傅いて、手をとって
日常は過ぎる。
時間は、普通に流れていく。
カディス様とミィは、なぜか以前と同じような感じになっていた。というか、二人はそのつもりなのだろうが、周囲はたぶん誰もそうは見てくれないだろうとわたしは思っている。
というか、時々目を合わせてはふっと微笑むカディス様と、そのたびに真っ赤になって俯いているミィという組み合わせは、どうやっても以前の二人とはいえない。何というか、ごちそうさまといった感じだ。見ているこっちが真っ赤になりたいし、俯きたいほど。
……まぁ、いいと思う。
あんな冷たい雰囲気よりは、いい。やっぱりミィは笑っている方がいいし、カディス様もゆるく微笑んでいる方がずっと魅力的だと思う。本当に、こうなってよかったと思う。
それにしても、あの日、王さまはカディス様に何をしたのだろう。
わたしが見ていた範囲では、あの夕暮れ前に何かあった、と思うのだけど。まぁ、でもカディス様にはご家族がいるのだから、実家で何かあったのかもしれないし。だけど王さまの妙に上機嫌という感じの笑みが、なぜか忘れられなかった。王さまが笑ったから、だろうか。
「……」
思い出してしまう。
ふっと浮かべたあの笑みを。そもそも、王さまが表情を変える、ということそのものがわたしにとってはなぜかとても驚きに満ちていて、ましてやそれが笑みとなると心がざわめく。
すっと細められた瞳。
口角が上がり、ゆるく曲線を描く唇。
たった、それだけのこと。なのにみっともないほど、むしろバカなほど、わたしは自分の頬に熱が集まっていくのがわかっていた。なにせ、ミィやラヴィーナに指摘されるほどだ。余計恥ずかしくて、しばらくみんなの前から消えてしまいたい。無理だけど。
厄介なのは王さまに、直接会いに行かなきゃ行けない時だった。
寝起きの王さまは、結構かわいいというか……普段と違ってぼんやりしている。
食事はいらないといっていたけど、睡眠は必要なのか、王さまは割りと規則正しい生活を送っていた。大体同じ時間に眠りに向かって、起こす時間も決まっていて。おそらく、たぶんだけれど睡眠そのものも、たぶん必要ないのだろうと思う。でも眠ることはできてしまう。だから寝起きという現象が生まれて、それによりぼんやりすることになってしまうのだ。
ぼーっとした王さまは、どこかかわいらしく見えた。
無論、わたしだけ、の感覚だけど。
いやどこがかわいいのかあたしにはわからない、とラヴィーナにも言われた。でも何だか気になってしまうというか、心がざわざわしてしまうのだから、仕方がない。
そんな具合に、わたしの方は絶賛荒れ模様だった。
この塔にいる以上、わたしが落ち着く日はないのかもしれない。
……でも、ずっとこのままでもいい、なんて。そんなことも思っていた。この乱れがあるのは王さまが傍にいる証で、いなくなればきっと消えてしまう。残るのは空っぽの隙間。二度と埋まらないその穴に耐えられるのか、わたしは自分のことなのにわからなかった。
考えるのが、やっぱり怖い。
怖いから、考えたくない。
「……あーあーあー。大丈夫、わたしは平気だ」
頭で言っても聞かない意思を、声を使ってねじ伏せていく。声に出して、自分に暗示を書けるように言い聞かせれば。何とか今日一日ぐらいは、普通のままでいられるから。
わたしはしばらくブツブツ、人には見せられない姿を晒した。
それから足元に置きっぱなしだった洗濯物、シーツを引っ張り出す。そう、わたしはまだお仕事の真っ最中。今日は天気がいいので、裏庭の隅っこでこっそりと洗濯物を干すのだ。
裏庭の隅っこだけど、そこそこ日が入る。
ちなみに普通だったら、中庭に面する渡り廊下などにばっさばっさと干していた。特にシーツ類は場所をとるので、そこしか満足に干せる場所がない。風の通りがいいのですぐに乾くので一日にたくさん干すことができて、召使は取り込んだりするのが忙しいけれど。
ここは、それに比べるとまったりとしている。
