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迷いを捨てて

 迷いがあった。

 ほんの少しだけ、迷いのようなものがあった。


 それは後ろ髪を引かれるようなもので、目に見えている予定された後悔のようで。自分は後悔するだろうと知っていながら、あえてその道に向かっている。そんな気分がしていた。

 時折、やってきてはお茶をする彼女。

 その何も変わらない幼くも優しい笑みを見ていると、浮かべようとする笑みが引きつるようになってしまって、きっとさぞかし不恰好だろうと思った。情けない様だろうと、思った。

 王となる身に、油断は乱れは許されない。

 いつ、いかなるときも心の底をのぞかれてはいけない。

 相手が誰であれ。そう思っていた。

 だけど。

「お疲れなのですね、セシルお兄様」

 にこり、と正面に座るシエラリーゼが笑う。

 ぐらりとした揺らぎを感じ、セシルは頭を軽く振った。

 どうやら、少し眠っていたらしい。

 お兄様、という呼び名に、ほんの少しの違和感を覚える。いつの頃からか、シエラリーゼはそう自分を呼ぶことをしなくなっていた。まるで禁じたかのように、常に様付けだった。

 だが時折、気を許し彼女がただのシエラリーゼに戻った時などには、お兄様、と昔と同じように呼んでくれる。きっと、どれだけ時が流れても、彼女にとって自分は『兄』なのだろう。

 兄にしか、なれないのだろう。

「……どれくらい、時間が」

 目元をこすりながら問う。少しばかり、という程度ではないだろう。ひざの上には毛布がかけられていて、ぬくもりが移ったそれはほんのりと暖かい。

 次第に浮上してきた意識に引きずられ、身体の自由も取り戻しつつある。

 それでも緩慢な動きは消えず、セシルは結局ソファーにその身を沈めなおした。

「大丈夫ですわ、お兄様。まだ半時ほどですから」

 それを見ていたシエラリーゼが、手にしていた本をそっと閉じつつ笑う。テーブルに置かれた小さいベルを鳴らし、おそらく扉の向こうに控えている誰かを呼んだ。どうせサリーシャがくるのだろうと、セシルは思いつつぬるくなったお茶を一気に飲む。

 案の定、音もなく現れたのはサリーシャだった。

「お兄様がお目覚めになったから、お茶を淹れなおすのだけど、あの茶葉はどこかしら」

「あの茶葉、と申しますと……先日ミリアン様よりいただいた?」

「えぇ。すごく香りがよくて、疲れが取れるお茶よ」

「かしこまりました。すぐに持ってまいります。お湯もその時に」

 一通り言葉を交わし終わると、すぐにサリーシャは去った。

 彼女の実家であるシルミア家は、代々シエラリーゼの家、つまりフランベル家に仕えてきた一族だとセシルは聞いている。あのサリーシャも、この家に生まれる女児のために教育を受けてきたそうだ。もしシエラリーゼが生まれていなければ、違った運命があっただろう。

 彼女の存在が運命を決めた人間は多いが、きっとサリーシャはその筆頭だ。

 ゆえに彼女は、シエラリーゼに心酔すらしている。もしこの場で彼女をセシルが殺めるようなことをしたならば、サリーシャは王子であろうと関係なくセシルを殺すに違いない。

 恐ろしいまでの忠誠心は、セシルには少しうらやましいものがあった。

 サリーシャならそうするだろうと思わせる要因は、決してシエラリーゼが聖女だから、フランベル家の令嬢だからという理由だけではない。それもあるだろうが、きっかけだ。

 シエラリーゼだから、彼女は傅き従っているのだ。

 もし何らかの要因でシエラリーゼが聖女でも令嬢でもなくなったとしても、少なくともサリーシャだけはずっと彼女の傍にいるだろう。どれほど身を落とそうとも、必ず。

 はたして、自分にそこまでしてくれる存在はいるだろうか。

 王子という立場をなくしても、それでも一緒にいてくれるような存在は。

「……お兄様?」

「ん、あぁ、いや。なんでもない」

 ぼんやりとしていると、シエラリーゼに声をかけられた。

 いつの間にか彼女の手元には茶器がそろい、いい香りが室内に満ちている。まだカップは空っぽだったが、もうまもなくポットの中身が注がれるのだろう。

「どういうお茶なんだ?」

「はい。ミリアン様という商家の方がお父様のお知り合いにいて、あちこちからいろんなお茶を買い付けては届けてくださいます。これもそのひとつで、疲れに利くそうですわ」

「そうか……」

 そんな会話を交わす間に、シエラリーゼはお茶の準備を続けていく。まもなく、深い黄金色のみなもが揺れるカップが差し出された。口元に運ぶだけで、いい香りを味わえた。

 疲れが取れる、ということだが、とりあえず飲みやすくはあった。

 薬くさいということもなく香りだけがいいということもなく、実に飲みやすい。

「……意外と、おいしいな」

「でしょう?」

 ぱぁ、と笑みを浮かべるシエラリーゼは、どこにでもいる少女だった。

 その両肩には、もしかすると王子である自分以上の重みが、容赦なくずっしりとのしかかっているかもしれないのに。だけど彼女は笑みを絶やさず、その重みすら己の役目と享受して。

 その強さが――まぶしくもあり。

 時に、苛立ちにもなる。

 あのようになれるかわからない、という焦りを産む。

 安心できた、まだあの少女――ラキの方が。何も考えずに傍にいられる。確かにシエラリーゼの方が身分もそれ以外も王妃にふさわしいのだろう。だけど妻にふさわしいのは、きっとラキの方だ。イオというただの一人として過ごす時間はかけがえが無い、失いたくない。

 昔は、フランベル家で兄妹と遊ぶことが、楽しかった。兄弟がいないセシルにとってシエラリーゼは妹のような存在で、お兄様、と呼ばれることがうれしくてたまらなくて。

 だけど今は違う。

 そう呼ばれるたびに思うのだ。

 あぁ、彼女にとって自分は兄でしかない。

 そして同時に、自分にとってもやはり彼女は『妹』なのだ、と。暴食王を殺し、彼女との婚姻が成され、いつか子供を授かっても。互いに互いを『きょうだい』としかみなせない。

 互いに王と王妃にしかなれないという未来は、どう考えても歪だった。


「なぁ、シエラ」


 そんな未来を回避する方法が、ひとつある。

 きょとん、とこちらを見るシエラリーゼにある願いを、口にすればいいだけだ。

 何を、迷う必要があるのか。

 そう――別に、それでさよならというわけではない。

 彼女は親友であり側近となるクリアの妹で、それ以上に暴食王を滅した聖女だ。王妃とならぬ身になったとしても、ずっと目の届くところにいることは間違いない。

 何も変わりはしないのだ。

 クリアがいて、シエラリーゼがいて。そこに彼女が加わるだけ。

 たったそれだけのことじゃないか。何も変わらない。自分が大事に思う日々は、これからもずっと穏やかなに流れていくことが決まっている。王さえ滅すれば、その未来は確約される。

 暴食王を滅することで手に入れた『貸し』を手に、この願いを叶えよう。

 それくらいの願いは、叶えられるに違いない。

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