり。


 ――ずっと、この人と一緒にいられたら。


 わたしの心が、叫んでいる。

 きっと、知らない彼女もそう、願っていたのだろう。

「おう、さま……」

 腕の中で身をよじって、見上げて。

 視線がぶつかった瞬間に、わたしは――その唇に、触れていた。

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