気持ちの名前
花、どうしようかな。
塔の中に戻って、上に浮く前に一度わたしは自分の部屋に寄っていた。目立つから、とりあえず部屋においていこうと思ったからだ。……でも、なかなか移動を再開できない。ベッドに腰掛けたまま、ぼんやりと花を握った手元を見てはため息ばかり。
考えたことなんて、なかった。
自分が誰かの恋愛対象になることなんて、ないとすら思っていた。色気があるわけでも権力や財力があるわけでもない、どこにでもいる庶民の自分は、いくらでも替えが聞くと。
一人娘だし、両親はそれとなく結婚することを求めているようだった。こっちに来ることをいわなかったらきっと、今頃はお見合い三昧だったか、もう結婚していた可能性があった。
あの衝動を抱えたまま結婚しても、どうせうまくはいかないだろうけど。あれがある限りわたしはきっと、誰かを一番にすることなんて考えることもしないから。
だから――断ることは決めている、決めているけど。
少し、見てしまった。今後のことを、見ないようにしていた『明日』のこと。時々忘れそうになってしまう、今の生活は『明日』消えてしまう可能性もある、幻のようなものだと。
わたしと王さまは、一緒にいられない。
衝動が満足していられるのは、そんなに長い時期じゃない。
本当に『明日』いきなり、消えてしまうかもしれない……つかの間の幸福。
それを失った先、わたしはどう生きればいいのだろう。
この衝動は恋愛感情に近い。それの『代わり』になれるほど、強い。そんなものを抱え込んだ女を娶ってくれる人がいるとは思えないし、いてもきっと耐えられなくなるだろう。
結局、わたしは一人だ。
彼がいなくなってしまったら、たった一人。
その『寂しさ』を、イオ様は埋めてくれるのだろうか。ううん、違う。彼に、埋めさせていいのだろうか。あの人は優しい人だ、すばらしい人だ。わたしなんかのために犠牲になっていいひとじゃない、絶対に。それに貴族って、確か子供の頃に婚約とか決まっているはずだ。
あんなすばらしい人なのだから、きっとすごく素敵な人がお相手なのだろう。
そして、すごく素敵な人でなければ、お相手としてつりあわない。
……わたしじゃ、無理だ。
「断らないとね」
言い聞かせるようにつぶやいて、わたしは立ち上がる。花に罪はないので、あとで適当に一輪挿しを探して、飾っておこうと思う。リボンは――何かに再利用しようかなとか。こういうところが実に貧乏くさくて、改めて貴族様の奥方には向いていないと思った。
部屋を出て台所に向かうと、ちょうど三人ともがそこにいた。
ユイリックは足りなくなった薪を運んできていて、残りの二人はお菓子作り中。
「あ、ラキちゃん。あのね、お茶を王さまに届けてほしいの」
「あたし達って、ほら……手ぇ、ぐっちゃぐちゃだから」
「わかった」
ごめんねっ、とお菓子の材料にまみれた手を合わせ、片目を瞑るラヴィーナ。二人はどうやらパイ生地か何か、面倒なものを作っているらしい。いつもの、焼き菓子ではないみたいだ。
ジャマをしないように、茶器類を引っ張り出していく。
お湯を小さいやかんに移して、台所を出た。ユイリックは下でいろいろ作業中らしく、かすかに物音が聞こえる。イオ様のあれさえなければ、ありふれたここでの日常以外の何者でもない時間が、静かに流れていた。いっそ、あれが夢であればいいけど、そんなことはない。
「――王さま、お茶をお持ちしました」
ノックすることができず、少し大きめの声を発する。
しばらくして、王さまが扉を開いてくれた。
ここは王さまが普段寝起きする寝室。簡単なテーブルなども整っているから、時々ここでお茶を飲んでいることがあった。もちろん、お茶のお供は読書。見れば、ベッドの脇に数冊の本が積みあがっている。わたしだったら一ヶ月以上かかりそうな量、でも王さまなら数日だ。
「濃い目がいいですか?」
「……あぁ」
「わかりました」
テキパキとお茶の準備を整える。王さまは、いつもなら読書を再開するけれど、今日は椅子に座ったままこっちをじっと見ていた。表情は少し険しく、機嫌がよくなさそうな感じだ。
何ともいえない緊張感。
それでもわたしは、どうにかお茶を淹れ終わる。
「じゃあ、これで失礼しますね」
「おめでとう、と――今のうちに、言った方がよいか?」
立ち去ろうとしたわたしに、思わぬ声がかけられた。
振り返ると、王さまがこちらを、うっすら笑みを浮かべつつ見ている。
「あ、の……?」
「求婚をされていたのだろう?」
昔と作法は変わらないな、と。王さまが告げた言葉で、わたしはイオ様とのことを見られていたことを知る。ここから見えないから、きっとリビングからだ。
見られていた上に、その意味まで知られていた。
嫌な味が、口の中に広がった気がする。
「ち、違うんですっ、あれは」
あれは――何なのだろうか。どうしてわたしは、必死に王さまに『言い訳』をしているのだろうか。知られたことで、驚いてあせってしまっているのだろうか。
「何を迷うことがある。あれは――確かに、身分ある男だろうが。しかし、お前一人を守れるだけの力はあろう。そうでなければ、身分の違う娘に、求婚などするはずもない」
「で、でも」
「我はお前が何を思い、我の傍にいるのか知らぬ。知ろうとも思わぬ」
「おう、さま」
「何故ならば我は、お前を欲していないからだ。我が欲するは一つ。たった一つ。それはお前のことではない。人の子の時間は有限、ならばこそ目先の幸福に縋ることも許されよう」
そんな、ことを。どうして。
いろいろ言いたい言葉が浮かんでは、消えていく。
王さまが言うことは、正しい。きっと正しい。イオ様が差し伸べる手を掴めば、確かにわたしは幸せになれるだろう。飢えることもなく、贅沢な生活を送ることができるだろう。イオ様はわたしを大事にしてくれると思うし、もしかしたら子宝に恵まれるかもしれない。
でも。
わたしはそれでも、きっと彼を一番にはできないだろう。
「無理です、よ」
大事にされるほどに悲しくなり、愛されるほど死にたくなる。わかっている。知らないけれどわかっている。わたしは、そんな『妥協』ができるほど、大人にはなれないから。
「わたしが、ずっと一緒にいたいのは……たった一人、ですから」
まっすぐに、わたしは王さまを見た。
あの衝動をなんと呼べばいいのか、まだ答えは得られていない。でも、きっと今抱いている感情のことを、ミィやラヴィーナやユイリックは、こう名づけるだろうと思う。
わたしは、数週間前にあったばかりの暴食王に――恋をしている。