ばさばさと音を立てて揺れる洗濯物を、ぼんやり見つめるだけの余裕がある。
わたしは、こういう光景を見るのが嫌いじゃなかった。がんばった、というのを確認できるから何だか嬉しくなる。普段の生活じゃ、それをかみ締めるまもなく『次』だったから。
さて、後は洗濯に使った道具などを洗わなきゃ。
そう思って揺れる白に背を向けると。
「ラキ」
「……イオ、様?」
こっちに向かってくる、彼に気づく。
いつも通り、ぴしっとした格好をしていたイオ様。だけど、今日はちょっと、いつもよりも豪華という感じがした。装飾が多いし、外套なんかを羽織っている。一瞬、面食らうような感覚に襲われたけど、すぐにそのいでたちの意味を理解した。あれは確か――正装だ。
貴族とか、上の身分の人が公式な、重要な場所で身に着ける装飾品。
時々開かれる夜会で、ああいう格好をした人をよく見かける。
イオ様は、そんな格好のまま、なぜこの裏庭に来ているのだろうか。決して綺麗とはいいがたい場所だから、せっかくのお召し物が汚れてしまうかもしれない。それはよくない。
「あの、どうして……」
「君に言いたいことが、あるから」
そういって、イオ様は後ろ手に隠していた『それ』を、わたしに差し出す。
それは、ラウシアの花だ。
かの女神を含むすべての神々が、それぞれに象徴として持つという花の一つ。イオ様が差し出したのはラウシアの花で、かわいらしいリボンを纏っていた。
この花は、女神の象徴であるのでとても好まれる。
でも、日常に使うものじゃ、なかった。
結婚式や、子供の誕生といった、何らかの祝い事に使う花。
そして――求婚にも、使われる花だ。
その中でも特に貴重な薄桃色の一輪にリボンを結わえ、思う相手に渡す。それが庶民が行う一般的な求婚方法。ラウシアの花を使わなきゃいけない、ということはないけれど、ほとんどの場合がこの花を使っているという。それは、貴族の間でも広まっている風習の一つで……。
「意味は、わかると思う」
「あ、あの」
「ラキ、僕と結婚してほしい。君に生涯の愛を誓う」
花を差し出しながら、イオ様は跪いた。
庶民の、身分が低い私に――明らかに貴族であろう、彼が。
さすがに落ち着いてはいられない。思わず周囲を見回したが、誰もいなかった。そこにほっとしたような、むしろ誰もいないということに困ったような、奇妙な感覚を覚える。
とにかく、立ってもらわないといけない。
「い、イオ様っ」
「僕は本気だ」
と、彼は半ば押し付けるように花を渡してきた。もったいない、という庶民感情からか思わず受け取ってしまい、頭の中で誰かが呆れながら『あーあ』とため息と苦笑を漏らした。
そう、ここで受け取ってしまうのは、求婚を前向きに検討する意思表示。
ほとんど了承したに等しい。
さらに跪く相手のキス――といっても手の甲だけど、それを受け入れることが、検討以前に何の問題もありません結婚しましょう、という意味合いになる。なお、その場で断る場合は花を受け取らずに立ち去ればいい。わたしがすべきは、その選択であったはずだったのに。
あぁ、でも受け取っただけですんだのは、幸いだったかもしれない。
せっかくの花、もったいない……し。
あくまで前向きに検討してみる、という意味合いであって、断れないわけじゃないし。
「返事は、今の仕事が終わってからで構わないよ。君があの王から、自由になったら。その時に改めて返事を聞かせてほしい。だから、考えておいてね。……待ってるから」
「え……?」
立ち上がったイオ様は、軽く草などを手で払った。そしてわたしをみて、笑う。彼は貴族で偉い身分なのだろうと思っていたけど、もしかして王さまのことまで知っているのだろうか。
それを問う前に、彼は笑みを浮かべてわたしに背を向けた。そして、その場に残ったのは揺れる洗濯物と、リボンを結わえた花を手に途方にくれたような気持ちになったわたしだけ。
考えておいてね、という声だけが――わたしの中に、響いていた。




